扉を超えた先には2人の少女が立っていた。
コピーしたとのかと思われる顔が二つ。
一つ、同じ身長。
一つ、同じ体重。
肩からつりさげられ太ももの付け根くらいまでしかないワンピース。
部屋の電気がつけられた。
白熱灯がチリチリと音を立てる。
海かと思った。
コバルトブルー。
淡い水色が裾に降りるに従って群青へと変わっていく。
キレイだった。
「この子達は君の姉貴分だ。君にここでの仕事を教えてくれる。
分からないことがあれば何でも聞きなさい。」
同じ瞳が2組―――すなわち4つ、ニコニコとこちらを見つめてくる。
「こんにちは。はじめまして。」
「こんにちは。はじめまして。」
繰り返される。
こんにちはと挨拶を返した。

ルール説明。
<この場所について>
 住処というのが一番正しいらしい。
 彼女に拾われた人々が帰ってくるところ。
 彼女に拾われた人々、私も含めてだが、皆なにかしら彼女の与える仕事をすることになる。
 生きるため。
 生きるために働く。生きるために働くことを、彼女は皆に与えてくれる。
 ここにいるのが全員ではないらしい。
 私のように帰る家があるものもあるし、住処にも戻らず彷徨い続けるものもいるという。
 チームに名前はない。
 ルールはひとつだけ。
 生きる意志を持つこと。
 チームから離れることもできる。
 ただし、今のところトラブルからの決別はないという。
 それらはすべて、新しい自分の生き方を見つけてとのことだった。
 「こんな世界でも、やっぱり生まれたからには生きていかないとね。」
 彼女の正体は誰も知らない。名前も知らない。
 皆、思い思いの言葉で彼女を呼ぶ。
 あの人。彼女。ボス。
 私が感じたのと同じような印象を皆も感じているらしい。
 信用。信頼。そして何より、愛情。
 老若男女関係なく、彼女は皆から愛されていた。
<仕事について>
 組織らしい組織でもないが、彼女をトップとして3人のリーダー的存在がいる。
 「君か、次の獲物は。よろしく。」
 私にはオーナーと呼ばれる人がついた。
 仕事は各リーダーから伝わってくる。
 受けることもできるし、拒むこともできる。
 罰則もない。強制もない。
 全ては自分で決めることだという。
 内容は様々だった。
 身体を使ったものから、身体を使われるものまで。果ては犬の散歩まであるという。
 コバルトブルーの二人から助言を受けた。
 「生きたいなら深追いはしないこと。」
 「生きたいなら相手の懐に飛び込むこと。」
 「生きたいなら美を求めること。」
 はっきり言って訳がわからなかった。
<その他>
 住処にいれば食事は出る。日に二度。朝と夜。6時と18時。
 トイレで寝るのは禁止。(昔これで住処史上最大級の争いがあったとか。)
 住人についての詮索は自由。拒むも自由。諍いは自分たちで解決。
 騒音禁止。
 異臭禁止。
 死んだ者には皆で追悼すること。

家に着いた。
夜。
玄関で靴を脱ぐ。
静か。
まだ帰らない母親。仕事。仕事?
姉。兄。各々の部屋にいる気配。
居間に戻る。リリー。
薄暗い室内灯の中で読んでいる本から顔をあげた。
「おかえり。」
「・・・ただいま。」
自分がどんな場所にいたのか。
清純なリリーを見て、一気に恐ろしくなった。
ストンと足から力が抜ける。
リリーが慌てて近づいてきた。
心配そうに顔を覗き込む。
その瞳に射抜かれた心が痛み、目から涙が溢れてきた。
粒の形状を保てず、川となって、滝となって流れ落ちる。
喉が枯れて声が出ない。
手をぐっと握り締める。
リリーがそっと身体を抱きしめてくれた。
リリーの柔らかさが優しさとなって包み込んでくれる。
「おかえり。」
リリーの全てが私を癒してくれた。


中学校に上がった。
義務教育とは不思議なもので、大方の人間がそこまでの生き方を決められている。
徐々にアウトローへと傾倒しつつある、いや、もう体の半分は使ってしまった私にさえ、それはやってきた。
入学式。
母親。
並ぶ保護者の列。
キラキラギラギラと輝く眼。カメラのレンズ。
リリーとは違うクラスになった。
各学年4クラスずつ。私は1組。リリーは2組。
生徒たちの中でも、リリーはひときわ目立っていた。
その黄金の髪。透き通るような白い肌。柔らかな微笑み。
すでに隣の子と笑いながら言葉を交わしている。
少しだけ羨ましく、妬ましい。
不機嫌そうな私の顔。もちろん、誰も話しかけてはこない。
同じ小学校からのグループ。
そこから徐々に拡大していく、各グループ。
こうして交友の輪が広がっていく。
特に女たちにとって、最初の印象、仲間、それは何よりも大切なものだった。生きていくために。

2か月が過ぎた。
クラスでも孤立したままの私は、放課後、この場所にやってきていた。
体を固くして構えていた私の予想は見事に裏切られていた。
ボスはもとよりオーナーからの連絡もなく、2週間に一度、なぜか幾許かの(しかし中学生の私にとってはあまりにも大きい額の)収入を手渡されていた。
そのお金は少しだけ中身を抜いて、母親に渡していた。
本当のことなど言えない。バイトを始めた、とだけ言った。
母は涙をうかべながら、私の行動を喜び、なにもしないリリーを口汚く、こっそりと罵った。
中学生が保護者の了解もなくアルバイトができるわけないなんて、そんなことを思いつく発想は当然なかったようだ。
私よりあとに新しく増えた人間はいない。
いつもこの場所で、無為に時間を過ごす。
いつもいる人間の顔くらいは覚えた。
話しかけてくる子の名前もわかるようになったが、一度も言葉を交わしたことのない人間もいた。
二人のブルーは、私の話し相手の中心だった。
「中学校は楽しい?」
「中学校は楽しい?」
とある夜。
暗い部屋に4つの眼。
「最悪。」
答えに、フフフと笑った。
「私もつまらないからやめちゃった。」
「私もつまらないからやめちゃった。」
付き合いが深まるにつれ、二人の違いが明白に感じられるようになってきた。
目の吊り上がり方。右の唇の上がり方。少し低い声。
「あなたたちもボスに捕まっちゃったの?」
ふと疑問を口にしてみた。
気になってはいたが、聞いていいものか悩んでいた疑問。
「あ、ごめん。聞かないほうがいいなら聞かない。」
「ううん、構わないわよ。」
「ううん、構わないわよ。」
珍しく、二人はお互いに目を見つめ合って、またフフフと笑った。
「私たちは売られたの。」
「先生に売られたの。」
「先生?」
「私たちの両親は、私たちを産む時に死んじゃったの。」
「お母さんがお産で死んで、お父さんは殺されたの。」
聞きなれない単語が飛び込んできた。
「誰に?って思ったでしょう。」
「誰に?って思ったでしょう。」
「うん。」
「先生に。」
「先生?」
「うん、私たちを引き取った、お医者の先生。」
「医者に引き取られたの?それってその産婦人科の医者ってこと?」
「そうだよ。難しくないからよく聞いてね。」
「複雑そうで単純だからよく聞いてね。」
コクリと頷く。
「お医者の先生はね、病院に来た私たちのお母さんを好きになったの。」
「お医者の先生はね、きれいな私たちのお母さんを好きになったの。」
「お母さんは体力がないし、子供は双子。」
「最初から難しいってことはわかってた。双子は難しいからおろさないかって。」
「でもお父さんもお母さんも粘った。そしてお産の日。お母さんは死んだ。」
「お父さんは悲しんだ。泣いた。そしてその夜、交通事故で死んだ。」
「そしてお医者の先生は孤児となった私たちを引き取った。」
「そして私たちは、お医者の先生の娘になった。」
「おわり。」「おわり。」
ふーん。
「要するに、医者が好きな人の娘をほしいからお父さんを事故にみせかけて殺したってこと。」
「そういうこと。」
「そういうこと。」
「歪んでるね。」
「変態だからね。」
「変態だからね。」
なんとなく、そこから先は聞かないほうがいいような気がした。
のだが、その夜は不思議と双子は饒舌で、その先の生活も全部教えてもらった。
家に帰ってから、気持ち悪くてしばらくは寝付けなかった。


ある夏の日のこと。
蝉の声が校舎に響き渡る季節。
昼休み。食事の後。 
いつものように非常階段の2階と3階の間の踊り場へ。
日陰に入る。気温は上がってきているが、風はまだ涼しい。
白い壁には先に涼んでいたのか蝉が一匹止まっていた。
購買で買ってきた菓子パンをほおばる。缶コーヒーのプルタブを開ける。
パキッと音が鳴った。
このように運命は扉をたたく。
3階側の扉が開いた。
制服を着た女の子が勢いよく走ってくる。
そしてそのままの勢いで、踊り場から外へ飛び出した。
瞬間。思わず手を出していた。

走る少女。驚愕の表情。人がいることへの驚き。
止まらない勢い。階段を駆け下りる。
時間がカタツムリになったように感じる。
もう止まらない。意志の力が身体を引っ張る。
こうやって死ぬんだ。もう全部、いやなことから逃げ出すんだ。
飛んだ。
と思った。
身体に、意識が引き戻された。
腹部に衝撃。踊り場にいた人間の腕が伸び、私の腹部に食い込んでいた。
胃の中のものがせりあがってくるような感覚。
後ろに尻餅をついた。

腕が痛い。
とっさに伸ばした手。ぶつかった少女。
飛んだと思ったが、腕のほうが一瞬早かったようだ。
また一滴も飲んでいないコーヒーが飛び出して少女と私の腕を濡らしていた。
茶色いしみが制服を汚している。
呆然と尻餅をついている少女。
飛び降りようとしたのだろうが、状況が把握しきれていない。
壁に止まっていた蝉が飛び立った。
ご丁寧に少女におしっこをかけていく。
少女の目から涙が。
ひとつ。ふたつ。流れた。
しかし少女自身も気づいていないのだろうか。呆然とした表情のままで固まっている。
だんだんと腕を濡らすコーヒーを気持ち悪く感じ始めた。
手を洗いたい。
缶を壁の上に置く。
「手、洗いに行くけど。行く?」
汚れた右手を差し出す。
まだ固まっている。めんどくさくなった。
踊り場を降りて二階へ向かう。
扉を開けるころになって、風に乗って聞こえてきた。すすり泣き。
無視。
どうでもいいことだ。
手を洗いに行った。
コーヒーのしみは水だけでは落ちなかった。

帰り道。校門。
今日は用事があるというリリーを置いて一人で帰る帰り道。
なんとなく見覚えのある女の子に捕まった。
「すみません。」
最初は自分が声をかけられているなど思わなかった。素通り。
「すみません。」
小走りな足音が近づいてきて、二回目の声が聞こえる。
足を止めた。
「なに。」
「あの。お昼のこと・・・。」
妙にモゴモゴと口ごもる。
昼。
ピンと糸がつながった。
「別に誰にも言わないよ。」
じゃあと踵を返す。
「あ、いえ、あの・・・。」
追いかけてくることはなかったのでそのまま置いて歩いた。
帰り道。
帰る先はいつもの場所。家ではない。
しばらく歩いてから振り返った。
後ろには誰もいなかった。
その日から、毎日校門に少女の姿を見かけるようになった。
晴れの日も、雨の日も、風の強い日も。
帰るときにはいつも校門に立っている。
気付きながら無視して歩く。
気付いていないふりをして。
少女も何も言ってこない。
昼にももうあの場所で会うことはなかった。
それどころか、校内のどこでも見かけることはなかった。
最初の邂逅から2週間ほどたったある日。
いつものように校門を抜ける。
しかし、そこに少女の姿はない。
気にしていたことに気づき、心の中で失笑する。
そのままいつものように校門を出て、外壁の周りを歩いているときに声が聞こえてきた。
外壁の端。学校の敷地内の一番隅。
複数の女の声が聞こえてきた中に、あの少女の声が聞こえた気がした。
足を止めて、壁を見上げる。
コンクリートで高く囲われたそれは夏の日差しでお好み焼きの鉄板のよう。
その奥、校内でマグマのような熱いドロドロとした何かを感じた。
正確な人数はわからない。
おそらく4人ほど。3対1か。よくある風景だ。
厚い壁に覆われて何を話しているのかまでは聞こえない。
じっと聞き入る自分に気づいた。
ふっと我に返る。
バカバカしい。
そもそもはっきりとした声も聞こえないのだから、あの少女だと思うことがおかしい。
自分は何度あの娘の声を聴いたのだろう。
いつもの場所に向かって歩き始める。
私には関係のないことだ。
翌日。
朝から大雨。
台風の接近。
ニュースでは3時ころに直撃すると伝えていた。
暴風警報も発令し、休校の通知が流れる。
歓喜する教室。
外に出るなと叱咤する教師の声。
荒ぶる風の音。
揺れる木々の枝の叫び。
我先にと飛び出す生徒と共に教室を出る。
校門。
一斉下校で賑わう校門。
その中に奇妙な人物を見つけた。
外へと動く流れや友人を迎える流れの中で不動の人物が一人。
いつもの位置で立っている少女。
台風のためか、いつもよりも少し奥まった木の陰に立っている。
大きな黒い傘は強風で吹き飛びそう。
世界が止まって見えた。
これだけの人間がいるのに、たった一人の少女の存在だけしか気にならない。
しかし―――私には関係のないことだ。
いつものように横を抜けた。
スタスタと、意識のせいかいつもより緊張をした意識的な早足で横を抜ける。
その時。
どうしても気になるものが視界に映ってしまった。
反射的に足を止め、それを見る。
無視しなくてはと思ったときにはもう遅かった。
少女。
強風に揺れるスカート。
変色した太もも。
青黒く。赤黒く。吐き気がにじみ出てくるような色。それでいて、見慣れた懐かしい色。
父を思い出す色。
あっ・・・と小さな声が。風に乗って耳に届いた。
無言なのに。声が聞こえた。目を合わせるだけで会話ができた。
「止まってくれたんですね。」
「毎日何してるの。」
「あの時のお礼が言いたくて。」
「礼?お礼なんていらない。」
「あの時あなたが止めてくれなかったら、私は死んでいました。ありがとう。」
「たまたまいただけだ。」
「よかったら、ちょっとお話しませんか。」
「忙しい。」
「私の家にいきましょう。」
声なんて一言も出していないのに。
少女は歩き始めた。私が付いてくることを当たり前として。
私は、悔しくも後に従った。付いていかなくてはならない、運命のようなものを感じながら。

セキュリティを固められたマンションの入り口。
彼女がいくつかの数字を打ち込むと、ピーという音がして自動扉が開いた。
後について歩く。
エレベーターに乗り込む。
風の音はやみ、代わりにエレベーターの重低音に包まれた。
大雨のせいで靴がびしょ濡れで気持ち悪い。
歩くたびに靴下が重い水音をあげる。
表示が14で止まった。
彼女について歩く。
カードキーを差し込んで扉をあけた。
彼女は先に入ると、ちょっと待っててとタオルを持ってきてくれた。
靴下を脱いで足を拭いて家に上がる。
奥のほうからテレビの音が聞こえる。
彼女はそのテレビの部屋に一声かけてから、こっち、と途中の扉を開いた。
中に入る。
かわいい、と思った。
リリーの好きそうなものであふれている。
フリル。花。ぬいぐるみ。本。机。鏡。
呆けた表情で立つ私を座らせ、部屋の隅にある小さな冷蔵庫からお茶を注いで出してくれた。
「雨、ひどいね。」
「そうだね。」
思えば2週間ほど前。
帰り道で言葉を交わして以来の初めての声での会話だった。


リリーと二人きりの夜。
部屋でなんとなく話をしていた時。
電話が鳴った。
受話器を上げる。
「もしもし。」
「ああ、よかった。仕事だよ。明日の夜は家に帰れないから、家族にはうまいこと言っておいてくれ。じゃ。」
ガチャリと通話が切れた。
切られた受話器を見つめる。
なんて一方的な人なんだろう。
部屋に戻った私の表情を見て、リリーが首をかしげた。
「誰から?」
「友達。明日は泊まるから。」
「そう。」
リリーは一瞬喜んだ表情を浮かべ、その一瞬後に悲しい瞳をして、最後にまた笑った。
リリー。リリー。
リリーは何も聞かない。私の生活が変わっていること。気づいているはずなのに、何も聞かない。
リリーがいるから安心できる。リリーがいるから、私の居場所を確認できる。
私の複雑な表情を読み取って、リリーはまたニコリと笑った。

初めての客のことは、あまり覚えていない。
目が二つ付いていたことと、中央に大きな鼻が一つついていたこと。
アルコールの混ざった臭い息と、最後は泣きながら私の体を抱きしめていたこと。
それがすべて。
場所についてははっきりと覚えている。
「Belle Vénus麗しのビーナス」
駅の裏にある、薄暗いビルの3階。
確か雨が降っていた。いや、そんな気がするだけかもしれない。
1DKの狭い部屋の中央に、小さなシングルベッドが置いてある。
エアコンは付いているが、中身はイカレていて、使い物にならない。
がんばってきてねと、ウインクと一緒にオーナーから手渡された鍵を差し込む。
ガチャリと鍵は簡単に回った。
タクシー代を払ってきたソレが、私の後ろに立つ。
私は何も言わずに扉を開けた。
同時に背中に感じる圧力。
肉の塊が私を強く抱きしめていた。
そうだ、たしかソレは豚のような体に、豚のような臭いで、豚のようににくめないやつだった。
それが私のデビュー。
なんてことはない。
一瞬の2時間だった。

あの雨の日以来。
私の居場所がもう一つ増えた。
教えられている暗証番号を入力し、自動扉を開く。
カツカツと高い音を立て、エレベーターの前へ。
矢印の付いたボタンを押す。
すぐに降りてくる箱。
乗り込んで、14のボタンを押した。
ボタンがオレンジ色に輝く。
すっと血液が頭から足へと落ちる感覚。
あっという間に箱は14階へ到着した。
目的の扉の前へ。
カードキーを通す。
カチャリと鍵の開く音。
扉を開ける。
静かな部屋。
ただいまと小さな声でつぶやく。
靴を脱いで玄関を上がり、奥の部屋へ。
壁付いたスイッチを押すと、すぐに中央の大きなシーリングライトがともされた。
ソファ以外何もない部屋。
グタリと座り込む。
テレビの電源を入れると、とある部屋が映し出された。
ドラマのワンシーンのようだが、がらんどうで人の姿はない。
よく見るとその部屋は、今自分がいる部屋と同じ形をしている。
家具がある分、テレビの中のほうが幾分も華やかだが。
ボスから指令を受けたのは、3週間前のことだ。
「君にな、特別な任務を与えたい。」
「仕事?」
「ああ。だが、今までの仕事とはちょっと違う。」
住処で本を読んでいた時のことだった。
ボスがここにいることも珍しい。
「君にとある娘を監視してもらいたいんだ。いや、ちょっと違うな。」
少し考え込むしぐさ。正確な言葉を探しているようで、その姿も様になっているのはさすがだ。
「調査してほしい。だが詳しく調べてほしいわけじゃない。ただ、見ていてくれたらいい。そして、何かある前には連絡してほしいんだ。」
「そんなこと言われても、私学校行ってます。」
「だからこそ、好都合なんじゃないか。まあ、仕事だが楽なもんだよ。気楽にやってくれ。」
そうして、格好良く笑って去って行った。
「・・・。」
まだ詳細を何も聞いていないんだけど。
そうしてあてがわれたのがこの部屋だった。
「ここで画面を見ててくれたらいい。8時を過ぎたら帰れ。」
ボスの後を引き継いで詳しいことを説明するオーナーは相変わらずだった。

校庭の隅。
木陰になったその場所で、並んでパンを食べる。
あの台風の日以来、なんとなく一緒に過ごすことが多くなっていた。
暑い日。そろそろ夏休みが始まる。
「なんで?」
「なにがですか?」
「なんでわざわざここなの。」
思い出す。
台風の日の会話。
「いじめられてるんです。」
「そうだろうね。」
「やっぱりわかりますか?」
「昨日、校庭の隅で囲まれてなかった?」
「見られてましたか。」なぜか笑う。
「いや、帰るときに声が聞こえた気がしたんだ。」
「へぇ。よかった。毎日立ってたのも無駄じゃなかったんですね。」
「本当はなにが目的なの?」
「目的?私はただお礼が言いたかっただけです。」
「言えばいいじゃない。」
「なんか、無視されそうっていうか、聞いてもらえない気がしてたから。でもよかったです。こうしてお話できて。」
「一方的だったけどな。」
「ついてきてもらえましたから。」嬉しそうに笑う。
「でもなんで急に?こんな日なのに、私が待ってたからですか。」
「いや・・・。」足の痣が気になった、とは言いづらい。
「あ、いいんですいいんです。言いたくないことは言わなくていいんですよ。私はこの結果だけで大満足ですから。」
「家に来ただけだぞ。」
「そうですよ。私にとっては重要なことなんです。ちゃんと家に連れてくる友達がいるんだよってことが。」
「なんで。そんなこと気にする?」
「お母さんが。といっても、本当のお母さんはもう死んじゃってるんで、今のお母さんですけど。」
「再婚したってこと?」
「うわ、容赦ないですね。でもいいです。そうです。お父さんが好きだった人と結婚したんですよ。新しいお母さんもとってもいい人なんです。いつも私のことを心配してくれて。それでね、私にもこんな友達がいるんだよって。アピールできたので今日はいい日です。」
「帰るわ。」
「わ、せめて飲んでいってください。って、一気飲みとか卑怯。」
「さよなら。」立ち上がる。
「もうちょっと面白い話しますから!昨日のこととか聞きたくないですか?体中実は痣だらけなんですよ。」
痣という言葉に反応してしまう。
「あ、びっくりしてる。本当ですよ、ほら。」少し持ち上げたスカート。覗く太ももについた青紫。
「お腹とかもすごいんですから。って、話盛りすぎかも。昨日はいつもより激しくて。学校行かなくなってるから、久しぶりであの子たちも楽しかったんじゃないですかね。」
「待って待って。情報が多すぎる。暴力うけてんの?」
「はい。」
しれっと。本当にしれっと話す。
「今のクラスに暴力集団がいるんですけど、そいつらになんか好かれてるみたいなんですよ。で、いつも殴られたり蹴られたり。でも見える場所にはしないんですよ。賢いですよねー。もっと別のことに使えばいいのに。」
「やり返せばいいのに。」
「私、基本的にいい子ですから。喧嘩とかしたくないんです。弱いだけなんですけど。で、学校行きたくないけど、家にこもると心配されちゃうから学校行くようなふりをして結構さぼってるんです。これ内緒です。」
「内緒もなにもないでしょ。じゃあわざわざ私の帰る時間を狙って立ってたわけ?」
「ご名答。学年くらいしかわからなかったので。クラス違っても、授業時間は一緒ですもんね。」
なぜか得意げに胸を張り、人差し指を立てている。
「馬鹿だね。」
「でも、こうなってますから。」
ニコニコ。
「・・・あんたがいじめられるのわかる気がする。」
「ですよね。私もそう思います。」
「私が来なかったらどうするつもりだったの。」
「そんなのわかりませんよ。たぶんそのうち飽きちゃうんじゃないですか?」
「そもそもなんで飛び降りようとしたわけ。そのいじめのせい?」
「うーん、それもありますけど、お父さんと喧嘩したからですね。」
「喧嘩?」
「はい。なんだったかな。勉強のことかな。とにかくお父さんと喧嘩して、もうどうでもよくなってて、でもって鞄に牛乳ぶちまけられてて、もういいや死のうって思って。そんな感じ。だから、ありがとうございました。あなたがいなかったら私今ユーレーですよ。」
「たしかに化けて出てきそうだわ。」
「しぶといですからね。」
ただの弱い子ではない。
学校ではいじめられていて、家ではいい子でい続けようとしている。
学校に行ってないのはきっと連絡がいっているはずなので親も知っているのだろうか。それが原因での喧嘩なのだろうか。
この少女に興味がわき始めていた。
その日は夜までいろいろな話を聞いた。
こちらの話はあまりしなかった。
「なんでわざわざ、と言われても。私ここ好きなんですよ。確かにこないだの痛かったの思い出したりもするけど、でもやっぱりここいいですよね。」
風が抜ける。
木々を通した日差しは和らぎ、木の葉のしっとりとした冷気が気持ちいい。
まだ昼になったばかりのためか、グラウンドには人影もなかった。
きっと。
こうしている間も誰かが私を見張っているのだろう。
私が仕事をしている様子を。
そして彼女の様子を。
オーナーの説明。
「君の学校にちょっと気になる子がいるんだ。」
ちょっと不自然な間。
「・・・なに。」
「もうわかってるだろう。」
連れてこられた場所。
見慣れた玄関口。見慣れたエレベーター。見慣れた廊下。
慣れ始めた場所のひとつ隣の部屋でオーナーから説明を受けた。
「なんとなくは。」
「それでOK。特になにかしてほしいわけじゃない。なにか起こったら連絡してほしいだけだ。」
「なにか起こるの?」
「いや、たぶんなにも起こらない。だからこそ君の仕事なわけだ。」
意味が分からない。
それは初心者向けということだろうか。それとも、私だから探れるということだろうか。
「そんな顔するなよ。仕事だ。裏事情なんかを隠してるわけじゃない。まだ本当に入口にたったところなんだ。」
「仕事の?」
「そうだ。だからこのまま何もなく終わるかもしれない。起こるかもしれない。それでどうするかは、ボスが決めることだ。」
ボスの名前を出されると何も言えなくなる。
あの人のおかげで、私は生きている。
「悪いな。ま、頼むよ。」
オーナーの説明終わり。
回想終了。
この子は自分が見張られていると知らない。
私が見張っていることも知らない。
「午後からだるー。さぼっちゃいたい。」
でもきっと例の暴力集団から見られているのは知っている。

6限が始まる前の廊下。
見るからにアレでアレでアレな集団。
女子3名。男子2名。ニヤニヤした笑い。
すれ違う。
ぶつかる肩と肩。
ささやかれる声。死ぬよ。
振り返る。
向こうも振り返りながら歩いていく。
ニヤニヤ。

6限が終わった後の廊下。
階段の前。
待ちかまえられていた。
無視して進もうとするが肩をつかまれる。
顎で誘われた。
7人。
1時間前に比べて男が二人増えていた。
ついて歩く。
わかりやすい。
体育館の裏。
先客。
2人。
1人は優等生風の少女。
1人は一緒に昼ご飯を食べた少女。
お腹を抱えてうずくまっていた。
「遅いから一発やっちゃったよ。」
優等生。
「遅くないべ。終わったらこいつすぐ出てきたし。」
「こっちは一時間前から待ってんだから。」
「ほれ、これやるから許せ。」
宙を舞うアクエリアス。
落下して、うずくまる少女の頭を直撃した。
拾ってキャップを開く優等生。
少女を意識しながら意識しない。息をするように自然な状況だった。
突如背中に衝撃が走った。
正面から地面に転がる。
膝が熱い。
反射的に横に転がった。
男の足が空を切る。
ちらりと見えた瞳。苛立ち。交わされたことへの。それを仲間に見られたことへの。
二発目はよけきれなかった。
身体が砂利の上を滑っていく。
息が止まった。背中が痛い。動悸が早い。
何かしゃべっている。
聞こえているが、人間の言葉に聞こえない。
髪をつかまれ頭を持ち上げられた。
足に踏ん張りがきかない。
左の頬を優しく二回叩かれた。何か言っている。
衝撃が顔面を貫いた。
左の頬を張り飛ばされたよう。髪をつかまれているので逃げ場がない。
頬の内側が切れ、口の中に鉄の味が広がる。
頭を振り飛ばされ、再び地面へと倒れこんだ。
耳鳴りがする。
転がったままスカートをめくられ、お尻を叩かれた。
笑い声のようなものが聞こえる。
泥にまみれ、目の端から涙をこぼし、あられもない姿で転がる私を嘲り笑う。
時間の感覚がなかった。
周囲への興味を失った。
きっと彼女も同じような仕打ちを受けているのだろう。
今はただ、この暴行が早く終わることを願って目を閉じていた。

「まだ残ってるぞ。」
「どこ。」
「デコ。」
もう一度鏡を覗く。
「豚」と書かれた文字は薄くはなっているが、まだはっきりと読み取れるくらいの濃さは残っていた。
再び立ち上がり、痛む体を引きずりながら洗面台へ。
おでこに石鹸を付けて「の」の字を書いてこする。
水で流す。
洗う。
流す。
5度繰り返して、最後はあきらめた。
リビングへと戻り、ソファに腰を下ろした。
テレビへと目を向ける。
画面の中の盛り上がった布団。
彼女はすぐに布団に転がり込んでしまっていた。
「飲むか。」
「いらない。」
差し出されたコーヒーに顔を背ける。きっと口の中にしみて痛い。
「・・・ごめん。」
口にした途端、涙がこぼれそうになった。
歯を食いしばってこらえる。
ここで泣いたらきっと笑われる。そういう人だ。
なのになんで今日に限ってこの人は笑わないんだろう。
何も言ってくれないんだろう。
いや、そうだ、そんな人なんだ。
いつも何も言ってくれない。
なのになんで。なんで。私はごめんなんて口にしたの?
自分の弱さに気が付いた。
その重さに耐えられなくなって、涙があふれてきた。
食いしばった口から呻きが漏れる。
悔しい。こんな姿、絶対に見せたくない。
そもそも私はこんな人間じゃない。
悔しい。思うたびに涙がこぼれた。
鋭敏になった感覚の中でもとらえられないくらいに、オーナーは身じろぎひとつしなかった。
電話の音。
今までの不動が嘘のように、素早く音が切られた。
着信相手すら確認することなく。
そしてまた元の姿勢に戻って動かなくなる。
不安感が募る。
「でなくていいの。」
「いいよ。」
「重要な電話かもよ。」
静寂。
予想していたいくつもの答えの、どれ一つ返ってこない。
また、涙が流れた。
そしてそのまま頭が真っ白なままオーナーの腕の中へと倒れこんだ。
すべてオーナーの計画通りに進んでいるかのように、私の身体はオーナーの腕に優しく受け止められた。
胸の中で、温かさとタバコの香りの中で、声をあげて泣いた。

「今から、最高の方法を教えてやる。」
散々泣き喚いた後。だいぶ気持ちはすっきりしていたが、家に帰る気にはなれなかった。
姉が出ないことを願いながら電話をかけ、受話器から聞こえてきた声に安堵しながら、今日は友達の家に泊まると告げた。リリーの声が聞けてよかった。
21時。
立ち上がったオーナーを引き留めた。
奴らを叩きのめす力がほしかった。
それなりにアウトローな生き方をしていると思っていた自分がバカらしかった。
力が足りない。
生きていくための。
自分を守るための。
誰かを守るための。
テレビの画面の中には動くものはない。
あのボロボロの制服のまま布団にもぐりこんだ彼女。
私刑の後、体育館裏に打ち捨てられた私たち。
なんとか立ち上がり、お互いを支えあった。
さすがに何も言えなかった。言葉が出なかった。しかし、支えあうものが必要だった。
泥まみれの制服で、ライターに焙られ縮れた髪で、教室に残された荷物はそのままに。
なるべく人目につかないように歩いた。
彼女のマンションの前。
家の前まで行く。
「ありがとう。」
小さくつぶやいて、こちらを振り返らずに扉は閉じられた。
振り返り、隣の扉を開けようとしたとき、中から扉が開いた。
オーナーだった。
その瞳はすべてを知っていると物語っていた。
ギリと奥歯をかみしめる。
どうして助けてくれなかったのだと。あんなに理不尽に一方的な攻撃をうけていたのに。
受けていたダメージがすべて怒りとなって飛び出していた。
オーナーはそんな私のこぶしを容易く受け止めるとそっと中へと導いてくれた。
そのこぶしを眼前まで持ち上げる。細い腕。小さな手。
力がほしい。
きっと家族にも相談できない彼女を、友達を、守るために。
「最高の方法?」
「そうだ。基本中の基本だがあいつらならそれで十分だろう。」
「私にもできる?」
「できなきゃあきらめろ。」
その通りだと思う。今日で終わるわけがない。
これからもずっとこの仕打ちが続く。死ぬまで。どちらかが死ぬまで。
諦めることは死ぬことである。
私は生きる。
「やる。なにがなんでもやる。」
「そうか。」
オーナーがニヤリと口の端をあげる。機嫌が良い証拠だ。
私の本気を受け止めてくれたのだろう。
こちらも口の端を上げてみた。
途端に睨まれた。

不良グループ。女子。
ナンバリング1 愛田 瞳。
 リーダー。ウサギが好き。芦田力と交際中。
ナンバリング2 幹 波留美
 愛田の取り巻き。大石未絵とは幼馴染。水河卯時へ好意を持つ。
ナンバリング3 大石 未絵
 愛田の取り巻き2。寂しがりや。幹波留美とは幼馴染。水河卯時への好意があるらしい・・・?
ナンバリング4 種本 叶
 優等生。成績優秀。他の不良グループに襲われていたところを愛田に助けられ愛田に従うようになる。
不良グループ。男子。
ナンバリング1 芦田 力
 リーダー。愛田瞳と交際中。その一方、種本叶への興味も持っているという噂も。
ナンバリング2 水 河卯時
 お気に入りのZIPPOライターを持ち歩く。100個以上所持。毎朝顔を洗いながらどれを持つかを決める。
ナンバリング3 忠石 来人
 気性が荒く、暴れることが好きだが根は臆病。一人では何もできない。幹波留美を狙っている。
ナンバリング4 山本 宏
 女好き。馬鹿に見えるが、計算高い面も持ち、計画遂行のためには手段を択ばない。


大石未絵は暗くなった道を自宅へ向かっていた。
いつものメンバーといつもの交差点で別れた。お腹がすいているせいかいつもより早足になっている。
それにここ最近近所で多発している通り魔や放火のニュースも少し怖かった。
懐具合は温かい。今日しめた奴の財布からたっぷりと頂いたためだ。
明日新しい水着を買いに行こう。この夏も海に行く予定。
今日も楽しかった。友達がいるのはいいことだ。
うちのグループは上下関係も他のところほど厳しくない。
愛田は今日みたいに機嫌が悪いときは怖いが、いい人だ。
未絵の気持ちは温かかった。
一つだけ気になること。
「波留美がね。」
幼馴染だからこそ気づいてしまった。波留美の水を見るときの視線が他とは少し違うことに。
ライターを持ち歩き、言葉数も少ない水はグループの中でも異質だった。
誰と特別仲が良いというわけでもないが、常に一緒に行動していた。
そんな水への気持ちを秘めていた未絵だが、諦めることにした。
大切な親友のために。彼女を応援するために。
心の中で雫ほどの涙がこぼれた気がしたので、未絵はさらに足を速めた。
今日は温かいものにしろと言っている。いつものことだとシチューかおでんだろう。
そんな未絵の横を、消防車がけたたましくサイレンを鳴らしながら通り過ぎて行った。
正直すれすれだった。こんな狭い道を飛ばすもんじゃない。
心地よい気分がいっぺんに吹き飛んだ。
止まりやがれ。
輝ランプを強くにらみつけると、消防車はサイレンの音を消した。
真っ赤な光をまき散らしながら、その場に停車した。
一瞬ドキッとする。
聞こえたからでないことはすぐに分かった。
そしてその消防車の奥に、人だかりができていることにも気が付いた。
火事だろうか。
家の近所だ。どのくらい燃えたのだろう。飛び火していなければいいけど。
そんなことを思いながら消防車の脇をすり抜け、眼前に現れた光景は、なんてことはなかった。
飛び火なんかしていない、まさに轟音を立てて燃え崩れている最中の我が家であった。

愛田瞳は手にした枕を部屋の壁に向けて投げつけた。
歯ぎしりがやまない。
部屋の電気をつける気にもならない。
手元の携帯電話だけが光を放っている。
鞄の中に入っていた手紙。
ご丁寧に雑誌を切り貼りして作られた文面。誰かの悪戯に決まっている。
そうは思うものの、今日のあいつの反応がどうしても気になる。
芦田力が種本叶を狙っている。
手紙を皆の前で広げた時、力は大笑いし、叶は興味なさそうな眼差しを向けた。
なにも疑わしいことなどなかった。
しかし何かがくすぶっている。
手が届く位置にあったアルバムを壁に投げつける。
苛立ちが収まらない。
苛立ちに呼応するかのように、携帯電話が震え始めた。
慌ててその画面を開く。
メール。
山本から。タイトル「これどういうことだよ」
添付ファイルを開く。
見慣れた男と見慣れた女のツーショット。
手をつないで歩くその姿は、力と叶のものだった。
最短の手順で山本へ電話をかけようとすると、再び震える携帯電話。
未絵からの着信だった。

1限目。
99%の生徒が教室で授業を受けている中、階段の踊り場に集まった影7つ。河卯時以外のメンバー。
話題の中心、大石未絵。昨夜の火事。放火とみられる火災。
「元気だしなって。」
「うん。」
不安そうな表情の波留美が未絵の肩を撫でている。
未絵の手には鈍い輝きを放つライターが握られている。
その鈍い輝きのように重たい空気。
皆が見慣れたライターだった。
ここにいないライターマニアの私物。その中でも一番のお気に入りと言われているもの。
そんなものがなぜあんなところにあったのか。
不穏な憶測。妄念。
この町で多発している放火という現象。いや、人為的な作為。
轟々と燃上がる家を前に呆然とする未絵を見つけ、両親が駆け寄ってきた。
母親に抱きとめられる。
正直実感がなかった。
熱い。暑さとは違う熱さ、重苦しさ、目に見えない圧迫感などが体を包んでいた。
消防車のホースが伸びて、大量の水が放出される。
野次馬たちの目が集まっているのがわかる。
哀れな家族に。不幸へと墜落していっている家族に。
母親を振り切り、我が家へと近寄った。
消防隊員によってバリケードが敷かれており、そこを超えることはできなかった。
親に抱かれたこともあり、この家の住人だと分かったのだろう。
消防隊員からも哀れな眼差しを向けられる。
コツンと足が何かを蹴った。
喧騒の中、ほかの人は誰も気づいていない。
上ばかり見て、誰も足元のそれに気づいていなかった。
そっと拾い上げる。
真っ赤な炎は徐々に勢いをなくしている。
そんな赤い風景をぼんやりと映すライター。
火事場にあるべくしてあったアイテムを未絵は知っていた。
未絵だけでない。この場の全員が知っていた。
ライターを見やる。
思いたくもない悪夢。だがどうしても結びつけてしまう。
そんな未絵の視線を察したのか、波留美。
「でもさ、そんな偶然あると思う?」
「それは。」
「火事場でさ。火付けてさ。それでライター落として帰るとか、そんな馬鹿じゃないでしょ。」
「肩もつね。」
「そうじゃなくて!落ち着こう!」
「そうだな。落ち着こう。」
白熱してきた未絵と波留美に冷たい凛とした声が響く。
愛田瞳。リーダーからの一喝。
「だれだか知らないが、うちらをはめようってやつがいるんだ。こっちは戦う。ぶっ殺してやる。」
「そうだな。」
同意を述べる力に一瞥。きっとあの写真も誰かの嫌がらせだ。
視線を感じたのか力が瞳を向ける。にやりと笑うその姿は、間違いなく裏切り者なんかではない。
「そうだぜ。河卯時なわけないじゃんな、波留美。」
「うん。未絵、私たちで犯人を捜そう。ぶちのめしてやろう。」
ぎりと、強くライターを握りしめた。
「うん。絶対に許さない。」

水河卯時は苛立っていた。
小さなころ、まだ仲の良かった家族でキャンプに行ったとき、父親のライターを借りて新聞紙に火をつけた。
川のほとりで広大な自然を背に燃え上がる炎を見て、美しいと思った。
その時から河卯時は父親の使い終えたライターを欲しがるようになった。
使い捨てライターのケースはカラフルで美しい。そしてその興味は本格的なものへと移行していく。
別にタバコを吸うわけじゃない。
ただ、その炎を操るアイテムを手にすることに大きな満足感を覚えた。
初めて買ってもらったZIPPOライターは今もコレクションのNo,1として大事に飾ってある。
そんなコレクションの中で一番のお気に入り。
シルバーメタリックに美しい銃の装丁。アクセントカラーとして入ったゴールドとメタリックレッド。
そんな大切なものを失くした、いや、盗まれたからだ。
絶対に無くすはずがない。どこかに置いていくはずもない。
だからこそ河卯時は確信した。盗まれたのだと。
苛立ちを紛らわすためにゴミ箱を蹴飛ばした。
公園。夜9時。子供たちはもういない。
いるのは自分と、あと一人。どこかにいるはずだ。約束の時間だからだ。
「どうした、何に腹を立てている。」
真後ろから声。
ぎょっとして振り返ると、男が一人ベンチに腰かけていた。
今まで自分が座っていたベンチ。誰もいなかったはずなのに。
背中にひやりとしたものを感じながら答えた。
「別に。」
「別にで蹴飛ばされたんじゃ、こいつも可哀想だ。」
何が面白いのか、笑いながら煙草に火をつけた。
「理由は?」
「まあ、焦るな。といっても、どうやらイライラしてるみたいだからな。手短にしよう。
俺たちとつるまないか。楽しいぞ。」
単刀直入すぎて意味が分からない。
河卯時は机に張られた書置きに従って指定された場所に来ただけだ。
「あんた誰だよ。」
「俺か?俺は松岡ってんだ。なに、固くなるな。なにもしねえよ。」
「マムシ毒の松岡さんがなんで俺なんかを。」
「おーおー、よく知ってんじゃないか。いやな、俺のダチがお前に惚れてな。一緒に遊びたいんだと。」
「興味ないね。」
「いい女だぞ。まあいい。俺も君に興味があってね。どうかね。」
「悪いけど遠慮・・・できない感じかこれは。」
「いやいやいや、勘違いするな。別に君たちのグループを潰そうってんじゃない。俺は優しいんだ。ダチに頼まれたら断れなくてな。まあ残念だ。色男には振られたと伝えておくよ。」
「ああ。すまない。」
松岡は立ち上がった。夜の闇の中をカラスが羽ばたいていく。
「でもますます気に入った。これでお前は俺のダチだ。なにかあったら頼ってきな。ダチ記念に一つ教えておいてやるよ。忠石と山本ってのがいるだろ。あいつらなんか馬鹿なことたくらんでるらしいぞ。俺なんかより、よっぽどそいつらを気にしとくんだな。信じるかどうかは任せるが、なんか大事なもの、失くさなかったかい。」
「俺のZIPPOのことか!?」
松岡が振り返る。その眼を見ただけで、心臓がつぶされたようだった。
「知りたきゃ今晩付き合え。変なことはしねえから安心しな、河卯時君。」
そのまますたすたと闇の中へと消えていく。
街灯の光が届かなくなる直前、河卯時は松岡に向けて駆け出していた。

車が突っ込んだかのような崩壊音が響いた。
真横を飛んだ椅子にも、激しい崩壊音にも少しも反応しないまま、種本叶は愛田瞳を眺めていた。
放課後。理科室。
愛田の放った椅子は、叶の横を飛びぬけて壁の棚にある実験器具をまき散らした。
呼吸の乱れていない叶とは正反対に激しい息遣いの瞳。
無論、椅子を放ったせいではない。
「もう一度言ってみろ。」
次の椅子の背もたれを血管が浮き出るほど強く握りしめながら、瞳は一言ずつはっきりと言葉を発した。
「私は知りません。」
今度は木材同士がぶつかり合う音。
投げられた椅子は叶の前の机でバウンドして重力のままに落下した。
「じゃあこれは何だっていうんだよ!!!!!!!!!!」
携帯電話を投げつける。今度は叶の身体に当たった。
叶は初めて困った表情を浮かべた。
携帯電話。
昨日の夜、山本から届いたメール。
隠し撮りのようで、山本のところにも知らないアドレスから送られてきたという。
そこにははっきりと手をつないで歩く、力と叶の姿があった。
「・・・瞳さん。私、本当に知らないです。これは確かに私と芦田君だと思います。けど私は知らない。」
「んなことがあるか!」
「そうなんです。そんなことないはずなんです。でも私、本当に知らない。」
「お前自分が言ってることわかってんのか。」
「はい。おかしいなって思っています。だから困ってるんです。説明できないんです。」
「俺んこと馬鹿にしてるんだろ、ああっん!」
「いいえ。信じて・・・もらうしかないです。私は瞳さんに尽くすって誓いましたよね。信じてください。」
瞳はギリと奥歯を噛んだ。
信じている。今までの一年間、本当に叶はよくやっている。
だからこそ。それだからこそ。こんなひどい裏切り耐えられるわけがない。
本人も言っている、これは紛れもなく芦田力と種田叶で、二人で手をつないで歩いている。
矛盾に頭がついていかない。
「瞳さんに助けてもらわなかったら、私どうなってたかわかりません。だからこそ、あの日、一年間ずっとあなたに尽くすって約束したんです。思い出してください。」
一年前。
小学校。終業式の日。
理由は忘れたが、瞳はとてもむしゃくしゃしていた。
その時のグループでも瞳はトップであり、皆が怖がっていた。
だからみんな愛田の機嫌をよくしようと、無理やりに笑顔で笑っていた。
そんな時。
クラスの学級委員長の叫び声が聞こえた。
ほんの一瞬のことで普段だったら気にしなかったと思う。
だが、その時は感覚が鋭くなっていたのか、方向と距離も把握できた。
黒いワゴン車。
大人の男たちが二人、なにか袋を車に乗せようとしていた。
走り出した。
周りの皆もワンテンポ遅れてついてくる。
瞳はそのまま背の低い方に体当たりをかました。
体勢を崩して尻餅をつく男。落ちた袋の中から人間の声が聞こえた。
慌てて逃げようとするもう一人の男に、追いついてきた仲間がとびかかる。
大の男の力にはかなわないが、人数で応戦した。
そのうちに騒ぎに気付いた通行人たちによって警察が呼ばれ、逃げ切れなかった男たちはその場で逮捕された。身代金を狙った誘拐未遂事件として翌日の新聞の隅で報道された。
その時の少女が種田叶だった。
翌日、叶は母親と共に愛田の家にやってきた。
お礼のお菓子をもらった。
そしてその時、叶は愛田への忠誠を誓ったのだ。
優等生だったはずの叶は、その生活を一変させ、いつも瞳のそばにいるようになった。
教師や親に対しても、全力で反抗をした。
それは子供心にも、並大抵のことではなかった。
だからこそ。瞳は心の奥底ではだれよりも叶を信用していた。
「瞳さん、今朝言ってたじゃないですか。誰かがはめようとしてるんだって。きっとそうです。だから、こんなところで喧嘩してる場合じゃないと思います。」
叶の声を聴いているうちに、徐々に心が静まってきた。
そうだ。本当に。見えない敵に踊らされていた自分が悔しい。
これも誰かの策略。力も叶もそんなことをするはずがない。
こんなことで、仲間を信用できなくなった自分を恥じた。
「そうだな。そうだ。叶の言うとおりだ。すまない。私おかしくなってた。」
「ううん。よかった。そうです、大丈夫です。絶対に犯人を見つけて、ぶっ殺しましょう。」
「そうだな。」
瞳から涙があふれた。
鼻の奥がツンとなる。
叶は優しく歩み寄り、瞳を抱きしめた。
瞳も何も抵抗せずに優しさに包まれていた。

火事から二日後の5限目。
忠石来人と山本宏は体育館の倉庫で雑誌をめくっていた。
破られた袋とじの中には、淫らな姿の裸の女たちの写真がいくつも載せられている。
巨乳、淫乱、凄テク、人妻、凌辱。
男たちを興奮させるような文字が、書体を変え、サイズを変え、誌面を色取っている。
もうすぐこの場所に、波留美と未絵が来る予定だった。
火事について確認したいことがあると宏が呼び出したものだった。
「やべえな。」
「まあまあ当たりだな。」
来人がつかんで離さない雑誌を横から眺めながら、宏は余裕な様子で答えた。
「そろそろ時間だからしまっとけって。」
「わかってるよ。しっかし、へへへ。」
「なんだよ気持ち悪い。」
「悪いな。協力してもらって。」
「いいってことよ。俺とお前の仲だろう。」
「借りは返すからな。」
「おう。楽しみにしておくよ。」
来人は雑誌をたたむと、敷いてあるマットの下へと挟み込んだ。
宏に相談してよかったと思う。
波留美への想い。
宏はすぐに告白に向けての段取りをしてくれた。
それだけじゃなく、何から何までわからないことを教えてくれた。
昨晩は興奮で寝付けなかった。ついに、波留美が俺のものになる。
波留美だけを呼び出すと怪しいので、未絵と二人を呼び出して、そして二人を引き離す。
いくつものハウトゥー本で学んだテクを使って、波留美をおとす。
一人ではそんなことは思いつかなかったに違いない。
ガラガラと体育館の扉が開く音が聞こえた。
コツコツという高い足音に、来人の心も高まる。
「いるー?」
「おー、こっちだ。」
波留美と未絵が並んで立っている。
落ち着かなくてはと思うが、思えば思うほど地に足が付かなくなる。
「あっつー。よくこんな締め切った場所いれるね。てかなにここ臭っ。」
「仕方ないだろが。他の奴らに見られたらやばいことなんだから。」
「で、なにかわかったの?犯人?」
未絵の形相がいつもと違う。
本気で情報を集めているんだ。嘘だということに来人は少しためらいを覚えた。
「いや、犯人はまだだ。ただ、それっぽい奴を見たって奴を見つけた。」
「ほんとに!?」
「ああ。で、本当にそれが犯人なのか、未絵と話してもらおうと思ってな。」
「全然いいよ。どこにいるの。」
「さすがにここは暑いから、別の場所に呼び出してる。ちょっと行ってみないか。」
「うん。行く。でもなー、私火事の瞬間とか見てないから、わかんないかも。」
「ま、話だけでも聞こうぜ。で、そいつもあんまり俺たち関わりたくないみたいでさ、悪いが俺と未絵で行ってくるから、お前らちょっと待っててくれ。」
「ちょっとそいつどんな奴なの。やだ。私も行く。」
「普通の奴だよ。波留美は悪いけど我慢してくれって。」
「でも犯人見てるんでしょ!なら私も聞きたい!」
「いや、犯人見てるというか、なんか見たような気がしてるとか言ってるような、まあともかく、そんな深くはわかんないみたいで、ちょっと未絵と話をさせたいだけだからさ。頼む。」
「・・・。」
波留美は自分がのけ者になることに不満があるのか眉根を寄せている。
「ま、それっぽかったら宏も俺たち呼んでくれるでしょ。待とうぜ、波留美。」
「・・・うん。」
不服そうに波留美は跳び箱にもたれかかった。
「その時はすぐ連絡するわ。ほいじゃ、行くぞ未絵。」
「うん、行ってくる。」
扉を閉める際、来人は宏と目があった。
宏の目が「しくじるなよ」と笑っていた。
密室。
暑さと、カビ臭い臭い。
二人の足音が遠ざかり、体育館の扉が閉まった。
波留美はあっつと言いながらタオルで額を押さえている。
その吐息が、蒸発した汗が、この密室に充満していくことを想像して、来人は体の一部を固くした。
「ねー、ここ出ない。暑いわ。」
「いや、だめだ。僕らにもやることがあるんだ。」
外に出さないために慌てて出てきた言葉。そんなものあるはずもない。
「ん?なにかあんの?」
宏ならこんな時どうすればいいかまでわかるのだろう。
ない頭を全力で回転させる。
「うん。まあね。」
沈黙。
そりゃそうだ。それが何なのか、波留美は俺が言い出すのを待っている。
しかし言葉がなにも浮かばない。
「なに。うざいな、ないなら出よう。」
波留美は跳び箱から離れ、扉へ。
その手が扉にかかった瞬間、来人は叫んでいた。
「だめだ!」
とっさの大声に反射的に手を放す波留美。
驚いて来人を振り返る。
「びっくりした。なに。」
「だいじな、話があるんだ。」
心臓の音で鼓膜が破れそうだった。
むしろ早く鼓膜が破れて、心臓が止まればいいのにと思った。
それくらい、頭の中が混乱していた。
「なに。」
波留美が怯えている。いつもとは違う自分の様子が伝わっている。
今なら、なにもかもが、うまくいく気がする。
「好きだ。」
「え。」
言った、言った、言った、言った、言った、言った、言った、言った、言った、言った、言った、言った、言った。
好きだといった。
彼女は何と言った。
え。
え、ってどういうことだ。
え、って私もってことか。
え、って、私も好きってことか。
波留美。
来人は波留美に走って近づき、そのまま勢いよく波留美を抱きしめた。
「いやっ!ばか、離せっ!!!!」
「波留美、波留美、波留美。」
抱きしめた波留美から汗と女の子の香りがする。
そんなに暴れるなよ。そんなに暴れたら、優しくできないじゃない、か!
勢いに任せて投げ飛ばした。
波留美がよろけて転んだ先は、運動用のマットレスの上。
こんなに、順調に進むとは思っていなかった。
宏と笑いながら冗談で話していたことが、今目の前に起こっている。
マットの上で、恐怖と怒りに満ちた目を向けてくる波留美。
二人とも言葉はなく、荒い息遣いだけが狭い部屋にこだまする。
一歩進んだ。
相手も一歩スリ下がる。
一歩。
一歩。
マットの淵に立ち、逃げ場がなくなった波留美を見据えた。
声すらも上げられない怯えきった波留美を見て湧き上がるこの感覚。
これを表現する言葉がふと浮かんできた。
普段頭の悪い俺だが、今は天才になっているようだ。
征服。
そう、今俺は波留美を征服している。
スカートから伸びた白い足よりも、その怯えた目や震えのほうが興奮させる。
頬がにやける。
鼓膜が破けたのか、心臓が止まったのか。
もうあのうるさい音は聞こえない。
マットに膝立ちになる。
波留美との距離がさらに近づいた。
手を伸ばせば届く距離。興奮は絶頂。
そして来人は、そのままマットの上へと倒れこんだ。

屋上。
宏と未絵。
虚言による誘拐。
もちろん、犯人を見た奴などいるはずもない。
「あれ?おっかしーな。」
わざとらしく大きな声を出してみる。携帯電話を開き、「あー。」と演技。
「なに。」
「授業があるから放課後にさせてくださいだと。真面目ちゃんが。」
「ちっ。どこ。そいつんとこ行こう。」
「まあまあ、それくらい許してやれよ。別に逃げるわけじゃないんだからさ。」
段になっているところに日陰を選んで腰かける。
口をへの字に曲げながら未絵も腰を下ろした。
「しっかしあれだな。河卯時もなんであんなことしたんだろうな。」
河卯時の名前を出した途端、間髪入れずに未絵は反応を示した。
仲間内での禁句。想像しながら口に出すことは憚られていた言葉。
「何言ってんの。犯人は河卯時じゃないでしょ。」
「本気でそう思ってんのか。」
まっすぐに瞳を見据える。
1秒と持たず視線をそらす未絵。
「ほら。お前が一番疑ってんだろ。」
返事はない。
「ここ三日ほどあいつに会ってないからわかんねえけど、あいつもライター必死に探してるんじゃないか。」
「そんなこと。」
目を伏せ唇を噛んでいる未絵。
両の手はきつく握られ、スカートの淵を握りしめている。
「まあ考えたくないのも分かるよ。ごめんな、思い出させて。普通家燃やさねえもんな。しかもダチの家だぜ。頭狂ってやがる。」
「なんで!」
急に未絵が声を張り上げた。
「なんでいきなりそんなこと言うんだよ。私だって疑いたくなんかないよ。河卯時君がそんなことするなんて考えたくなんかないよ。そんなこと言わないでよ。そんなこと、言わない、でよ。」
最後はほとんど悲鳴に近かった。
自分の気持ちの間で押しつぶされそうになっている未絵。
警察に事情聴取されたときにも、未絵はライターの話はださなかったらしい。
仲間内で伝えたのが精一杯の勇気。
二人だけでこの話を続けるのは限界に近かった。
それは、宏の計画通りだった。
「なあ未絵。一つ相談があるんだが。」
「・・・なに。」
「俺もな、河卯時がそんなことしたなんて信じたくない。だから調べてるんだ。犯人が別にいるんだってことがわかれば、解決するだろう。ライターも河卯時のをそいつが盗んだのか、単純に河卯時が落としたのかもわかる。」
未絵の目が大きく見開かれた。宏の姿に感動するかのように。
「でだ。お前が聞いてるか知らねえが、こんな写メが来たんだ。」
画像を映した携帯電話を渡す。
驚いた未絵の表情。
「差出人は不明。お前の火事と同じときに送られてきたんだ。どうやっても俺たちの中を壊そうとしてるとしか考えられねえ。」
「瞳には言ったの。」
「すぐに転送してやったよ。そしたらあいつ自分で調べたみたいなんだが・・・ちょっと困ったことになっててな。」
「なに。」
「昨日の夜、叶と話した結果、やっぱり嘘だと確信したみたいだ。そこまではいいんだが、今度はどうやら俺のことを疑いだしているらしい。」
「宏を。なんで。」
「そりゃ俺のとこにこの写メが来たからだろう。夕方瞳に呼び出されてるんだ。それでな、未絵からも瞳に話をしてもらえないか。今は内輪を疑ってる場合じゃないって。俺が一人で説明しても怪しいだけだからな。」
「そんなこと言われても・・・。」
瞳はいい人だ。だが、機嫌が悪い時の瞳は誰も手を付けられない。
何も言葉を発していなくても、そのオーラだけで敵を威嚇している。だからこそこの界隈のグループでもトップを張っている。そんな瞳に進言するなど、未絵には到底想像することすら恐ろしいものだった。
「大丈夫だって。前面に出るのは俺だし、家が大変なことになってるお前が言えば、真実味も増す。頼むよ。みんなで協力して、犯人をぶっ殺すんだろう。」
煮え切らない表情のまま未絵が頷くのを見た。
宏はにやりと笑うと、未絵の肩をたたいた。

鈍い音がした。
そしてそのまま来人はマットの上へと倒れこんで、動かなくなった。
そしてその後ろには男が一人立っていた。
声が出ない。
終わったと思った。自分はこれから来人に無理やり襲われるんだと思った。
唇はカサカサに乾いていて、涙が目尻ににじんでいた。
悔しさと恐怖と嫌悪と。さまざまな感情が渦巻いていた。
「大丈夫か、波留美。」
波留美は小さいころから絵本が好きだった。
中でも白雪姫やシンデレラがお気に入り。
自分は実はお姫様で、王子様が迎えに来てくれる。
そんなハッピーエンドが大好きだった。
だからこそ、これは夢だと思った。
だって、お話はお話のなかでしか見られないものだから。
悪いことをして遊びまわっている私がお姫様なわけがないから。
でも、目の前に立っているのは、紛れもなく、波留美の一番の王子様だった。
「河卯時くん・・・。」
「おう。助けにきてやったんだ。ありがたく思え。わっ。」
今までが嘘のように、涙が滝のように流れてきた。
動けなかったはずの身体が水のように軽くなり、河卯時に抱き付いていた。
「泣くなよ。助かったんだから。」
「うん、ありがとう。」
言葉になっていない。全部に濁点がついているような声。
波留美は幸せの絶頂にいた。


室内。
入口のセキュリティが厳重なマンションの14階の一室。
二人。
一人、女。一人、男。男が年上。女は年端もいかぬ少女。
少女。「これからどうするの。」
男。「最後の仕上げ、いや、嘘だ。まだ70%ってとこだ。これからが面白いぞ。」いつになく饒舌。
少女。「最低。」
男。「お前のための復讐だろ。」笑み。
少女。「すごく楽しそう。」
男。「人間ほど楽しいものはない。」
少女。「最低。」
PCのモニタ。
ブラウザやメールソフト、画像編集ソフトなどが並ぶ。
その中に。計画書。
進行度70%。計画修正、無し。すべて計画通り。


未絵はなんとなく、本当になんとなく体育館へと戻った。
宏と別れる際、来人と波留美から連絡がきて、二人とも家に帰ったという宏の言葉を信じなかったわけではない。
虫の知らせ、でもない。
本当になんとなく体育館に戻った。
開いたままの扉を開け、中に入り、体育館倉庫の扉を開けた未絵が見たものは、グルグル巻きにされて地面に転がる来人と、楽しそうに話している河卯時と波留美だった。
久しぶりに会った河卯時を見て反射的に体は緊張したが、頭が状況を理解できなかった。
「未絵、大丈夫か。馬鹿な面してるぜ。」
「まじウケル。話聞けたの?」
唖然。なんで二人が並んでいるんだろう。なんで来人がこんなグルグルになっているんだろう。
言葉が出ない。
立ち尽くす未絵を見て、波留美は30分前とのギャップがあることに気付いた。
「聞いてよ未絵。このクソ、私を襲おうとしたんだよ。そしたら河卯時くんが来て助けてくれたの。」
「かっこいいだろ。」
「うん、もうほんとすごい完璧。映画みたいだよね、今思えば。」
「はぁ。」
モゾモゾと動くが口も塞がれているのか、なにも言わない来人。
波留美がその背中を思い切り蹴飛ばした。
「こいつどうしてやろうか。瞳に相談してみようかなって思ってるんだ。で、そっちはどうだったの。」
「え。」
「だからー、犯人の姿を・・・。」
言葉が尻つぼみになった。隣には河卯時くん。だめ、何も言わないで。波留美は願いながら言葉を紡ぐ。
「ま、いっか。でさ、こいつどうしてやろうか。」
「うん。瞳に相談しよう。」
「だよねー。河卯時くんもそれでいい?」
「いいんじゃない?それまでここに転がしときゃいいだろ。」
波留美は電話を取り出し、瞳へとコールをかけた。
すぐにつながる。
「あ、やっほー。あのさ、ちょっと相談があるんだ。え。うん。そうそう。今どこ。あ、ちょうどよかった。じゃあさ、体育館の倉庫まで来てもらえない?悪いんだけど。いや、うん。本当は行きたいんだけど、どうしてもここじゃないとだめなの。来人を縛ってあるから。うん、あのね、この馬鹿私をレイプしようとしたんだ。まじまじ。ほんと死ねだよね。私?うん、大丈夫。河卯時くんが、あ、今河卯時くんもここにいるんだ。でね、河卯時くんが助けてくれたの。うん。あとは未絵もいるよ。うん、待ってる。あはは、ほんとに来そうだよね。待ってまーす。   来るって。」
それが聞こえていたのだろう。
来人が激しく体を動かし、逃げようとする。
しかし、頭のてっぺんから足の先まで紐で縛られており、芋虫のように這いずりまわるだけだった。

宏は煙草の煙を気持ちよさそうに吐き出した。
コンビニの駐車場。
中で涼みながら立ち読みをした後、一服をしに外にでた。
夏の日差しが眩しい。午後三時になっても熱をため込んだアスファルトはさらに大気を暖めていく。
すべてが面白いように進んでいた。
すべては誰かから送られてきた一枚の写メから始まった。
力と叶。
これほど面白い材料が他にあるだろうか。
宏がグループでのし上がる、千載一遇のチャンスだと思った。
それだけではない。どこからともなく聞こえてきた噂。波留美の気持ち。
自分は本物の馬鹿じゃない。馬鹿な振りをしているだけで、本当は賢いということを改めて認識した。
計画が次々と湧き上がり、面白いように進んだ。
小さな誤算はあるものの、概ね良好だ。
今日の放課後、瞳との緊急面談には冷や汗が出たが、未絵も巻き込めた。十分に勝ち目がある。
高校生が横を通り過ぎながらガンを飛ばしてきた。
ぺこりと頭を下げ眼元で微笑む。
争い事はなるべく避ける。
これも大切なことだ。
争い事はほかの奴らに任せておけばいい。
コンビニの店員がごみ箱の片付けに出てきた。
明らかに制服姿の宏をいぶかしげに見ながら、しかし関わりを持とうとはしない。
店員がごみの袋を入れ替えるのに合わせて、タバコを踏みつけ校内へと歩き始めた。
目の前には栄光の道が敷かれているという確信を持ちながら。

夕暮れ。
陽の傾きに合わせて、空には暗雲が立ち込めていた。
教室内。紅い光は厚い鼠に遮られ、悶々とした熱気だけが残っている。
扉を開けるとそこには誰もいなかった。
約束の時間にまだ少し早い。
宏は近くの机に腰かける。
窓の外を眺め、降りそうだなと思った。傘はあっただろうか。いや、濡れて帰るのも悪くない。きっと心も体も熱くなっているだろうから。
口の中が少し乾いている。緊張している自分を感じる。落ち着け。普通にやれば乗り切れる。俺には完全に追い風が吹いている。
携帯を覗き見る。
未絵からの着信はない。
待ち合わせ場所に来ない未絵に何度もかけているのに、つながらない。
何をやっているのか。
最悪、一人で乗り切る自信はあった。未絵は追い風の一つにすぎない。
もう一つ、来人と連絡が付かないことも一つの不安材料だった。
あの来人に馬鹿なことはできないだろうから、きっと家でふてているのだろう。振られるにきまっている。
コンビニを出た後、体育館倉庫に向かったが誰もいなかった。
ゴロゴロゴロと遠雷が聞こえる。
きっと夕立が来る。面談が終わる頃にやんでくれたらいいのに。
宏は未絵が好きだった。
来人が波留美ではなく、未絵を狙っていると知ったらきっと協力しなかっただろう。
馬鹿で純粋で毎日を楽しく生きている。そんな未絵を羨ましく思うことさえあった。
教室の壁掛け時計の針が動いた。
約束の時間。
教室には宏一人だけ。
焦らない。おとなしく待つ。
宏は気づいていなかった。
背後の窓に、6つの人影が映りこんでいることに。


室内。
マンションの14階の一室。入口のセキュリティは厳重。
二人。
一人、男。一人、女。女は未成熟な、しかし深みをもった表情。男は軽い笑み。
男。「わかったか。」
少女。「大体は。」
男。「ほら。」
男がパソコンを操作すると、画面にとある教室が映った。斜め上から全体を俯瞰した風景。少女もよく知るその場所。男が一人、壁際の机に腰かけている。
そしてその背後にはいくつもの人影が映っている。
少女。「なんか不気味。」
男。「そりゃそうだ。画質もあまりよくない。」
少女。「殺されるかな。」
男。「死ぬかもしれない。」
少女。「止めないの?」
男。「止めてほしいのか。」
少女。「覗き見してて死んでいくとか、夢に出そう。」
男。「まだまだだな。ポジティブにいかないと。これは始まりに過ぎない。」


音。
開。
扉。
入。
人。
瞳。
加。
五。
全。
六。
宏。
悟。
既。
遅。
開。
箒。
箱。
出。
来。
人。
縛。
身。
縄。
不。
動。
力。
殴。
面。
撃。
倒。
蹴。
背。
腹。
頭。
顔。
手。
足。
指。
尻。
股。
瞳。
髪。
持。
話。
宏。
震。
涙。
変。
血。
折。
鼻。
折。
歯。
口。
内。
蹴。
落。
顎。
女。
二。
波。
未。
振。
椅。
連。
打。
息。
激。
宏。
息。
少。
立。
被。
腹。
打。
順。
倒。
起。
服。
脱。
裸。
写。
全。
股。
繰。
写。
又。
踏。
躙。
不。
動。
宏。
続。
刑。
罰。
讐。
続。
続。
続。

パソコンのライブ映像を閉じた。
簡単だ。右上の×印を押せばいいだけ。
それでこの悪夢を直視せずに済む。
「もういいのか。」
「十分。」
気持ち悪くて吐きそうだった。
人間が人間にこんなことまでできるなんて。
自分たちが受けた仕打ちがどれだけ手ぬるいものだったのかを理解していた。
画面越しにも伝わる迫力。
私刑。
自分たちを陥れようとした相手を。仲間だったものを。
あそこまで全力でやれるものなのだ。
慈悲も慈愛もなかった。怒り、恨み、憤り。すべてのエネルギーが放出されていた。
「トイレで吐いてこい。」
「うん。」
トイレに行って便器を抱え込むように座る。
指を喉の奥まで差し込むが、ねっとりとした唾液しか落ちてこなかった。
しばらく挑戦して、諦めた。
手を洗ってソファへと戻る。
オーナーから聞いた話を改めて反芻した。

「勘違いしてもらいたくないが、俺たちがやったことは二つだ。」
「火をつけたことと、メールを送ったこと。」
「惜しい。画像を山本に送ったことは正解。火をつけたのは俺たちじゃない。幹だ。」
「あの子が?」
「もう一つは水に松岡を会わせたこと。松岡は俺たちの一派だ。あいつを使って、水に情報を与えた。」
「ふーん。」
どうにも信じ難い。それだけでここまで大きなことが起こせるはずがない。
表情に出ていたのか、オーナーが応えてくれた。
「人間はな。皆自分勝手だ。だが生きるために自分を押さえて生きている。こいつらはとっくに破綻していたんだ。糸を一本引くだけで、霧散していくんだよ。」
「意味がわからない。」
「だろうな。」
オーナーの説明。
「山本はグループでのし上がることを狙っていた。だが機会がない。そんなところに芦田と種本のスキャンダルだ。これをネタに愛田と芦田を裂いて、自分が愛田に進言できる位置に付こうとした。
それとは別のところ。幹と大石はお互いに水に好意を持っていた。二人は幼馴染の仲良しだが、そう思っているのは大石の方だけだ。幹は水のためなら、大石も切り捨てる人間だ。
山本はその話を仕入れ、幹に話を持ち掛けた。大石に水を嫌わせて、水には幹に好意をもってもらおうと。」
「なんでそこで山本がでてくるの。」
「山本にも動機はある。山本は大石に興味を持っていた。だから、水への興味をなくして、さらに自分にむけさせたかった。」
「はぁ。」複雑。
「山本は水からライターを盗む。そしてそれでボヤを起こせと幹に命令した。世間的には最近の放火犯のせいにしようとしたんだろうな。予定していたよりよほどの大火事になったが、幹と山本は大石を操ることに成功した。」
「そんな理由で家が燃えたの。馬鹿みたい。」
「だがせいぜいこの程度までだった。自分を過信してたんだな、山本は。ボロボロと計画は崩れていくが、自分では気づけない。
まず一つ目。愛田と種本の関係を見誤った。愛田が種本を潰して、本当に種本に興味を持っていた芦田と間も破壊するつもりだったんだろうが、あてが外れた。愛田は種本と芦田を信じて、画像を持ち込んだ山本を疑うようになった。第二に忠石の行動。幹が水に好意を持って行動しているのはもちろん知っていたから、忠石は告白して振られて終わる程度。幹を大石と離している間の時間稼ぎ程度に考えていた。これは俺たちも想定外だったな。ほんとに襲い掛かるとは思わなかった。まあ、そのために水に松岡から話を伝えていたわけだが。そのせいで、幹、水、大石からも忠石と山本は敵と見なされる。本人は気づいてなかったがな。」
「で、みんなで集まって、山本が黒だって気づいたってこと。」
「その結果が今のだ。」
「怖い。」
「そうかもな。」
苦いものを食べた時のように口の中がとげとげしかった。
パソコンのモーターの唸りだけが空間に流れていた。
そしてふと思い出した。
「これは始まりにしか過ぎないて言わなかった?」
「言ったさ。」
「これで全部終わったわけじゃないの。」
「まだだ。君はあいつら全員に復讐したいんだろう。」
「復讐・・・そうね、きっとそう。」
「今はまだ6対1対1だ。これをバラバラにして初めて、復讐は完成するんだよ。」
「それも、何もしなくていいの。」
「ああ、見てるだけでいい。すべて終わるよ。」
オーナーの言葉は絶対であり、翌日のうちに、私はすべてを見ることとなった。


愛田の部屋。
愛田瞳。芦田力。
ベッドの上に座っていた。
瞳の服ははだけ、黒いブラジャーの隙間から入った力の手が乳房の上をまさぐる。
力はすでに上半身裸だった。美しい腹筋がその鍛えられた体を示している。
唇が触れ合い、力の唇が瞳の耳を噛みしめたとき、軽快な足音と共に部屋の扉が勢いよく開いた。
「どうも。」
呆気にとられる二人に対して、入ってきた人物はまるでその状態など意に介していないようだった。
瞳と力が現状を把握し、入ってきた人物、種田叶に対して怒号を上げる前に、種田はすらすらと口上を述べた。
「えっと、愛田さん今までありがとうございました。一年前に助けてもらってから、今日この時間で丁度一年が経過します。これで私の約束も終わりです。
なので。お別れのしるしに、特別に私が知っていることを全部教えてあげます。まず、山本くんが持っていた写メですが、あれは本当です。誰がとったものかは知りませんが。そこの芦田さんに私は執拗に言い寄られていました。何度か断り切れずにデートしたこともあります。あ、でも体とか許してないですし、キスとかもしてないんで安心してください。次に、その芦田くんですが、愛田さんのことは遊びらしいです。おっぱいが大きくてやらせてくれるから便利な女なんですって。そして最後に。私たちで山本くんと忠石くんをぼっこぼこにしてやったじゃないですか。あの後、実は私救急車呼んであげたんです。さすがにほっといたら死んじゃうかと思って。そしたら山本くんのご両親にすごく感謝されて。絶対に許さないそうですよ。大事な一人息子をこんな風にした「5人の」やつらは、ですって。
そういうことです。それでは、永遠にさようなら。」
来た時とは反対に丁寧に扉を閉めると、再び軽快な足音が遠ざかって行った。
素早かった。
扉が閉まると同時に芦田力は行動していた。
選択肢は一つしかない。
全速力でシャツと鞄をつかむと、後ろも振り返らずに一目散に部屋から逃げ出した。
扉が激しい音を立てて閉まった。
愛田瞳は何もできずにベッドの上に座っていた。
泣くことさえできなかった。
怒ることさえできなかった。
震えるその姿は、脳で理解したことを体全身に伝えていっているようだった。

幹波留美は浮かれていた。
全てが計画通りに進んだ。
忠石の暴走には身の危険を感じたが、思いがけない見返りがあった。河卯時くんとの距離が一気に近づいたことを考えたら、来人に感謝すら覚える。すべてのことは宏の責任となった。あとは宏の口を黙らせれば、私がしたことを知るものは誰もいない。8人グループが6人になるが、そんなものは誤差の範疇だ。これからの生活はさらに楽しものとなるだろう。
制服に袖を通す。いつものように一番上のボタンは留めず、スカートは短く。気分に合わせていつもより一巻き余分に短くした。
外は快晴。すでに気温は高く、汗でブラウスが肌に張り付く。
制汗スプレーを振りまき、家を飛び出した。
10時を過ぎた道路に学生はいない。
買い物中の主婦や仕事中のサラリーマンとすれ違う。
誰も私をみない。みんな私がどんな人間か、なんとなく知っているから。
こんな時間にこんなところをこんな風に歩いている私を。

「はよーっす。」
これで何度目だろう。扉を開くが、中には誰もいない。
いつもみんなでいる場所に、今日は誰もいない。
ちょっとした違和感。
仕方なく、そのままその空き教室に入り込んだ。
机の上に腰を下ろし、コーラのキャップを開く。
その時、電話が鳴った。
発信主を確認してすぐにコールをとる。
「おはよ。未絵いまどこにいんの?」
無言。
自分からかけてきたくせに何もしゃべらない。
壁に向かって話しかけている感覚に、波留美はイライラとしてきた。
「なんか言えってば。なに、これ無言電話。なんにもないなら切るよ。」
くすんと、かすかな音が聞こえた。
鼻をすする音が小さく小さく電話口から聞こえてくる。
気味が悪くなって、波留美は電源ボタンを押した。
気分が変わると風景も変わる。
誰もいないその教室が、幸せな箱舟から鉄柵の檻へと変わってしまったかのよう。
カチャリと音がした。
振り返ると引き戸のガラスから男の後ろ姿が覗いている。
あの髪型。憧れて、あと一歩で手の届くところまできた男。
その時急に。
デジャブを感じた。
昨日。
放課後。
教室。
一人。
扉の外に立つ者。
ドクンと心臓が跳ねた。
口の中が急速に乾いていく。コーラの糖分が口の中にまとわりつく。
立ち上がり扉に近づく。
引き戸を動かそうとするが手が震えて力が入らない。
夏なのに。こんなに暑いのに。こんなに手が震えることがあるのだろうか。
「河卯時くん」
絞り出すように問いかけた。
河卯時くんは何も言わない。動かない。振り向かない。
もう一人、窓から顔がのぞいた。
よく見知った顔。
怒りと、悔しさと、悲しみと、疑問と、後悔と、自責と、やりきれなさと。
そんなものが全部混在した表情で、大石未絵が立っていた。
背筋が凍りついた。
目を逸らすどころかまばたきすらできない。
涙があふれ始めた。
ダムが決壊したように洪水が起こる。
前が見えない。
カチカチと歯が鳴る。
未絵も動かない。
涙も流していなかった。
一晩ですっかりやつれ果ててしまった姿。
葛藤の最中。まだ心は揺れている。
たっぷり1分以上見つめ合た頃。河卯時が振り向いて、扉を開いた。
外の空気と共に二人の気持ちが教室へと流れ込んできた。
戦慄が走った。
逃げるという選択肢は粉々に砕かれ、存在すらしていない。
河卯時が教室の中へと足を踏み入れる。
未絵はまだ動かなかった。
一歩。近づくのに合わせ、波留美の足は一歩後ろへと動いた。
これ以上の距離を近寄らせないように。
反射的に体が距離をとっている。
あっという間に河卯時は教室の中央へ。
波留美は窓際へと達した。未絵も足を踏み入れる。
二人とも顔を下げたままだった。表情が見えない。
時が切り取られたようだった。先ほどまでの熱気など今は感じられない。
ナイフで切り取られる瞬間に凍結したような世界。
波留美は異臭を感じた。同時に口の中に錆の味。鼻からも熱いものが流れる。
極限の緊張の中で波留美は気を失った。

ピチャリ。ピチャリ。
雫が跳ねた。
鹿威しのように一定に。
氷柱のような鍾乳石から水が滴る。
ピチャリピチャリ。
心地よい音。
無重力の中で揺れているよう。
心地よい。
ピチャリピチャリ。
音が大きくなってきた。同時にあれほどまでに心地よかった音が耳障りになってくる。
うるさい。やめて。しかし、手を伸ばしてもそれには届かない。
刹那。夢だと悟った。
夢だと気付いた瞬間、波留美は目が覚めた。埃っぽく、蒸し暑く、暗い。
床に倒れていることをぼんやりとした頭で認識できた。
手をついて体を起こして、目の前に河卯時と未絵が立っているのを見て、再び急速に血液が回り始めた。
どうなっていたのか、倒れる前の状況を思い出す。
鼻のあたりがむず痒く、指でこするとぬめりとした感覚。
指は茶色に汚れていた。
教室の窓際。
壁を背に床に座る自分と、立ったまま自分を見下ろす四つの瞳。目を伏せる。
未絵、と声にしたつもりだったが、自分の耳にすら届かなかった。
もう逃げ切れないと分かっていた。でも開き直ることもできなかった。
急にふざけたように笑い出す二人の姿を夢見てすがりたかった。
二人は立ったまま動かない。
波留美も何も口に出せない。
時間だけが流れていく。
殴ってくれればいい、蹴り飛ばしてくれればいい、宏みたいにぐちゃぐちゃにしてくれたらしい。
そんなことまで心の底から願いたくなるほど、苦しい絶望の対面図。
河卯時が震えながら後ろへと体を回した。
そしてそのまま、来た時と同じように重たい足取りで教室の外へと出ていった。
次いで未絵も教室を出ていく。
最後、振り返るときに大気に光ったものは涙だったのか。波留美には判断がつかなかった。
一人になって、重圧が消えた。
見えない重力に押しつぶされそうになっていた波留美は立ち上がった。
そしてカギを開き、勢いよく窓を開くと、そのまま窓の外へと飛び降りた。
ゴキリと鈍い音と共に再び意識が闇へと途絶えた。


蝉がうるさい。
そんな校庭の隅。
終業式も終わり明日からは夏休みだ。
私は彼女と共に今日も腰を下ろしてパンをくわえていた。
「終わったね。長かった。」
「うん。」
終業式なんて必要ないと思う、というのが生徒の総意ではないだろうか。
狭い空間に閉じ込められて、よくわからない大人の話を聞かされる。空調もない部屋でだ。
これを拷問と呼ばずしてなんと呼ぼう。
「今日も来る?」
「うん。」
今日は一つの大きな使命感をもってこの場所に座っていた。
組織からの命令。
監察の結果、彼女はチームに勧誘するに十分な要素を満たしているという判断が下された。
もちろん強制ではなく、彼女の意思が最優先される。
そのための説明役を仰せつかったのだ。
正直嬉しかった。
異質な世界の中で、まともな話し相手は二人のブルーくらいなもの。
友達とはっきり呼べる存在が傍にいることになるのは、この上なく嬉しいものだった。
もちろん手順は理解している。
だからこそ、期待と恐怖が入り混じった奇妙な緊張感をもって今日という日を迎えていた。
「夏休みもいっぱい遊ぼうね。宿題とか毎日やる方?」
「毎日じゃないけど。」
「だめだよ、毎日しっかり予定を立ててやらないと。午前中は一緒に勉強して、午後からはプールに行ったり、夏のお祭りも行こうね。」
「楽しそう。」
「あれ、珍しく笑ってる。」
「気のせいだよ。」
入道雲は大きくて。
空は青くて。
光が燦々と降りそそぐ。
「あのね。」
「うん。」
「話があるんだけどさ、いいかな。」
「うん、もちろん。珍しいことは続くもんだね。なに、改まって。」
彼女の好奇心に満ちた瞳が私をとらえた。
恥ずかしくて、わざと目は外して話す。
「私ね、今あるチームにいるんだ。」
「チーム?」
「うん。辛い思いをした人とかがね、集まって協力して生きているチーム。」
「老人ホームみたいなの?」
「いや、ちょっと違うかな。難しいな。」
言葉を選んで話す。
「身寄りの無い人とか、虐められてる人とか、そういった人たちの共同体。そこでね、私もお世話になってるの。」
「うん。」
「そこにさ、一緒に入らない?嫌ならいいんだよ。無理にとかじゃないんだ。みんないい人だし、きっと楽しいと、思う。」
最後は早口になってしまった。
緊張がピークへと達する。
彼女の反応が怖かった。
断られても仕方がないと思いながらも、一緒にいたかったから。そんな私に、彼女は笑って「いいよ。」と言った。
「いいの?」
「うんもちろん。なんだか楽しそうだしね。」
そんな彼女の笑顔に心の翼が天高く羽ばたいたような気持ちになった。
思わずつかんだ手。
彼女も力強く握り返してくれた。
「どうしたの。なんでそんな顔してるの。」
「嫌って言われたらどうしようかと思って。よかった。」
「嫌なんて言うわけないじゃん。友達でしょ。私も、誘ってくれて嬉しいよ。」
今からどうするかを考えた。まずオーナーに連絡をして、ボスにも会ってもらって、ブルーにも会ってもらって。私の方が半年先輩なんだから、彼女が不安にならないようにしてあげないといけない。
分からないことはなんでも教えてあげるし、困ったことにはなんでも力になる。
今までよりもはるかに強い意欲がお腹の底から湧いてくるのを感じた。
彼女の目を見て、にっこりと笑った。
「じゃあ、今から行こう。皆がいる場所に招待するよ。」
「うん。いいよ、行こうか。いったん家に荷物置いてきてもいい?」
「うん。」
二人立ち上がり、彼女の(そして私もこっそり隣に住んでる)マンションへと足を向ける。
「ちなみに、何かお金とかかかるの?あんまり多いとちょっと厳しいかも。」
「ううん、お金はも貰うんだよ。」
「え?払うんじゃなくて。」
「そう。生きるためのグループだからね。私たちが自分たちで働いてお金をもらうんだ。そのための準備というか、紹介とかをしてくれるところ。」
ピタリと足が止まった。
二歩歩いて、それに気づいて、私も足を止めて振り返った。
「なにするの。」
「いろいろ。なんでもするよ。掃除や洗濯から、ペットの世話。男の子だと工事現場とか。私たちは女だから、慣れてきたら男の人とえっちしたりもするよ。無理やりとかじゃないし、ボスが守ってくれるから怖いことは何もないよ。」
「したの?」
「なにが?」
「えっちなこととか。」
「うん。実はね、こないだ初めてやってきた。思ってたより気持ち悪くなかった。」
そして私は、この瞬間を人生において最大で一生ぬぐえないトラウマとして抱えて生きていくことになるのだ。
彼女は私の目を見た。
それは母親や姉がリリーを見るときの目。いや、それを何十倍も膨れ上がらせたような、そんな目。
「最低。馬鹿。死ね。」
彼女はそう言って、私の横を走り抜けていった。
しばらくたって漸く体を動かせるようになった。振り返った時、もう彼女はどこにもいなかった。
言葉よりも、その強烈な瞳が脳内に焼き付いた。
遅れて、言葉が再生される。
死んでしまいたいと思った。
マーブルチョコのようにまざった得体のしれないものが心の中を支配していく。
言葉が痛烈にしかし、同時にゆっくりとボディブローのように、体に圧力をかけていく。
耐えきれなくなって、膝をついた。
ほとんどの生徒がもう帰宅しているため、校庭に人はまばら。
誰も今の私を見ている人などいない。
地面を殴る。
拳が裂けたんじゃないかと思う。
ヒリヒリとした痛みが生きている実感を運んでくれる。
もう一度地面をたたいた。
強烈な痛み。左手で右手のこぶしを抱え込む。
痛い。手が痛い。手の痛さに耐えきれなくなって、泣いた。
腰も砕け、地面に正座をして、私は、痛いとつぶやきながら右手を抱えて泣きはらした。


夜までずっと町をさまよっていた。
オーナーからの着信は無視した。
町の中でも一度も出くわさなかった。
家に着く。
カギを開けて、部屋へと戻ると、リリーはすでにベッドの中にいた。
その安らかな寝顔を見ながら、リリーの手を取る。
うっすらと目を開けた。
リリーと目が合う。
「おかえり。」
小さな唇が動いた。
何も言わずに私はリリーのベッドにもぐりこみ、その横に体を横たえた。
リリーはいつものように、しかしいつもよりも確かに強く優しく、私を胸に抱いてくれた。
夜の帳はすぐに降りていった。
劇場の終幕のように。