「Posttraumatic stress disorder。心的外傷後ストレス障害。知らない?」
彼女は。雑踏の中で。私の目の前に立って。


父親を失った私たちの生活には大きく変化が訪れた。
そう思うのが一番楽だ。
実際のところ変化はあったが、必然的な流れにおいて、それは大きな変化ではなく小さな変化の積み重ね。
外から見ても大した変化ではない。その程度のこと。
その中で一番の変化は母だろう。
母は働く。
自分のために。悲劇のヒロインとして。
職を失い、酒に溺れ、暴力を奮い、死んでいった夫。
残された4人の子供。世間知らずながらも、必死に働く母親の姿。
そんなイメージ。イマージュ。母にとっての極上の美酒。
私には何も言えない。
自分たちが生きるためにも。母が生きるためにも。

母は働いていた。
今も働いている。
私は知っている。母が誰と仲が良いのかを。
何度もあの男は我が家にやってきた。
笑顔で挨拶をして、笑顔で父の席に座る。
「うちのスーパーの主任さん。今日は晩御飯用の荷物運んでもらったのよ。」
そう話す言葉を、一欠片でも信じたのはきっと当時の私一人。
母は美しくなった。
自分が変化していくに従って、人の変化にも興味を覚えた。
嫌が応にも意識するようになったという方が正しいかもしれない。
そんな意識が、母の変化にも気付くようになった原因だろう。
私は成長しているのだろうか。

クイとグラスを傾ける。
茶色い液体が喉を焼いていく。食道を。胃を。
私の体を内側からめちゃくちゃに破壊する。
その感覚が必要。それがないと、私は私を維持できない。
・・・ちょっとかっこつけすぎた。嘘だ。
私は生きる。生きるために生きる。
ここは皆のいる自宅から3駅程離れた場所に借りている私の二つ目の家。
借りているとはいっても、借りているのはオーナー。私に与えられた部屋。
それ以外の客からもらった部屋もあるが、そちら側は仕事でしか使わない。
私の居場所はここと自宅の一区画だけだ。リリーと私の部屋。
火のついていない煙草を口にくわえ天井を見上げる。
薄暗くて灰暗色な部屋。
煙草に火はいらない。ちょっとした特技だ。くわえるだけで、味わえるし満足できる。
リリーがお見合いをすると聞いたのは昨日のことだ。
リリーから聞いた。
終業のベルと共に私は教室を後にした。
校門を通り過ぎる時、声をかけられた。
虚構と現実のはざまに立つリリーはいつものようにまぶしかった。


街の中を私は歩いていた。
決められた時間で色を変える信号機を眺めた。
目的地も分からずさまよっている人を見て笑った。
私自身に対しても笑った。
学校には行っている。
リリーも一緒。学校には行っている。
でも不思議。
すべてが無彩色。
父の空けた穴は私の体を貫通していった。
私の日々の行動は何一つ変わらないのに、何かが足りない。
兄が埋めてくれようとした。でもだめ。たりない。
真っ白な世界で真っ黒な私は鈍感な黒と汚れた白を移動することしかできない。
父の葬儀が一段落してから、こうして私は当てもなく街をさまよい始めた。
家に居続けることができなかった。
誰かと触れあうことも煩わしかった。
一人、外の世界を歩く。
交差点で、人と人とが殴り合う。
歩道橋の下で、人と人とが抱きしめ合う。
路地の入口ではサングラスの男たちが話してる。
5月だというのに、今日はこんなにも暑い。
長袖のブラウスの下にはじんわりと汗が浮かんできている。
無意識に日陰を歩く。
いらいらがつのる。
なににたいしてかもわからない。
わたしはこんらんしてこんわくしてくらくらしている。

ふぅ、と息を吐き立ち止まった。
歩きまわって疲れた。
顔を上げ、周りを見回す。
ビルの間に立っていた。
陽を避けていくうちに、こんな場所に入り込んでいたらしい。
メインの大通りからは離れていないようで、雑踏は近い。
ちょっとだけ、恐怖を感じた。
室外機が唸っている。
ドラゴンのように。
影に潜み、身体を下に伏せて、細長い切れ目でこちらを窺うように。
ごぉぉ。ごぉぉ。
ぶるっと寒気がした。
あんなにも暑かったのに。
汗が冷えたせいだ。
日陰と日向はこんなにも温度が違うのだ。
ざっと音が聞こえ、脊髄反射で振り返った。
誰もいない。
なにもいない。
唸り声がさっきよりうるさい。
うるさい。うるさい。うるさい。
心臓がどきどきする。お父さん、助けて。私を、守って。
唇をきつく結び、心を落ち着けるように、明るい方向へと足を向けた。
自然と早足になっていることにも気がつかない。
路地から通りに出た。
沈みかけた太陽はまぶしく、
ティンカー・ベルが目の前を抜けていった。視界が白ずむ。
そこにはいつもとなにも変わらぬ雑踏が広がっていた。


私が帰るとき、家はいつもからっぽ。
シンとした空気のなかで、自分の居場所を確立する。
もう慣れた。
人は結局、一人では生きられない。
人は人と対峙することで、人であることを思い出しながら生きている。
今までも。そしてこれからも。
娼婦という言葉は嫌いではない。
不思議なもので、やっているうちに自然と誇りのようなものが芽生えてくる。
私が娼婦であることを話した人はいない。
家族にさえも、明確に伝えたことはない。あのリリーにさえも。
    ちがう。
一人だけいる。いや、一人だけいた。
忘れてしまいたい記憶。
私の心の奥にずっと潜んでいる真っ黒い記憶。
その
ブラックホールは、存在に気付くとすぐに私のすべてを奪っていく。
体温が下がる。意識が遠のく。動悸が早まる。呼吸が荒ぶる。
彼女の顔は私の意識の中で常に笑っていて、常に私を見つめている。
だめだ。この兆候は良くない。
忘れよう。
背を壁に預け、深く息を吐く。
電話が鳴った。
家には私しかいない。
立ち上がり、電話へと向かう。
こんな時の電話は、悪い知らせの香りがする。
受話器を取り上げる。
「・・・はい。」
電話先の相手は、しばらく何も言わず、ガチャリと受話器を置いた。
ツーツーと、繋がる相手のいない信号が耳をくすぐる。
受話器を置いた。
何かおかしい。そんな予感がしたけれども、なんとなくすぐに動き出す気にはなれなかった。
・・・なんで思い出してしまったのだろう。
忘れようとしていた記憶は、焦げ付いたカレーのように、私の意識にこびりついて離れない。
だめなのだ、彼女だけは。
そうだ、楽しいことを考えよう。
リリーはきっとこのお見合いで結婚することになる。
幸せな男だ。リリーを妻に迎えられるのだから。
羨ましい。
羨ましい。妬みたいくらいだ。
あの素敵な笑顔を毎日見ることができるなら、私は
メフィストフェレスにだって魂を売るだろう。
結局、腹の立つことへ行きついてしまった。
でもよい。リリーさえ幸せならば。私はそれで満足。
携帯電話が震えた。
スカートのポケットから取り出す。
見覚えのない番号。
090で始まるそれは、携帯電話から。
この番号を知っている人間なんて限られている。
しかし・・・そのどれにも当てはまらない。
先ほどの電話の件もある。
警戒しながら、通話ボタンを押した。
「よう、お前か?」
知らない男の声。
無言で返す。
「感謝しろよ。本人の電話じゃなくて、わざわざ俺の番号でかけてやったんだ。」
ああ、なんて、なんて悲しい電話だろう。
きっとそれは私が想像する最悪の状況。
いくつかの可能性が脳裏をよぎるが、きっとそういうことなんだろう。
「生きてるの?」
「今はな。5分後はわからねえな。」
「声を聞かせて。」
「あいつの居場所を教えろ。」
「知らない。声を聞かせて。」
「5分後にまた掛ける。」
切られた。
無機質な音。
脳をフル回転させる。
最も重要なポイントは、相手は私が居場所を知っていると思っていること。
どのくらいの割合で信じているかで、オーナーの生死が決まると言っても過言ではないだろう。
あと4分30秒。
嘘をついてもすぐにばれる。
そうなると選択肢は二つ。
正直に答えるか、ばれない嘘をつくか。
そんなの決まっている。ばれない嘘をつくしかない。
後4分9秒。
ああ、今日はなんでこんなにも、最悪な日なんだろうか。
3分52秒。
いつもの番号をコールする。
「悪いな。」
「ううん。」
なんていい悪役なんだろうか。
オーナーにかけた電話にはオーナーが出た。声を聞かせてくれるなんて、こんな良い悪役はなかなかいない。
大体そういう奴に限って、性根は腐りきってヘドロにまみれて、ラグダの痰が吐きつけられている。
「どこだ。」
さっきの電話の男だ。
ラクダ野郎め。
「私はね、何があっても場所を教えちゃいけないって言われてるの。」
「はっ、それは残念だったな。お前は死ぬしかないようだぜ。」
オーナーに向かって話しているくせに、電話越しにもうるさいくらいに聞こえてくる声。
煩い。
「聞こえてる?私は、何があっても場所を教えちゃいけないって言われてるの。」
「今こいつに死ぬしかないって教えてやったとこだ。」
「もう一回だけ言うわね。私は、何があっても、場所を教えちゃいけないって言われてるの。
教えたことが分かった時点で、もう絶対にそこにはいないわ。」
「監視されてるのか?」
「想像はご自由にどーぞ。
そしてもう一つ。私は、その人のことが好きだから、その人がいなくなったら困るの。
だから、殺さないでくれる?」
「そいつはなんとも言えねえな。あとはこいつの体力次第だろ。」
「そろそろ最初の話から5分経つわ。」
「じゃあ5分は生きられたってわけだ。おめでとう。」
「それだけ生きられたらもう十分ね。」
「おいおい、いきなり冷たいこというな、お前。」
「あんた馬鹿だから教えといてあげる。
ラッキーっていうのはね、人間の中で最も難しいものなの。
呼び寄せることもできるけど、基本的には持って生まれたもの。
ここで問題。ラッキーな人とラッキーな人が出合いました。
勝つのはどっち?」
「なんなんだお前。おかしくなったのか。」
「どっち?」
「・・・それは、俺だな。よりラッキーな奴が勝つんだよ。
飽きた。情けだ。こいつとお別れの挨拶でもさせてやろうかい。」
「ありがと。さよなら、ラグダさん。」
パキューンと。
空気を切る音が聞こえたのは気のせいかもしれない。
男は絶命して、二度と起き上がることはできない。電話の向こうだから空想だけど。
あとは本当に勝負だ。運の勝負だ。体力もちょっとあるかもしれない。
生きていてほしい。
心からそう願った。


二度目の死との遭遇はなんてことない、夏の日の大通りでのことだった。
たまたま近くで事故が起こった。
交差点で左折した2tトラックが、歩行者を巻き込んだ。
野次馬の中でちらりと見えたその死体は白髪の女性。
タイヤに巻き込まれてどこかちぎれたのだろうか。
道路は黒く汚れていた。血は赤くなかったんだと知った。
その臭いにやられたのか、人ごみの熱気にやられたのか。
ひどく気分が悪くなった。
ふらふらとその場を離れる。
公園のトイレで吐いた。
吐いてみて気付いた。相当まいってる。
口の中を酸っぱいものが侵していく。
唾液を吐きだして、水場へ向かい、口をゆすいだ。
だめだ。
胸の奥の方に潜んでいるムカつきがとれない。
虫が横隔膜と肺の間に巣でも作ったみたい。
うずくまる。
あるまじろのように背中を丸めて。
誰かの手が欲しい。
背中に手を当てて、優しくさすってほしい。
なんて孤独なんだろう。
苦しい。重たい。だめだ。
口から大量の吐瀉物が吐きだされた。
息がつまり、涙が流れる。
嗚咽を上げながら、えずく。服が、体が、心がドロドロに汚れていく。
通行人の視線を感じる。
でも。
誰も助けてはくれない。
私は水道の蛇口を勢いよく回した。
限界まで開かれたその口から
ノアの洪水が巻き起こる。
洪水は、一瞬に何もかも流し去る。
箱舟なんて希望はない。
腹部に違和感を覚えたまま、私もその場をよろよろと立ち去った。

家に帰っても、不快感は消えなかった。
脳裏には黒いアスファルトの上の赤黒い血がよみがえっては消えていく。
リビングの椅子に座っていたが、がまんできない。
隣の部屋で横になった。
扇風機の風すらも気持ち悪い。
暑さのせいもあるのだろうか。
ひどく喉がかわいた。
這うようにして台所へ向かい、水を飲んだ。
吐きそうになる。胃がせりあがりそう。
こんなに気持ち悪いのは、数年前にかかったインフルエンザ以来だ。
夏に、インフルエンザ。ばかばかしい。
今度はトイレに行きたくなった。
認めたくはないが、もよおしてしまったかもしれない。
股間がぐちゃぐちゃと気持ち悪い。
今度は本当に這って、トイレへと向かった。
スカートの中に手を入れ、下着を下ろす。
見たくはなかったが、ちらりと視界の端に移ったそれは・・・あの老婆と同じ色。
赤とは決して言えない、黒ずんだ茶色。でも赤。
わたしは、こんな色の下着を、履いていた記憶はない。
少し冷静になれた。
そして、その臭いにも気がついた。
鼻にツンと来る刺激臭。
だめだ。
吐いた。
飲んだばかりの水が、胃液と共に吐き出されていく。
泣きながら、ただただこの苦しみが去ってくれるのを待った。

結局。
母親が帰ってくるまで、私はトイレで倒れていた。
自宅という囲まれた安心した空間だったこともあり、自分の状態はまったく気にならなかった。
気にする余裕がなかったという方が正しいかもしれないが。
少しずつ、自分が大人になっていってるらしい。
人生はなんて残酷なんだろう。
私は否応なしに大人になり、父親の記憶は少しずつ薄れてゆき、
母親は何もできない自分に酔い、リリーはより一層の美しさと儚さをまとい、
兄はだんだんとつまらなくなり、姉はさらに理解できないモノとなり、
すべてが無情に進んでいく。逃げることも立ち向かうこともできない。
なぜか嬉々として私に訪れた変化を語る母親の言葉を朦朧とした意識の中で聞いていた。
苛立ちを覚えながら。


全てがわかったのは、仕事終わりにかかってきた電話でだった。
仕事を終えて、くわえた煙草に火をつけようとしたところだった。
「生きてたんだ。」
「なんとかね。」
「今度、飯でもいこう。」
「なに、突然。死にかけて感傷的になった?」
「またな。」
一方的にかかってきた電話は一方的に切られた。
天上天下唯我独尊。世界は自分を中心に回ってると思ってる。
ふと自分が微笑んでいることに気がついた。
やっぱり死んでいなかった。
悪運の強さは、私より上かもしれない。
いろんな経験をしてきて慣れてはきたが、やはり人が死ぬのは嫌だ。
特に自分の周りで引き起こされる死については、頭の中のどこかにこびりついて離れない。
焦げ付いたフライパンのように、どうやっても落とすことはできない。
オーナーを襲った男すらそうだ。あの死すらも、私は身の回りの死としてカウントしてしまう。
昔、自分は死神なんじゃないかと思った。
見えない
大鎌を持ち歩いていて、自分でも気づかないうちに私に関わる人間の首を刈っているのではないかと。
そんな私を救ってくれたのはリリーだ。
あの愛らしい天使が、いつものように私の手をとってくれた。
いくつになっても、リリーだけはずっとリリーのままだ。
いつも私を気にかけてくれる。可愛いリリー。
恩返しがしたいのに、私には何もない。私には何もできない。
結婚をさせられ、相手の家へと売られていくリリーをただ見送ることしかできない。
見合いの相手を調べてみた。
悪い人ではないことなどないことは簡単に調べがついた。
金持ちの道楽息子。
横柄で、残忍で、腹黒で、不道徳で、不品行で、自分勝手で、残酷で、狡猾で、卑屈で、乱暴な男。
クレマン神父よりも、ジェルナンド伯爵よりも、悪質な男。
ギリと奥歯を強く噛みしめた。
私にはどうすることもできない。
リリーを守ることができない。

めずらしいことに、その時はそれが夢だとすぐに気付くことができた。
「Posttraumatic stress disorder。心的外傷後ストレス障害。知らない?」
彼女は。雑踏の中で。私の目の前に立って。
その映像はなぜか非常に客観的なものだった。
俯瞰した風景の中に私と彼女が立っていた。
無機質な物のように彼女はその場に立っていた。
気配も何も感じられない。
すれ違っても、絶対に記憶には残らない。
でも、一度気付いてしまうと、その圧倒的な存在感に制圧されてしまう。
それは当時の記憶。
私は記憶をたどっているんだ。
ふわりと瞬きをした瞬間、世界が高速で流れていく。
その映像は、私の初めての仕事の夜。
雑居ビルへと消えていく私。
また世界がスピードを上げる。
視界の先にうつぶせになって倒れている人がいる。
あれは・・・私の大好きな
Mon père
ではその横で震えているのは私だろうか。
倒れた人はまるで今にも動き出しそうにその場に横たわっている。
震えている、小さな少女がゆっくりと動き始めた。
お尻を床に付けたまま後ずさり、ゆっくりと死体から離れていく。
少女の背が壁にぶつかった。
ドン!と、実際には音なんてしてないのに、すごく大きな音が聞こえた気がした。
ひくっ・・・ひくっ・・・。
少女は泣いている。
小さなうめき声を漏らしながら。
声になっていない。音でしかない声。
目の前には死体。
父親はもう動かない。
ひくっ・・・ひくっ・・・。
静謐な空気。
白熱灯で照らされた室内がなぜか蛍光灯に照らされた世界のよう。
ひくっ・・・ひくっ・・・。
小さなすすり泣きだけが、空気に生命を与えていた。
ザザッと、テレビのモニタのように視界にノイズが混ざっていく。
ノイズ音と彼女の声が混ざり合い、新たな音へと変化して行く。
小さな可憐な花が現れた。
白い光に満ちており、周囲を明るく照らす花。
リリーは白い花嫁衣装に身を包んでいた。
純白の着物のなか、その白い顔の中央に浮かぶ真紅は真一文字に結ばれていた。
隣には黒い和装をした男。
過去ではなく未来を漂っていた。
遠くない未来の中で、リリーは不幸だった。
心が痛む。
なぜ私は止められなかったのだろうかと。
世界がゆがむ。
この世の流れと切り離されたこの世の流れに翻弄される。
夢。夢。夢。
私は目が覚めると、一直線に冷蔵庫へと向かった。
グビグビと水を飲み干す。
ペットボトルからラッパ飲みだ。
一気に飲んで、そして、一気に吐いた。
人差し指を喉の奥に差し入れ、身体の中のもの全てを洗浄するかのように、台所の流し台に吐いた。
けなげなものだ。
こんな状況なのに、台所が汚れてしまうのを気にして、流し台に向かって嘔吐している。
体温が低い。血圧も異常な数値を示していそう。
電気の消えた暗い部屋の中でさえ、彼女の頬は青白く光を反射していた。


オーナーの死体が発見されたのは、それから3週間後の夕方だった。
テレビのニュースキャスターが梅雨入りを伝えていた。
空はじっとりと濁り、灰色の雨が今にも雲からしみ出してきそうな日。
めずらしく実家の居間でテレビを見ていた。
家には誰もいない。
つい先ほど、リリーが電話で呼ばれて外へと出ていった。
母も姉もいないと分かっていたから帰ってきていた。
リリーとの二人きりの時間を楽しみたいと思ったのだ。
だが、そのリリーもいなくなってしまった。
家には一人きり。
空は重い。
電話が鳴った。
いつもの番号を確認して、通話ボタンを押す。
「どしたの。仕事?」
電話の奥では沈黙が続いていた。
無意識にカウントをする。1,2,3。
きっかり10数えた時、私は家を飛び出していた。
耳もとから離す瞬間、確かにブチリという音が聞こえた。
電波がねじ切られるような音。
走りながら、他の協力者へと電話をかける。
「オーナーの居場所しらない?」
走りながらということもあるが、怒鳴るようにして問いかける。
「んー、さがすわー。」
女の間延びした声を最後まで聞かず、通話回線を遮断する。
3日前の、レストランがふいに脳裏をかすめた。
ダメだ。
そんなのまるで、死者を慮るみたいじゃないか。
走った。
息がひっちゃかめっちゃかになるほどに、激しく。口が煩わしい。肺に酸素が欲しい。
肺すらも遠い。
筋肉に。
この私を動かすエネルギーに、はやくエネルギーを。
大通りに出て、タクシーを拾った。
同時に、大粒の雨。
激しい音が車内を満たす。
異様な熱気に気押されてか、運転手のおやじはニヘラとした笑いをやめた。
早口に場所を指示する。
おやじは何かを言いたそうにちらりとこちらを振り返ったが、すぐに車を出発させた。
普段より、すこし足に体重を預けて。

オーナーの部屋の鍵は、ご丁寧に一目であいていると分かった。
keyではなくhook。
フックが先に倒され、そこに扉を閉めると、扉はフックが邪魔になって最後まで閉まらない。
相手が中にいる可能性も十二分に考えつつ、勢いのまま扉を開けて中に飛び込んだ。
異様な蒸し暑さが私を出迎えた。
ザーというには優しすぎる落下音。
ゴボゴボゴボと地中深くに引きずり込むような轟音。
部屋から廊下に至るまで、全ての明かりが灯っていた。
誰がどう考えても異質。
他の住民が見つける前でよかった。
一瞬冷静な思考を取り戻した私は、ひとまず扉を閉め、鍵をロックした。
轟音の正体が、流れる水によるものだということは最初から分かっていた。
部屋に人間の気配はない。
一番奥の部屋までは分からないが、もうきっと誰もいないという予感があった。
生きた人間は誰一人いない。
ご丁寧に、廊下は濡れていた。
綺麗な足型になっていないあたりが、犯人の茶目っけだろう。
私は浴槽を覗いた。
ああ、なんて、地獄絵図だろう。
ライトはピンク。
オーナーの趣味だ。
バスはレッド。
これは犯人の趣味。
栓が閉まった浴槽には、蛇口から勢いよく熱湯が降り注いでいる。
溢れたお湯は世界の汚れと一緒に、排水溝へと吸い込まれていく。
右手が湯船に浮いていた。黄色いアヒルのおもちゃのように、ゆらゆらと揺れている。
左手は浴槽に差し込まれていた。
きっと最初は、そこからオーナーの生命が、赤く溢れていたのだろう。
こちらからの姿では、オーナーの背中しか確認できない。
こちらに背を向け、左手は湯船の中の熱湯で煮られ、右手は湯船に浮いていた。
あるはずの場所から、切断されて。
どっちが先だったのだろうか。
息絶えるのと、切り裂かれるのと。
茫然と立ち尽くしながら、そんなことを考えていた。
ふと曇った鏡に残った血の跡に意図を感じた。
そこには    赤い文字が    書かれていた。
「NEXT YOU」
次はお前だ。と。

決定的な死亡原因は、ピストルの弾が脳を突き破ったことらしい。
拘束された(この時点では右手は正しい位置にあったようだ)オーナーの左目から脳に向けて一発。
眼球を焼かれる痛みを感じるとほぼ同時に、痛みやその他の感覚を享受できなくなったようだ。
失血や切断は犯人の趣味らしい。
第一発見者はマンションの管理人とオーナーの部屋の3軒隣の人間。
外出から帰った3軒隣の人間がエレベーターを降りてオーナーの部屋の前を通った時、家の扉が全開だった。
その時に見えた壁の色が妙に赤くて印象に残ったよう。
1時間後、どうしても気になって玄関から見て見るとまだ扉は空いたまま。
それで奇妙に思い、管理人室に電話。
二人で中に入り、死体を発見したのだという。
「あんなむごいものは初めて見ました。」
音声を変えられ、目にモザイクをかけられた黄色いトレーナー姿の男が、テレビの取材を受けていた。
その映像が全国のお茶の間に届けられている。
私はそれをバーのカウンターで眺めていた。
「奇妙な事件だね。」
マスターが私の目の前のグラスを交換する。
何も言わなくても、欲しているものを出してくれる。頼れるマスターだ。
「世間に見せつけたいのか、隠したいのか、意図が読めない。」
テレビ画面では暴力団の抗争の一部ではないかという報道が流れていた。
「見せつけたいんじゃないの。」
「そう思う?」
「うん。隠すなら本気で隠せばいい。」
「うん、そうだね。」
ニコリと笑う。仏のような笑顔。スキンヘッドだから、お坊さんのよう。
白いカッターシャツと黒い蝶ネクタイ、黒のベストに黒のスラックス。
でもなぜか、全部そろって違和感がないから不思議なものだ。
「でも逆に、世間に見せたいなら、もっとおおっぴらにすればいい。警察に電話するとかね。」
磨き終えたグラスを定位置へ。その透明な輝きは、私の鼓動を共鳴して響かせてしまいそう。
「つまり、こう考えられる。これは、ある特定の誰かに対する、メッセージなのではないかとね。」
グラスに口を付けた。
テンポアップした鼓動を悟られたくないが、もう遅いような気がする。
「そうね。」
店内を流れるBGMが丁度切り替わった。
先ほどまでの甘いメロディとは変わり、どこかで聞いたことのあるノスタルジックなメロディが流れる。
私はグラスをそのままに立ちあがった。
「私に惚れない方がいいわよ。」
そんな背中に声が掛けられた。
「また、いらっしゃい。」

時間は平等に流れていった。
オーナーの死を受け入れられたのかどうかもわからないまま、気が付けば梅雨が明けようとしていた。
梅雨明け前のまだ鬱蒼とした厚雲の下。
浜辺で海を眺めていた。熱帯かと思うようなうだる暑さを潮風が優しくなだめていく。
海の中から一人の男が手を振っている。
どこかの大金持ちのどら息子らしい。今日の仕事相手。
真っ黒な肌に、紙粘土でもつけたかのような分厚い筋肉。
短く刈りあげた髪と、耳に揺れる大きな金色のピアス。
何もできないくせに、周囲に持ち上げられて自分は何でもできると思いこんでいる。
私を買ったお金も、親のお金だってことに気付いていない。そんな部類の人間。
以前はこんなつまらないやつとのつまらないバカンスなんて仕事はしたことがなかった。
ただベッドへと向かい、事を終えるだけ。
今の世の中、それだけでは足りないらしい。足りない何かを埋めるためには、共通体験が必要とのこと。
現にこうしたニュービジネスはニューオーナーの元、開始されたものだ。
新しいオーナーはやり手らしい。
しっかりと一定以上の利潤をあげてくる。これは企業にとって重要なことだった。
解禁前の海でサーフィンをする男を100%無視して、今頃行われているはずの見合のことを考えた。
あの日もリリーは私のことを理解してくれた。
オーナーが殺されてから数日の後、実家に戻った私を見るなり、リリーはその柔らかな腕で私を包み込んだ。
「心配しないでいいからね。」
リリーには分かっているのだ。
私がいったいどんな気持ちでここにやってきたのかを。
私は泣いた。
オーナーのことを思い出しながら、リリーの胸の中で1時間泣き続けたのだった。
電話の音で我に返った。
脳筋野郎はまだ海だ。
着信画面を見て・・・はっとなった。
この番号は一方通行シークレットway。
こちらからは消して掛けることの許されない番号。
体中の筋肉を硬直させて、通話ボタンを押した。
「この間は、すまなかったね。」
電話口から懐かしいあの人の声。神の声が聞こえてくる。
「私にとっても、大切な友をなくしちまった。悔しい限りだ。」
「いえ、そんな・・・。」
「必ず仇はとる。約束する。」
凛とした声は、まるで目の前で発声されているかのように身体に吸い込まれていく。
「それまで君には、辛い思いを強いることとなると思う。覚悟しておいてくれ。」
「はい。」
「じゃあね、また連絡する。」
そういって、通話は無慈悲に切られた。
海からは二人きりのはず時間に電話をしていた私にキレた男が向かってくる。
私はオーナーを殺した奴があの人によって切り刻まれる姿を、近い未来に見られる予感がした。


カットとデッド。
それが彼らの名前だった。
切断を好み、その断面に対する愛しさを隠せないカット。
死こそが美。死の持つ無限の可能性に陶酔したデッド。ただし、自分は死にたくない。
ボスの命令のままにその建物に赴いた。
そしてボスの命令のままに部屋の中に侵入。
ラヴァーズを見つけてからの判断は、全て彼らに委ねられていた。
ボスの目的はあくまでもあの人。
そのためのステップとして、最短を目指していた。
「だいたいよー。」
「なんだい相棒。」
「これだけ繰り返し失敗してるってことは、それだけ警戒も強まってるってことじゃねーか。」
「そうだな相棒。」
「ここで俺たちの出番っておかしくねーか。」
「まったくだ相棒。」
「最初から出るなり、あいつらがケリをつけるなりよー。」
「損な役回りだな相棒。」
「ガチガチに警護されてるやつをボスの指示とはいえその通りにできますかってーの。」
「そんなもんだな相棒。」
「まあできたけど。」
「俺たちだもんな相棒。」
二人の目の前には、一人の男が横たわって死んでいた。
拘束。そして発砲。
それだけで簡単に終わった。
仕事は終わり。これからが彼らのショータイム。
①硬直を遅らせるため、湯を張る。
②風呂に入れるんだから、服を脱がす。
③死姦。死体を見ることはこんなにも楽しい。
④ちょっとだけ、手首を切ってみる。まだ血が勢いよく流れる。
⑤むせるような死の香り。恍惚。
⑥悩み抜いた末、チェーンソーを使って右の手首から先を切断。理由。五指のバランスが綺麗。
⑦切断した手首をクレヨンのように使い、壁に殴り書き。
⑧コレクションへの乱雑な扱いへの怒り。喧嘩。いつものこと。
⑨ボスからの電話。喧嘩もおあずけ。いつものこと。
⑩言われた番号へ発信。男の携帯を使う。向こうの動きを感知すると同時に電波を切断。
⑪退室。部屋は綺麗に。発つ鳥跡を濁さず。でも二人とも掃除は苦手。
 カットは隠れ家に帰ってから、大切なコレクションを浴室に忘れて帰ったことに気付き、泣いた。
 デッドがカットを慰める。喧嘩もそれで終了だった。


仕事を終えていつもの部屋へ。
しんとした空気が私を迎える。
この蒸し暑くなってきた世界の中でも、凛とした静謐さを保っている不思議な空間。
ある人は言った。
ここはお前の生き方が作りあげていると。
ウィスキーのグラスを取り上げて、しかしそのまま下ろした。
ソファに腰をかける。
サーフィン野郎の怒りを受けたお尻が痛み、顔をしかめた。
その分、追加料金をふんだくってやったので、なんとか気持ちをやり過ごす。
さすがにパパとママに無許可でどうこうできたりはしないであろう額。
パパとママには怒られるのか、慰められるのか。
どちらにしろ、あいつ自身の心がなにも変わることはないと思う。
ぼんやりと宙を見やる。
意識的ではなく、心にうつりゆくよしなしごとをぼんやりと考える。
一つ、オーナーを殺した奴(奴ら?)のこと。
一つ、あの人の言葉。
一つ、リリーのお見合いのこと。
一つ、夢で見た父親のこと。
何かが引き金となって、何か別のことを連想させられる。
答えは出ない。
それを認識しつつ、無為な行為にふける。
これは人間の防衛本能の一種なのだろうか。
脳を狂わせないように。
脳を惑わし続けるために。
「NEXT YOU」
不意に目の前に真っ赤な文字がちらついた。
浴室の壁に殴るように書かれていた文字。
電話をかけてきたのは、間違いなくオーナーを殺した奴。
私がそこへ行くことも計算済みのはず。
YOUとは私のことなのだろうか。
そのような気もするし、そうではない気もする。願望なのだろうか。
死が身近に感じられている。
恐怖とも違う、なにかおぞましい感情が私を取り囲んでいる。
私は生きるためにこうして生きている。
その生を奪おうとするものには本気で立ち向かわなくてはいけない。そうしなくては、生きていけない。
空間に取り込まれそうになる。
この空間は私を具現化してくれると同時に、いつも私を取り込もうと狙っているのかもしれない。
静謐の主に問うてみる。
私はこれからどうやって生きていけばいいのかと。


「Posttraumatic stress disorder。心的外傷後ストレス障害。知らない?」
彼女は。雑踏の中で。私の目の前に立って。
これ以上ないほどに穏やかな日だった。
波紋一つない湖面のように穏やかな大気に包まれていた。
私は歩いていた。
昔は綺麗だったチュニックに紺のジーパン。
平日の昼前にフラフラと歩く学生は、この街では異常ではなく、日常だった。
罵りあい、笑いあい、卑下しあい、自慢しあい、人々の交流が怨霊のように複雑に絡まっていた。
いつものように、意識を飛ばしながら歩く。
世界の情景が、視覚として脳を刺激するが、感情は何一つ動かなかった。
まだ暑さが残るこの街にも、大きな公園がある。
その木陰は色々なものから守ってくれる気がする。
頭のどこかでそう考えているのだろう、足はそちらを向いていた。
不思議と。
足が止められた。
ウジ虫のように蠢く人間の中で、その人は輝いたオーラをまとって立っていた。
モザイクとガウスぼかしのかかった雑虫のなかで、彼女だけは人間だった。
まっすぐな瞳に射抜かれた。
光線でも発しているかのように、その視線は私を射抜いていた。
そして一歩ずつ。確かな足取りでこちらへと向かてくる。
出会ったことなどなかった。
出会っていれば忘れるはずがなかった。
それほどの強烈な存在感を、視線だけで放っていた。
時の流れが肌で感じられる。鋭敏になっている。
重油の中を歩くように全身をなぞっていく。
そうして、彼女は私の目の前で止まった。
そうして、彼女は、一言、そう言ったのだった。
「Posttraumatic stress disorder。心的外傷後ストレス障害。知らない?」

彼女に連れられて入った喫茶店。
大きなウィンドウは路面に面しており、街を歩く人々がちらちらと中を覗くふりをして通り過ぎていく。
誰も本気で中を見ようとなんて思わない。
こそこそと隅にいくより、こうして普通にしている方が店員や他の客の印象にも残らない。
そう教えられた。
彼女の話はよくわからなかった。
私の核心に触れた気もするし、他愛もないおしゃべりにすぎなかった気もする。
浅黒い肌。
目が隠れるほど前髪を伸ばし、後ろにも腰ほどの長さの髪をたらしている。
前髪は分けられており、その左目は見えるが、右目は髪に隠されている。
身長は高く180センチ近くあるのではないだろうか。
モデルのようなスレンダーな身体には無駄なものが一切ない。
そして、ひどく、中性的な人だった。
どう見ても女性なのに、話していると男性な気がする。
そしてその類まれな容姿にもかかわらず、誰も彼女を振り返らなかった。
気配を消すなんてものではない。
彼女は自分の存在を操作しているようだった。
彼女は私のことを何度も街で見かけたと言っていた。
そうして、声をかけようと思ったのだと。
「私はね、あんたみたいな子を拾って回るのが趣味の、変態野郎なんだよ。」
彼女はそう言って笑っていた。
なんだか少しむっとしたような気がするが、瞬間的にそれを忘れさせる雰囲気が彼女にはあった。
「というわけで、来ない?」
私はナンパされていた。
視線を落したまま、グラスのオレンジジュースをすする。
ズズズとお行儀の悪い音がストローからこぼれる。お行儀の悪いストロー。
クーラーのきいた店内はひんやりとしていて気持ちいい。
でもこんな涼しい店内なのに、私のコップは大汗をかいている。
そして彼女のコーヒーカップからは湯気が立ち上っていた。
ズズズ。ずずずずず。
「・・・決まりね。」
私はよくわからないこの人について行くことにした。
理由は変なことはさせないし、家にも帰してくれるっていうから。
嘘。
本当は、私が、この人に惚れちゃったから。
伝票を手に、私がコップを置くのも待たずに出口に向かう彼女の背を見ながら、心の中でそう呟いた。

部屋に入ってから1分としないうちに、私は激しく後悔した。
なんてことはない、この人は本当に紛れもなく、根っからの変態だったからだ。
「だから言ったじゃない。変態だって。」
部屋に入ってから20分後、そう言って慰められた。ちょっとだけ慰んだ。
連れてこられたのは大通りから一歩入った路地裏にある雑居ビル。
1階から2階へ上がり、そこから地下へ続く長い階段を降りる。
彼女に次いで入ったその部屋には、雑多なゴミ捨て場のようだった。
様々な色の、様々な形の、様々な大きさの服が、あたり一面に散らかされていた。
部屋は赤に近いピンクの照明によって照らされ、それとは別に簡易照明が白熱球の赤さで光っている。
そしてまだ二桁にもなっていないだろう子供たちから、皺だらけの老婆まで、ざっと15人ほど。
奥の部屋にもまだいるようだ。
気持ち悪いことに、誰もこちらを見ようともしない。
二人で話しこんでいる者、一人でうずくまっている者、1冊の本を三人で眺めている者、抱き合っている者。
異様な熱気と冷気が混在していた。
さらに異常な光景。彼らは、そして彼女らはの中には、服をまったく身に付けていないものも多かった。
その身体には、赤い光の中でも分かる、傷だらけの肌も多かった。
彼女は扉を閉じて、私に言った。
「さあ、服を脱いで。」
本能だろうか。
すかさず振り返り、扉に手をかけ外に駆け出す私。
そのイメージを読んでいたように、扉を強くつかむ彼女。
イメージの私だけが、扉の外へ、自由な元の世界へと帰っていった。
「説明するから、いいから早く脱ぎな。」
もう私は犯されて死ぬしかないと思った。

激しい抵抗の結果か、なんとか私は奥の小部屋を勝ち取った。
あんな場所で脱げるか。こんな場所でも脱げないけど。
全てをさらけ出した私を、彼女は切れ長な左目でじっと見つめた。
そして、もういいよと、部屋から出ていった。
訳がわからないまま脱いだ洋服を身に纏うと、殺されなかった不思議を思いながら部屋を出た。
彼女は長椅子にかけて虚空を見つめていた。
その姿は、まるで美の化身として大理石から彫り出された
ギリシア時代の彫刻のように見えた。
何を言っていいかもわからず、じっとそのまま立ちすくむ。
重苦しい空気が漂っている。重圧が身体を押しつぶしそう。
何時間たったのだろう。
本当はきっとそんなに経っていないのだろうけど、段々疲れてきた。
その場に腰をつく。
三角座りをしたまま、じっと彼女を見つめた。
どうにも惹きつけられる不思議な魅力に溢れている。
やはり彼女はぴくりとも動かない。
扉のない出入り口。
その奥の方から、真っ赤に熟れた桃色がこぼれてきている。
ここは一番奥の部屋なのだろうか。
途中にもいくつか扉があった気がするから、人ももう少しいるのかもしれない。
いったいこの人はなにものなのだろう。
カタリという物音にはっと頭を上げた。
眠りかけていたようだ。なんだかんだで安心している。
彼女は立ち上がりこちらを見下ろしていた。
その美しい唇が動く。
「君は幸運だ。君は美しい。
そこで、提案がある。
私のために働いてくれないか。
辛い仕事だ。きっと死にたくなる。
だが、その代わりに、私は君に金を渡す。
君たちが生きていくためのお金だ。」
本当に綺麗。
よどみなく動く唇と、なんとも耳触りのいい声。
暗い部屋、閉鎖空間、異様な空気、高圧的な態度。
「嫌とは言わないだろう。」
嫌だなんて・・・言えるわけがなかった。
私は彼女に惚れてしまっていたのだから。