いつものベンチ。白いベンチ。
 宏はいつものようにそのベンチに腰を下ろした。目の前に広がる川の水面はたくさんの宝石が輝いているようだ。川に沿って作られたこの公園には遊具らしい遊具はブランコしかないため子供たちもほとんど遊びに来ない。
 宏はかばんから本を取り出した。栞のあるページを開く。しかし本の表面には木漏れ日が反射して文字を読むことができなかった。どうやら今日はいつもより時間が早いようだ。普段通りの時間ならば陽がもう少し下がっていてこのベンチは完全に影に覆われる。
 宏は顔を上げた。目の前には眩しい川。そして向かい側には白くて大きな家が建っている。宏はこちらを向いている窓のうちの一つに目を向けた。レースのカーテンは閉じている。
「はあ。」
 宏は大きく息を吐き出しながら身体をぐっと伸ばした。爽やかな緑の風が体の中を駆け抜けていく。

 毎日のおやつ時の散歩。これが宏の日課である。目的は白い大きな家にいる少女だ。
 宏の家から白砂川をはさんだ向かい側には大きな屋敷が建っている。そしてその屋敷にはある一人の少女がいる。年は二十歳くらいだろうか。少女の部屋はあの一番右上だ。そしていつも同じ時間にレースのカーテンを開いてこちらの川を見下ろしてくるのだ。
 宏が初めて少女を見つけたのは一週間ほど前のこと。何気なくこの川のほとりを歩いていたらあの大きな屋敷の窓に人影を見つけた。遠いし窓自体もしまっているのではっきりとは分からないのだが間違いなく人がいる。なぜだかは分からないが宏はその少女に魅かれた。名前も知らない少女。話したことも無い少女。長い髪の少女。

 視界の端に右上の窓のカーテンがゆれる姿が映った。反射的に顔を向ける。しかしそれは気のせいだったようだ。カーテンは開かない。
 宏は再び本を開いた。今度はもう眩しくない。今読んでいるのは恋愛小説だ。表紙に魅かれておもわず衝動買いをしてしまった。今は主人公の青年がある女性と出会ったところ。要するにまだ初めである。
 どれくらいの時間がたっただろうか。公園に小さな子供がやってきた。ショートヘアーで白いワンピースを着た5歳くらいの女の子。女の子はブランコへと一直線に走った。待ちきれないのか必死に走っていく。そして、案の定というべきか、体が心についていかなかった。
 ズサァ。
 派手に転ぶ。顔から綺麗にダイブした感じだ。女の子はムクリと起き上がるとその場に座りこんだ。真っ白だったワンピースは茶色い砂埃で汚れてしまっている。泣くだろうな、と思った。しかし女の子はスッと立ち上がるとブランコへと再び走り出す。膝には血がにじんでいた気がする。女の子はようやく目的地へとたどり着くとブランコに腰掛けた。地面をける。ブランコはかすかに揺れた。膝を曲げてこごうとするがどうもタイミングが合っていない。ブランコはまたその動きを止める。女の子はまた地面をけった。膝に血がにじんでいることなど関係がないようだ。またブランコは止まる。また女の子は地をける。またブランコは止まる。また女の子は地をける。今度こそはもっと続くようにと。
 どれくらい女の子のことを眺めていたのだろうか。ふと女の子と目が合った。こちらを見つめる小さな二つのビーダマ。川の水面のような輝きを湛(たた)えた瞳。宏は笑ってみせた。女の子も笑って返してくれた。女の子はブランコから降りるとこちらへと近づいてきた。最初のときのように全速力でかけてくる。膝から出ていた血は固まっているようだ。
「こんにちは。」
 開口一番そう言った。
「こんにちは。」
 宏も同じように返した。
「美理、美理。お兄ちゃんはだれ。」
「僕かい。僕はね宏っていうんだ」
 女の子、美理は瞳を大きくする。
「宏君のお兄ちゃん?」
「いや、多分違うよ。」
 美理には宏という友達がいるのだろう。
「宏君ってお友達がいるのかい?」
「うん。美理ね、宏君のこと大好き。大きくなったら結婚するの。」
「そうかい。」
「うん。」
 笑顔がはじけている。おもわずこちらまでつられてしまった。
「ねえお兄ちゃん。」
「なんだい。」
「ブランコ、やろう。」
 そう言って今自分がやってきた方向を指さす。誰にも乗られていないブランコがポツンと立っていた。
「ね、やろう。」
 本を持っていないほうの手を引かれる。美理の力は弱く、両手で引かれても宏の身体は微動だにしない。
「や、ろ、う、よ〜。」
 今度は体重をかけて引っ張ってくる。さすがにこれには宏の身体も引きずられた。
「分かった分かった。」
 宏は本を置いてゆっくりと立ち上がった。美理が後ろ向きに転ばないように。
「押してあげるよ。」
「うん、じゃあ行こう。」
 美理は再び全速力でブランコへと駆けていく。宏はそのあとをゆっくりと追った。ブランコまでの短い距離が一瞬で縮まる。
 美理はもうブランコに腰掛けていた。こちら側を見ながらそわそわと身体をゆすっている。
「速く。」
「はいはい。」
 小走りで美理の後ろ側に回った。美理の背中に手を当てる。美理の背中は宏の両手には小さすぎた。軽く上下にずらして手を当てる。
「いくよ。」
「うん。」
 軽く、しかし手にはぐっと力を入れて押し出す。美理も同時に地面をける。すぐに戻ってきた。もう一度押し出す。美理は闇雲に足を折り曲げていた。
「美理ちゃん。」
 なあに、と振り返ろうとする美理を制する。
「ブランコが前にいくときに足をまげて戻るときに足を曲げるんだよ。」
 やってみる、と美理は言った。
 ブランコにあわせて前へ、後ろへ、曲げて、伸ばして。美理の体が少しずつ空へと近づいていく。
「たかぁい。」
 運動神経がいいのだろうか。美理は早くも足を曲げるタイミングを完全につかんでいる。宏がブランコを押し出すのにあわせて膝を屈伸させ、戻るときに足を伸ばす。宏はブランコの後ろから離れた。
「その調子でやってごらん。大丈夫なはずだよ。」
「うん。ありがとうお兄ちゃん。」
「それじゃあ僕はあのベンチにいるから何かあったら言ってきなよ。」
 自分でもなんでこんな台詞が口から出てきたのか不思議だった。自分の仕事はあの窓を見ていることのはずなのに。
「うん。わかった。」
 笑い声と返事が入り混じった声が近づいては離れていく。宏はまたゆっくりとベンチへと戻った。
「お兄ちゃん。」
 しかしすぐに美理の声がした。開きかけた本をまた閉じる。
「どうやって止まるの。」
 美理の身体はものすごい高さまで上げられるようになっていた。
「こぐのを止めればそのうち止まるよ。」
「分かった。」
 美理は足を伸ばしたままで膝を曲げるのをやめた。だんだんと振り子の幅が縮んでいく。そして揺れがほとんどおさまったところで、トン、とブランコから降りた。
「えへへ、美理上手?」
「ああ、すごく上手だ。お兄ちゃんビックリしたよ。」
「遊ぼう。」
 話の脈絡などお構いなしに手を引かれた。小さな二つの手が宏の大きな手を包み込む。美理はすでに後ろを向いて宏の手を引こうとしていた。
「ちょっと待って、美理ちゃん。僕、ここにいなくちゃいけないんだ。」
 あの少女を見たいから、などとは言わない。言っても仕方がないことだし、関係ないことだ。
「遊ぼうよ、美理のお家行こう。」
「だから、僕はここにいないといけないんだよ。」
「美理のお家、すぐそこだよ。あれ。」
「近くても・・・。」
 言葉が途切れた。
 美理の指差した先。そこは紛れもなくあの家だった。少女のいる家。
「ねえ、行こう。」
 美理の手の感覚が不意に戻ってくる。小さな二つの手のひらの感覚。
 宏は少しだけ考えて、
「行こうか。」
 と言った。


 真っ白い大きな家。川をはさんだ向かい側にはいつも座っているベンチのある公園。
 ここまで来るのは簡単だった。近くの橋を渡るだけ。なんで今までここに来なかったのか宏は自分で自分が不思議になった。
「大きいでしょ。」
 美理がくるりとこちらに振り向く。美理にはここまで先導してもらっていた。初めて会ったときのように全速力で。息が切れていないことからもここがどれほど近い場所にあったのかを知ることができる。
「うん。遠くから見てても思ったけど、近くで見たら余計に大きく感じるね。」
「美理、このお家だぁい好き。」
 えへへ、と顔を綻ばせる。自分と同じ意見を持ってもらえて嬉しかったようだ。
「じゃあ、入ろう。」
 美理は再び宏の手を取ると玄関に向かって走り始めた。宏はおとなしくそれに従う。真っ白な扉の前に立った。ガチャリ、とノブが回る。鍵はかかっていなかったらしい。
「たっだいまぁぁ。」
「お邪魔します。」
 美理の大きな声と宏の少し小さめの声が玄関から吹き抜けへと響いていく。やがてそれは小さくなっていって、消えた。
「こっちこっち。」
 美理は靴を脱ぎ捨てると階段に足をかけて宏を呼ぶ。宏は乱雑になった美理の靴を揃えると自分の靴もその横に揃えておいた。象と蟻のような大きさの違いに思わず苦笑がもれる。
「こっちー。」
「はいはい。」
 見上げると美理はすでに二階へと上がっていた。手すりからこちらに身を乗り出している。宏は慌てて階段へと向かった。階段を上がりきると美理はもうそこには居ない。なんだか妖精とおにごっこをしている感覚に包まれる。
「お兄ちゃん。」
 美理はある扉の前に立っていた。あの部屋が美理の部屋なのだろう。
「ここが美理ちゃんのお部屋かい。」
 美理はただニコリと笑った。
 部屋の扉が開かれる。
「うわぁ。」
 モコモコ。フワフワ。あたり一面にさまざまな生物たちが折り重なっていた。呼吸をしていない『ぬいぐるみ』達。
「凄い量だね。」
 軽く十畳はあろうかという部屋の床一面がぬいぐるみで覆われていた。
 ドンッ、と背中を突き飛ばされた。
「うわっ。」
 突然の事に体がついていかずそのまま床に倒れこむ。宏の体はぬいぐるみ達に受け止められた。
「えへへ。」
 背中の方から笑い声が聞こえてきた。
「ここ美理のお部屋。」
 すごい?と声が降ってくる。宏は倒れたまま体を反転させて美理を見上げた。
「うん。すごい。こんなにいっぱいのぬいぐるみを見たのは初めてだよ。」
「でしょー。」
 美理はニシシと笑う。
「これぜぇんぶ美理のお友達だよ。このこがクチャちゃんでこのこがシャムちゃん。」
 美理はぬいぐるみを手に取りながら名前を声に出す。なるほど、孔雀がクチャちゃんで猫がシャムちゃんらしい。美理は部屋の扉を閉めた。
「さあ、お兄ちゃん。遊ぼう。」


 家には今だれも居ないらしい。
「パパもママも夜にならないと帰ってこないよ。」
 お姉ちゃんは?という質問に美理はお姉ちゃん?と答えた。
「はい、お注射しましょうね。」
 今まさにパオ君に注射がされようとしていた。この場で一緒に遊んでいるものにしか見えない注射器を使って。ちなみにパオ君は象のぬいぐるみである。
「はい、泣かずによく頑張りましたね。」
 えらいえらいと頭をなでる。僕は少し照れたような仕草をさせた。パオ君は頭を押さえて体を横に揺らした。
「じゃあ次はお兄ちゃん。」
「僕?」
「うん。さてさて、どこが悪いんですか。」
 美理は宏の目の前に来ると聴診器を構えた。
「はい、胸を出してください。」
 宏は美理に言われたままにシャツの前を持ち上げる。そこに美理がプラスチック製の聴診器を這わせていく。なんだかひんやりとして少しくずぐったかった。
「どうですか、お医者さん?」
「そうですねぇ。」
 ムムムと眉間にしわを寄せる。
「これはアイス食べたい食べたい病ですね。」
 聞いたこともない病名が返ってきた。
「アイス食べたい食べたい病?」
「はい。アイスが食べたい病気です。」
 美理はそう言って笑みを浮かべる。
「だから今からアイスを食べに行きましょう。」
 言うが早いか美理は立ち上がるとそのまま扉へと向かう。そしてしりごみしている宏を横目にパタンと扉を開いて閉じた。静寂。パタンと扉が再び開いた。
「行くよ、お兄ちゃん」
「あ、うん。」
 情けない返事だなと思いつつシャツの前を下ろしながら立ち上がる。そして美理のいる扉へと足を運んだ。途端、目の前で扉がパタンと閉まった。
「美理ちゃん?」
「あいことばを言いなさい。」
「合言葉?」
「そうです。そしたらこのドアは開きます。」
 無常にも閉まったドアで隔てられた二人の距離はほんの50センチ。しかし閉まったドアの効果は大きい。これでは相手がどんな表情をしているのかすらもわからない。
「ひらけごま。」
「ぶー。」
「山。」
「ぶー。」
「美理ちゃん。」
「ぶー。」
 思いつくままに言葉を上げてみるがどれも当たらない。さすがに知り合ってすぐの少女の考えが分かるほど宏の洞察力は鋭くなかった。
「美理ちゃん、ヒントを頂戴。」
「ヒント?」
 扉の向こうでは美理は首を捻っているのだろうか。
「そう。さすがにヒントも何もなしじゃ分からないよ。」
「ヒント。ヒントはねぇ・・・あいことば。」
 思考回路が一瞬停止してまたフルスピードで回転を始める。
「だから、合言葉のヒントだよ。」
「だからあいことば。」
「合言葉が合言葉のヒントなの。」
「うんそう。」
 美理が宏の言う事をよく分かっていないのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。美理は美理なりのヒントとして「合言葉」と言っているのだ。合言葉、あいことば、アイコトバ、aikotoba、あい言葉。・・・合言葉。
「合言葉!」
「なにが?」
 そうやら違うらしい。さすがにヒントで答えは言わないよな、もとより俺、何度も「合言葉」っていってるし。と自分で自分にツッコミをかます宏。
「まぁだぁぁ?」
「ちょっと待ってよ。」
 こうなったら意地である。たまには動かしてやらないと脳もだめになってしまうだろう。
「カエル。」
「ぶー。」 
「ブランコ。」
「ぶー。」
「ぬいぐるみ。」
「ぶー。あと二つね。」
 次の言葉を紡ごうとしていた宏の口が止まる。
「二つ?」
「うん。お兄ちゃんなかなか当たらないんだもん。」
 ずばり、言われてしまう。確かにこのまま続けたところで何にもならない。もとより宏のボキャブラリーがいつまで続くことか。
「さあさ、なぁに、なぁに。早っやくしないとアイスが溶けちゃう〜♪」
 結局のところ美理は早くアイスが食べたいだけのようだった。
 ヒントはあいことば。それでいて美理の好きそうなもの(だろう)。ここに来てから目に入ったもの。この家を見ていて視界に触れたもの。その全てをゆっくりと思い出す。
「はやくー」
 わけにはいかないようだ。
「アイス」
「ぶー。あとひとつね。」
 仕方がない。これだけはないだろうと思っていたとっておきを出すしかないようだ。宏の肩に力が入る。そして、扉の前で高らかと叫んだ。
「あ、いーこ、鳥羽(あ、良い子、鳥羽)」
 扉が開いた。
「え、嘘!あたり?」
 内開きの扉を少し下がって避けつつ目の前にいるだろう美理を探した。美理は立っていた。きょとんとした表情で。
「お兄ちゃん、なぁに、それ。」
「いや、いいんだ。忘れてくれ。」
「鳥羽ってだぁれ?」
「僕の昔のお友達。」
「ふぅん。」
 鳥羽。昔、やつとは良く競ったものだ。徒競走からお弁当を食べる速さまで。そしてよく合言葉といってはからかっていた。
 懐古をしているとクイと服を引かれた。
「行こう。」
「あ、ごめんごめん。うん行こう。」
 美理は僕の言葉の末端が大気に消えゆくか否かというところですでに駆け出していた。
 後を追うと、最初に上った階段を駆け下りる足音が家中にこだましている。階段を降り、足音を追う。玄関から階段に向かって左手にそれは向かっている。広い家とはいえ迷うことはないはずだ。人様の家を下手に探索するのも嫌な感じがするので、そのまま真っ直ぐ美理を追った。
「こっちだよ。」
 角を折れると美理が冷蔵庫の前で待っていた。クイクイと手を振る。
「美理、一番。」
 何かを期待したような眼差しが宏の目を見据えた。
「すごいね、美理ちゃん。速い。」
 頭をポンポンとしてやる。キュッと目を細めた。
「食べよう。」
 美理は冷蔵庫の引き出しを開けた。中からモワッといんちきおじさん、もとい、冷気が立ち上がる。中には大量の冷凍食品と水色のソーダアイスが五本入っていた。美理はその中から二つを取り出すと片方を「はい。」と宏にさしだした。「ありがとう。」と言って受け取る。美理はグッと引き出しを押した。冷気が収まった。
 早速透明の袋を破ってアイスを口に含んだ。カキ氷を食べたときのような軽い頭痛が起こる。
「キーンってするけど、おいしいね。」
 すでに口の周りをベトベトにしながら美理が笑っていた。
「うん、冷たくて美味しい。」
 そうこうしているうちにも溶けたアイスが手を汚す。
 しばらく二人でペロペロチュッチュとやっていた。

 
 夜の帳がおりてきた。二人は裏庭に出て川を眺めていた。陽の光を受けて煌めいていた水面は漆黒の闇へと変化をとげていた。蚊が飛んでいるが豚さんが口から煙を出しているから刺される心配は少ないだろう。宏も美理も何も言わなかった。そこには疲労や至福や焦燥や期待や怒りや悲しみや眠気やいろいろなものが渦巻いていた。
「お父さん達、遅いね。」
「うん。まだまだ帰ってこないよ。」
 宏は結局ずっとこうして美理と遊んでいた。トランプや積み木や洋服発表会。果ては晩御飯を二人で作ったりもした。チャーハン。ご飯も炊いてなかったし米さえなかった。美理に聞くとすっと戸棚からレンジでチンするご飯をとりだした。冷蔵庫には冷凍食品しかなかったので二人で買い物に出かけた。スーパーでニンジンやらたまねぎやら必要なものを買った。美理はスーパーに来たのは初めてだといってしきりにキョロキョロしていた。帰ってから包丁のありかを聞いた。美理も知らなかった。二人で台所のありとあらゆるところを探した。もう人様の家、といった感覚は宏から失われていた。見つけた。包丁。茶色い包丁。必要そうなものを書き出して、もう一度包丁と足りないものを買に出かけた。
 ご飯をチンして野菜を切ってフライパンで炒めてチャーハンを作った。美理は宏がたまねぎを切るときに横から覗き込んでボロボロと涙を流していた。二人で食卓に着く。台拭きで机を拭くと机は光を取り戻した。その上にお皿とコップを載せた。完成。
 美理がスプーンでチャーハンをすくって口元に持っていった。アーンとあけてパクリと食いつく。正直料理に自信はなかったが美理は「おいしい。」と言って目を輝かせた。こんな小さな体のどこに入るんだというくらいいっぱい食べた。僕の分も少し分けてあげた。
 空には重々しい雲。月が出ていない夜はとても暗い。突如、美理が立ち上がった。
「美理ちゃん?」
 美理は何も応えなかった。ただ黙って家の中へと戻っていく。宏も後に続いた。美理はグングンとしかしスルリと進んでいく。異常なまでに滑らかな身のこなし。宏は早足になった。扉を開け、靴を脱ぎ、階段を上がり、美理の部屋へと来た。そこで美理はクローゼットを開いた。そこには。
「・・・・・・。」
 宏は声が出なかった。中にはとても綺麗な髪の毛が入っていた。肩まで届いてさらにもっと長い髪の毛。美理がこちらを向いた。突如立ち上がってから初めて目が合った。その目には何も映っていなかったが確かに宏のことを見つめていた。美理を取り巻く空気が今までとは全く違う。そこには小さな女の子の面影など皆無だ。ただただまばゆいばかりに美しい女性。
 美理はそっとワンピースに手を掛け、するりと衣を落とした。白い裸体が露になる。いつの間にかあんなにも重かった空には銀色の女神が浮かんでいた。水面がキラキラと輝く。月光の中で佇むものはもはや女の子でも少女でも女性でもない。そこには人ではない何かが存在していた。
 ふと宏はあることに気がついた。「この部屋・・・。」この部屋はあの部屋だった。あの、少女のいた部屋だった。
バタン、という音が宏の耳に飛び込んできた。はっとすると同時に月明かりの中倒れている女の子の姿が飛び込んできた。
「美理ちゃん。」
 慌てて駆け寄り手の中に抱きあげる。ううっと声を漏らして美理は目を開いた。
「お兄ちゃん?」
「うん。大丈夫。」
「うん。別になんともないよ。」
 そう言って美理は辺りを見回した。
「あれ?美理、お庭に居なかったっけ。」
「え?」
「お兄ちゃんが美理の部屋まで連れてきてくれたの?」
「え、ああ、うん。美理ちゃんとっても眠そうだったからね。それで、今パジャマに着替えさせえようとしてたんだよ。」
「ふ〜ん。ありがと。」
 美理は宏の首に腕を巻きつけた。ギュッと抱きしめてくる。どうやら目はしっかりと覚めているようで力は(無いに等しいが)入っていた。
「どうする、このまま寝ちゃう?」
「うん。お兄ちゃんも一緒に寝よう。」
「うーん。でももう遅いから僕も帰らなくっちゃ。」
 どうせ一人暮らしだから本当は気にすることはないのだが。
「えー。泊まっていこうよ。一緒に寝よう。」
「だぁめ。ほら、また遊びに来てあげるから。」
 ウー、と頬を膨らましている美理の頭を撫でる。撫でているとだんだんと拗ねた表情をしてから美理はコクリと頷いた。


 最後に美理は自分でパジャマのボタンを留めるところを宏に見せた。そしてまた何かを期待する表情をした。もうだいぶ宏にも分かってきた。頭を撫でてあげると美理はとても喜ぶのだ。
「それじゃあ、また明日。」
「うん。」
 拗ねた表情をしながら玄関まで見送りに来てくれた。
「今日くらいの時間にあの公園に居るから。」
「分かった。」
「それじゃあ、おやすみ。」
 扉を閉めようとした宏に「あっ。」という声が聞こえてきた。扉を再び開くと美理はスリッパをはいてこちらに出てくるところだった。
「どうしたの?」
「お兄ちゃん、おやすみのチューして。」
「え。」
 刹那、固まる。
「おやすみの前にチューするんでしょ。」
 確かにするところはするかもしれないが。
「ね、んー。」
 瞳を閉じて、パジャマ姿の女の子がこちらに唇を突き出していた。なんとまあ、扇情的な光景だろうか。・・・ある種の人にとっては。
「はいはい、じゃあ、おやすみ。」
 そっと唇を交わした。顔を離すと美理の目はランランと輝いていた。完全に目が覚めてしまったかのようだ。
「じゃあ、また明日ね。」
 宏は扉を閉めた。「おやすみなさ〜い。」という声が聞こえてきた。


 公園から白い家を見ている。もうすぐ明日になろうという時刻だ。一台の車が白い家の庭に入っていった。エンジン音が夜の静寂を引き裂く。そしてまた静かになった。宏は立ち上がって自分の家へと足を向けた。もうあのような少女には会わないことを心に願いながら。