初めての客のことは、あまり覚えていない。
目が二つ付いていたことと、中央に大きな鼻が一つついていたこと。
アルコールの混ざった臭い息と、最後は泣きながら私の体を抱きしめていたこと。
それがすべて。
場所についてははっきりと覚えている。
「Belle Vénus麗しのビーナス」
駅の裏にある、薄暗いビルの3階。
確か雨が降っていた。いや、そんな気がするだけかもしれない。
1DKの狭い部屋の中央に、小さなシングルベッドが置いてある。
エアコンは付いているが、中身はイカレていて、使い物にならない。

がんばってきてねと、ウインクと一緒にオーナーから手渡された鍵を差し込む。
ガチャリと鍵は簡単に回った。
タクシー代を払ってきたソレが、私の後ろに立つ。
私は何も言わずに扉を開けた。
同時に背中に感じる圧力。
肉の塊が私を強く抱きしめていた。
そうだ、たしかソレは豚のような体に、豚のような臭いで、豚のようににくめないやつだった。
それが私のデビュー。
なんてことはない。
一瞬の2時間だった。


1986年。
私は地方の小さな都市に生まれた。
父親は忙しい人で、1年の内に10日ほどしか家におらず、100日ほどしかこの国にいなかった。
母親には可憐という言葉が一番似合う。
一番最初に浮かぶのは、白く、つばの大きな帽子をかぶって、公園で本を読んでいる姿。
家事すらも苦手な、何もできない人だ。
他に家族は兄と姉。そして、ちょっとわけありな妹。
この妹については、あとで紹介しよう。私と同い年で、ブロンドの、とてもかわいい子だ。
生まれてからしばらくは、幸せな生活が続いていた。
食べるものにも困らず、欲しいものは何かの記念日に合わせて手に入った。
父親が家に帰ってくる日は、前の晩から待ち遠しくてなかなか寝付けなかった。
父親はいつも、世界中のお土産を手に帰ってくる。
大きなスーツケースは、私にとっては宝の箱だった。
お土産がなんであろうが関係ない。
めったに会えない父親の生活の一部が垣間見えるだけで、私は幸せだった。
兄は私より九つ年上。父親が近くにいない分、父のような存在だった。
私が物心ついたときは、丁度中学校にあがったところだった。
部活動のない日は一緒に遊んでくれる。
私は、毎日部活なんてなければいいのにと思う。
兄は、部活は楽しいよと言う。
そのイメージには、途中から必ず姉が入ってくる。
五つ違いの姉。
私は姉が嫌いだ。
いつも私のことをいじめてくる。
そんな姉を、兄が叱る。
母親は何も言わない。
姉は、兄が自分を叱ることに対して、再び私に八つ当たりをする。
私は姉が嫌いだ。

私は今、学校に通っている。
高等学校2年生。
ちゃんと学生証もある。
お金さえあれば入れるような、私立高校。
経緯は簡単だ。
たまたま私を気にいった客が、そこを運営していたから。
今は女の子も学歴が必要だなんて、偉そうな顔をして神妙に語っていた。
私は興味がなかったが、嬉しそうに頷いた。
もはやそれは演技ではなく、私の生き方だ。
長いものには巻かれる。もらえるものは貰う。
その男はすべてを準備してくれた。
入学金も、学費も、制服も、入学証明書も。
入学式の日。
母が兄と姉を連れてやってきた。妹は別の学校に通うことになっている。
他には誰もいない。
部外者は私の家族だけ。
出席者の誰よりも着飾ったその集団は、明らかに異質だった。
姉だけは嫌そうな顔をしていた。
2人は満面の笑みを浮かべていた。

部屋の扉が開いた。
話は電話で聞いている。
2人の外国人が入ってきた。
片方は肌が黒い、筋肉質の男。
片方はさらに肌が黒い、背の高い男。鉛筆みたい。
電気の消えた夜の部屋に、そのまま溶け込んでいきそう。
何か飲む?と聞いてみる。二人は何も答えない。何も答えられない。
言葉が分からないらしい。
ウイスキーの瓶を持ち上げる。
二人はベッドまでやってきて、並んで腰かける。
氷入りのグラスを渡して、茶色の液体を注ぐ。
筋肉質の男がむせる。ボスはこっちだと思ったが、どうやら鉛筆の方らしい。
「時間は三時間ね。」
時計を指して、指を三度回す。
鉛筆が頷く。
親指で背後のバスルームを指す。
鉛筆が立ち上がってそちらへ向かう。
筋肉は眉を寄せてグラスを見つめている。
バスルームからシャワーの音が聞こえてくる。
私は携帯を取り出し、オーナーの携帯へワンギリをする。
それがカウントの始まりの合図。
きっちり三時間後に、再び電話がかかってくる。
その電話には二つの意味が込められている。
仕事の終了の確認と、仕事を無事に終えられたかの確認。
ヘルに誘われる娘も多い、危険な仕事だ。
命の保証なんてない。
私に仕事を教えてくれた人もいなくなった。
生きているのか死んでいるのかもわからない。
生きていてほしいとは思う。

父親が仕事をクビになったのが1994年のこと。
バブルで稼いだお金は、バブルの崩壊と共に消えていった。
父はプライドをもって仕事をしていたからこそ、新しい職探しも難航した。
47になるプライドの高い男を、いまさら雇おうという企業なんてなかった。
代わりに世間なんて知らなかった母親が働きに出ることになった。
小学校から帰ると、いつも父がいる日々が続いた。
父親は居間でお酒を飲んでいる。
それまで家にいることがなかった父がいつも家にいる違和感。
しかしそれは幼い私にとっては幸せなことでもあった。
リリーと二人、学校から帰ると、チャイムを鳴らす。
二度短く連打するのが私と父との秘密の合図。
部屋の中から物音が聞こえて、父が扉を開けに来るのが分かる。
私は手に赤丸の付いた習字を持って、父が扉を開けるのを待つ。
父は優しかった。
幸せな記憶。
まだ、殴られたりしなかった頃の記憶。

鉛筆は私の目にリボンを巻き付ける。
両の手も縛りあげ、足も縛る。
私は地面に転がされている。
鉛筆はじっと私を見降ろす。
そのまま何もしない。
ただじっと私を見つめる気配を感じる。
私も何もいわない。
再びシャワーの音が聞こえる。
鉛筆と入れ違いにバスルームへと消えた筋肉だろう。
彼はまだ動かない。
白のワンピースを着ているせいで寒くはない。
冬から春へと変わる季節。
彼らはどこの国の人間なのだろう。
なんのために、この国へとやってきたのだろう。
なぜ、こんなところで、私なんかと向き合っているのだろう。
ぼんやりと思う。
しかし、考えない。
ただぼんやりと思う。
シャワーの音が止む。

一度だけ、家族全員で旅行に出かけたことがあった。
まだ父が働いていたころ。
一泊二日で温泉へと出かけた。
茶色いしなやかな体をした馬に乗った気がする。
新幹線にも乗った。
私は、黄色いワンピースを着ていた。
母はいつもの白い帽子。
映像として浮かぶのはそれだけ。
それ以外の記憶は写真で補完されたもの。
つぎはぎだらけの断片的な記憶。
今思えば、あれは妹が我が家にやってきた記念の旅行だったのかもしれない。
おそらくそうだろう。
母はきっと答えてはくれない。
リリー。
私の大切な妹。大切な家族。大切な友達。
私たちは同い年だった。
彼女は白い肌にカスタードのような淡いブロンド。
瞳はうっすらとブルーの光を帯びている。
劣勢の遺伝子が奇跡のような確率で現れた小鳥。天使。
ある日、ふらりと戻ってきた父親は、スーツケースと共に少女の手をひいていた。
「今日から、新しい妹だ。」
その言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
玄関の中。真っ白なワンピースに身を包んだ、幼い少女。
父親の声を聞きつけて、真っ先に玄関へと飛び込んだ私は、ただ立ち尽くしてしまった。
大好きな父親が目の前にいるのに、その視線すらも引き離してしまうほどの衝撃を彼女は備えていた。
言葉を発することもできない。
ある種の畏怖を覚えていたのかもしれない。ただ単純に私が幼すぎただけなのかもしれない。
天使になったゴルゴン姉妹の瞳をみたような私は、背後にやってくる母親の気配すらも感じ取れなかった。
次の記憶では、私はもう彼女のことが大好きだった。
姉に抱くのとはまったく違う感情を、私は彼女に抱いていた。
遊ぶ時はいつも一緒。
私の持つ人形を貸してあげる。
彼女に触れられた人形は、それだけで聖なる加護を受けた神の器のよう。
そのまぶしい笑顔は、まるでそれまでの母親の笑顔を吸い取ったかのように、明るく輝いていた。

筋肉は私の体を貪る。
ただ、欲する。
欲望のままに。情欲のままに。
鉛筆にされた拘束はそのままに、筋肉は私を犯す。
ただ時が過ぎるのを感じていた。
終わったら、ラーメンを食べようと考える。
あの熱さが恋しい。
シュボッと火のつく音がした。
鉛筆が煙草を吸い始めたみたい。マルボロの香りがする。
父の吸っていた煙草と同じにおい。
鉛筆は、相変わらず立っているだけのようだ。
そういう趣味なのだろう。
そんな男も多い。ゴミのように多い。
少しだけ鉛筆が気になっている自分がいるのを自覚する。
自分で自分を捉え、自分で自分を考えさせ、自分で自分を行動させる。
生きていく中で私が学んだことの一つだ。
筋肉はすでに息が上がっている。
あの筋肉はただの見かけ倒しのようだ。
くだらない。
ほんとうに、くだらない。
まだ10分も経っていない。

姉はとにかく私が嫌いだった。
私にはよくわかる。
なにせ私も姉が嫌いなのだ。
嫌いならば近寄らなければいいのに。
そんな簡単なこともわからない姉のことは愚かだとしか思えない。
今もそう。
あの人は愚かなのだ。
ある日のこと。
小学校に通う私は、真っ赤なランドセルを前に、翌日の準備をしていた。
しかし翌日、学校で困ったことが起こる。
準備したはずの教科書が、すべて入っていないのである。
泣いた。
学校について、朝一番の教室で、涙をぼろぼろとこぼして泣いた。
怒られるからではない。
準備したはずのものがないという事実に困惑していたのだ。
家について、私は母親に告げた。
「姉がランドセルの中身をすべて出してしまったのだ」と。
教科書は綺麗に私の机に収められている。
母は穏やかな瞳で「お姉ちゃんを疑っちゃだめよ。疑うのはもっと近くの人からね。」と言った。
そんなはずはない。リリーはそんなことはしない。
母はそれ以上はなにも言わない。
私は兄の帰りを待つ。
家の中で私を守ってくれるのは兄だった。
本の中の王子様がそのまま飛び出してきたみたい。
いつも優しく、凛々しく、公平な兄。私の王子様。
Homme fatale
子供部屋。
リリーは床で宿題をしている。
私は机に座って、じっと兄の帰りを待つ。
姉は一度帰った後、私を横目に見てクスリと笑い(少なくとも私にはそう見えた)また家を出て行った。
リリーが私に宿題をしなくてよいのか尋ねる。
あとで、と答える。
リリーは私をまっすぐに見つめた後、黙って再びノートへと向かう。
彼女は私の気持ちをよくわかってくれる。何も言わなくても分かってくれる。
私のリリー。大好きなリリー。
兄が帰ってくる。
私は兄が部屋に入ってくるのを待つ。
ただいまという兄の声が体と一緒に部屋に入ってくる。
顔をあげ、兄を振り返る。
目が合う。
それだけで、兄はなにかを察知してくれる。
そして、ニコリと微笑む。
おかえりというリリーの声すら、背景へと沈む。
すでに心が泣いている。
涙よりも早く、泣いている。
私の口が動くより早く、兄はまっすぐに私へと向かい、膝を折って目線を合わせ、私にはあまりにも大きな手を伸ばして、私の頭をなでてくれる。
言葉にならない言葉を、兄はまっすぐに受け止めてくれた。
リリーもいつの間にか私のそばに立っている。
兄は私がすべてを吐き出すまで、ただ黙って話を聞いてくれる。
私の癇癪がおさまるまで、ただじっと。
私はすべてを出しつくした。
涙も、言葉も、感情も。
その夜には、すべてが解決していた。
姉は私を睨みつけながら私に謝り、母はそんな姉を優しく優しく叱ってきかせた。
「なんでこんな愚かなことをするんだい。」
兄に尋ねられた姉の顔を見たとき、私は心がすっとした。
愚かな姉。なんと愚かな姉。私と兄の間には入ってこれない。勝利の女神はいつも私に微笑むのだ。

電話が鳴った。
異様なことだ。
ここの番号を知るのはオーナーだけ。
今まで5年間、一度も使われたことがない。
間違いだろう。
無視しようと決めた私の、リボンが解かれる。
鉛筆が顎で電話を指す。
出ろということだろう。
着たままのワンピースについた埃を払いながら、電話口へと向かう。
「はい。」
「すまない。もう客は来ているか。」
「ええ、真っ最中だったわよ。急用?」
「今すぐ逃げろ。そいつらは偽物だ。」
言葉に思考が追い付かない。
言葉の意味がわからない。
「本物が殺されていることを確認した。いいか、私は伝えたからな。そいつらも気付いたかもしれない。すぐに逃げろ。」
一方的に電話は切られた。
無機質な音が耳もとから鳴っている。
頭は追いついていなかったが、体は逃げる準備に入っていた。
扉までの最短ルートへと体をむけようとする。
「殺されたって報告か?」
低い日本語が聞こえた。
「それとも、もう殺されたって知ってたのか?」
鉛筆が煙草を片手にまっすぐに私に向かっていた。
黒い肌は暗闇に溶け込むが、白い眼は逆に夜の空気の中では異様な輝きを見せる。
「喋れるんだ。あんた誰?」
「俺は客さ。君のな。」
「殺したの?」
「ああ、殺した。」
話せるのは鉛筆の方だけらしい。
筋肉は迷いのある瞳で二人を見ている。
「理由も教えてやろう。君に会いたかったからだ。」
逃げることは、98%諦めていた。
私は生きる。そんな気がしたから。
だいたい、女である私がまともにやりあって勝てるはずがない。
「さあ、まだ時間はあるはずだ。金はしっかり払ってるんだぜ。続きをしよう。」
これ以上ないほど優雅に、右手で床に寝そべるように合図をされる。
基本的に人の指図を受けるのは気に食わないのだが、そのエスコートはどこか魅力的なものを感じた。
私は生きる。
ならば、もう少しこの流れに身を任せてもよいかもしれない。

初めての時は、涙を流して謝られた。
私は父が大好きだったし、その父を自分が泣かしてしまったということが、ひどくショックだった。
その日。
秘密の合図をしたにもかかわらず、玄関の扉はなかなか開かなかった。
いつもは隣にいるはずのリリーも、今日は日直で別々の下校。
一人、玄関の前で佇む。
少し暑くなってきていた。
冷えた麦茶が飲みたいと思った。
家の中で何かが動く気配。
父親が出迎えてくれる。
今日は学校で育てている、私の朝顔が咲いていた。
それを真っ先に報告しようと思った。
しかし、その日の父親は、いつもの父の顔ではなかった。
お酒の量がいつもより多いからだとすぐにわかった。
父は半分とじた目で私を一瞥したあと、おかえりも言わずふらついた足取りで居間へと戻っていく。
私は扉に鍵をかけ、父の後を追う。
少しだけ怖い。
居間に入ると、父はすでに椅子に腰かけ、お酒のグラスを傾けていた。
ぐっと勇気を出して、隣の椅子に座る。
「ただいま!あのね、今日ね。」
そこからは音もない、スローモーションの映像。
机を思い切りたたきながら立ち上がり、なにかを叫びながら、父は私の体が椅子から転がるほど強く、頬を右の平手で叩きつけた。
痛みはあとからやってきた。
状況もあとから飲みこめた。
心に穴をあけられたかのよう。
ぽっかりと、時間も意識も空間も穴があいてしまったに違いない。
びっくりしたせいで、私は泣いた。
泣きながら、幼い私の頭の中いっぱいに状況を理解し、頬や転んだときにぶつけた痛みを思い出し、さらに涙が溢れた。
その声に我に帰ったのだろう。
父親は私を抱きしめて、背中をさすってくれた。
ひたすらに、ごめん、ごめんと繰り返していた。
その声とそのぬくもりに、私の方は徐々に落ち着きを取り戻してきた。
そして今度は父が泣いているということが悲しくなってきた。
私のせいで父は泣いている。
私は言った。
もう大丈夫。ごめんね、泣いてごめんね。
それでも父は泣きやまない。
泣きながら、ごめんと繰り返す。
私は悲しくなって、再び涙を流す。
お互いにごめんと繰り返しながら、お互いを抱きしめ、お互いをあやす。
二人のごめんが錯綜する。

それからは父が暴力をふるうことが多くなった。
私だけではない。
すべてに対して暴力をふるう。
兄だけがその力に対抗できた。
だから父も、兄がいるときはおとなしい。
父が大好きな私でさえも、二人きりになることは避けるようになっていた。
とりわけひどいのが母に対する時だ。
母は何も言わない、何もやり返さない。
ただ、静かに泣き崩れる。
父はその姿が気に入らず、さらに手をあげる。
子供たちに対して手をあげたときは、かならず最後に謝ってくる。
しかし、母に対しては全くない。
どうしてこうなってしまったのか、私にはわからない。
姉はリリーを責めていた。
リリーにはなんとなく状況が分かっているようだった。
二人だけの時、何度か聞いてみたことがあるが、結局わたしには理解できなかった。
兄が「大人の話なんだよ。」と教えてくれた。
私にはわからない。
私はまだ子供なんだから。

リリーの本当のお母さんを、私は知らない。
私だけではない、誰も知らない。
「おかあさんは、もう死んじゃった。」
リリーがそう言っていた。
リリーは別の国で、お母さんと一緒に暮らしていたらしい。
ある時病気になって、父に手紙を書いて、最期を看取った後に父に連れられてきたのだという。
それがあの日。
私たちが初めて会った日。
私はすぐにリリーと仲良くなった。
リリーはお裁縫が得意だった。
小さい手を器用に動かしては、小さなカバンに小鳥の刺しゅうを施していた。
私はリリーに習い、針を動かした。
チクリと、人差し指の先が痛んだ。
ぷっくりと膨らむ真っ赤な果実。
リリーはその手をとり、果実を舌ですくい取る。
だめよ、白雪姫。そのりんごは毒りんごなのだから。
しかしリリーは倒れることなく、にっこりと笑う。
「こうすれば大丈夫。おかあさんが教えてくれたのよ。」
リリーはこんなにも可愛い。そして優しい。
兄も父も、リリーのことが大好きだった。
しかしもちろん、姉はリリーにも意地悪だった。
そして不思議なことに、母もリリーには意地悪だった。
姉のように意地悪なのではない。
ただ、私が遊んだ人形がそのまま置かれていると、母はリリーを叱る。
おやつのカステラが一切れ少なかったり、幼稚園で描いた絵を見せてもほめてはくれない。
一番気になったのは、小学校に上がった時。勉強机を一人だけ買ってもらえなかったこと。
「一緒に使えばいいでしょう。」
母はいつものように笑いながらそう言った。
でもその机は、私と母と父と三人で買いに行ったものだった。
父がそんなリリーにこっそりとごめんなと言っていたのを何度か見かけたことがある。
リリーもそれを分かっている。
私にはそれが分からなかった。
そんな当時の自分を叱ってやりたい。
今ならわかる。
まだ子供だけど、いっぱい大人に近づいた今ならわかる。
リリーは母にとって、面白くない子だったのだ。

父が亡くなったのは1988年の春。3月。厳しい寒さも和らぎ始めた頃。
本当にあっけなく死んでしまった。
最初に見つけたのは私だった。
学校から帰り、秘密の合図。
しかし、どれだけ待とうとも扉は開かない。
きっと眠ってしまっているのだ。
以前、父が眠ってしまい家に入れなかったことがあり、そのために持たされた鍵を使って扉を開ける。
もう慣れてしまったお酒のにおい。
居間の机に突っ伏した父親を見て、やはり眠っているのだと思った。
眠っている父の姿は、以前の父のまま。
暴れず、怒らず、優しいMon père。
カバンを置き、向かい側に座ってその顔を眺める。
程よく暖房のきいた部屋で、父は安らかな顔で眠っていた。
しばらくその顔を眺め、ふと違和感を覚えた。
わからない。
わからないけど、何かがおかしい。
小さく芽生えた不安の芽は、時間と共にものすごい速さで膨らんでいく。
時計の針の音が大きく聞こえる。
心臓の動悸は早まるのに、時間はねっちりと粘度を増して進む。
怖くて怖くてたまらなくて、父親にすがった。
「お父さ」
触れた瞬間に、違和感は確信に変わった。
冷たいからだ。
冷えてしまった煮物みたい。
その冷たさは私から体温をものすごい勢いで奪っていく。
死に吸いこまれそうになって、本能的に尻もちをついていた。
下から見上げた父の白い横顔は今も脳裏について離れない。
動けなかった。
悲鳴も上げられなかった。
11歳の少女には、事態を認識することしかできなかった。
それから。
誰かが帰ってきて、誰かが私に声をかけ、だれかが父親に気付き、そしてすべてを手配した。
兄だった気もするし、母だった気もする。
私たちはとても大切な人を失った。

父は私にとって特別だった。
私と父は親子であった。
そしてそれと同時に恋人でもあった。
父がずっと家にいるようになり、まだお酒を飲んで暴れるようになる前のこと。
その日は雷雨が激しかった。
それはまるでエレクトラの嘆きのよう
それは夜になっても治まらず、むしろより一層激しさを増していた。
私たち子供はみんな同じ部屋で眠っていた。
母と父だけが別の部屋で眠る。
8歳の私は、家を壊してしまうのではないかというほどの自然の暴力にガタガタと震えていた。
あの日、母と兄はこの家にいなかった。
母は近くにある実家に帰っており、兄は受験のために泊りがけで家を空けていた。
隣の布団では姉がぐっすりと眠り、反対側の布団ではリリーがつつましげに眠りについていた。
雷鳴は続く。
私は部屋から抜け出し、父親の部屋へと向かった。
ボウと明るい部屋の中で、父は求人の冊子を読んでいた。
何度も面接を受けに行っては、何度も落とされて帰ってくる。
それでも父はめげなかった。
「お父さん。」
私の声に反応して、父はこちらに振り向いた。
「どうした。眠れないのか。」
「うん。」
トテトテと父親に近づき、その横に腰を下ろす。
「雷が怖いのか?」
「うん。」
「そうか。でも部屋にはお姉ちゃんもリリーもいるだろう。」
「二人とも寝ちゃったんだん。」
「お前も寝ればいいじゃないか。」
「怖くて寝れない。今日は一緒に寝てもいい?」
父は仕方ないなと笑い、冊子を脇へと置いた。
「俺ももう寝るか。おいで。」
布団はすでに敷かれていた。
父はその上に胡坐をかいて座っており、私は畳の上に足を投げ出して座っていた。
父の呼びかけに応じて、布団の上へと移動する。
そして父の腰に抱きついた。
父の大きな手が、私の頭を優しくなでてくれる。
私は父が大好きだ。
そのまま布団の上でじゃれあう。
こうしていると、雨も雷も怖くなくなるから不思議だ。
「さて、じゃあ寝るか。」
父は立ち上がって、部屋の電気を消した。
月光なんてないこんな夜は、その闇の深さもいつも以上。
暗く、蒼い。
最初は何も見えなかったが、徐々に暗順応した眼は、世界を認識し始めていた。
父の左の二の腕を枕にする。
父のたくましい腕が私の頭の下で筋肉を動かす。
雨音がうるさい。
私は、なにか、異様な興奮に包まれていた。
そう言えば今日は満月だと母が言っていた。
ああ、
セレネよ、アルテミスよ。
月の魔力が私を狂わせたのだ。
私は父に口づけをした。
親子の親愛の情を表す、眠りの前の優しい口づけ。
父はにっこりと笑った。
一瞬の口づけをもう一度繰り返す。
父はそれに答えてくれる。
子供の戯れ。
父にはそんなつもりなど毛頭なかったに違いない。
一瞬が一刻に。一刻が一時に。
父も異変に気付く。
「どうした?」
尋ねる声に、私は口づけで答える。
そして私は、禁断の扉を開けようとした。
父の閉じた唇を舐めあげる。
父は反射的に身をひいた。
私はそのまま父に近寄り、その胴体を跨いで馬乗りになる。
交差する視線。
父は何も分かっていない。状況も、境遇も。
娘がどんな想いであるのかも。
雷雨に加え風も出てきた。
大罪に神の裁きが下されるのであろう。
私は女で、父は男だった。
許されざる大罪。
しかし、そんなものはどうでもいい。
しばらくの時が過ぎ、ことを成しえた満足感が、私を満たしていた。
後悔とも懺悔ともとれる表情を浮かべる父の胸で眠る。
実はこれが私の初めてではない。
父には秘密であったが、その時には、私はすでに女だった。

三時間が過ぎ去り、鉛筆と筋肉は部屋を出て行った。
去り際。
「噂通りだな、
ノルンの末女。」
「なにそれ。」
「あんたのことだよ、Mademoiselle。」
そう言って鉛筆はニヤリと笑った。
生きていた。
やはり生きていた。
運命の女神はまだ私を見ていてくれる。
ベッドに座りなおし、鉛筆が置いていった煙草を手に取る。
仕事の直後に一服するのが私のルールだ。
暗い部屋。
雲が途切れたのだろう、一筋の月光が差し込む。
白く暗く、そして蒼く。
部屋中の埃が雪のように舞い上がる。
穢れた雪原の中で、私の体はゆっくりと眠りに就こうとしていた。
と、携帯電話が叫ぶ。
逃げろと言いながら、時間きっかりに電話をかけてくるあたり、あの人らしい。
鈍った腕を持ち上げ、電話を手にする。
「逃げなかったんだな。」
「無理に決まってるでしょ。無責任な人。」
「心配だからこうして見にきてやったんだろう。」
「そうね。ありがとう。」
「・・・・・・。」
「はぁ、疲れたから寝るわ。」
「そうか。」
「・・・・・・なに。何かあるなら早く言って。」
電話口の相手は答えない。三秒間きっかりの沈黙。
「生きててよかったよ。」
そう言って、電話を切った。
なんだったんだろう。いつもはものの二、三言で電話なんて切る人なのに。
本当に不可思議な人だ。
奥が深いのか、間口が広いのかすらわからない。
それはとても魅力的だ。
だからこそ私はあの人についている。
瞼が重い。
本当に重い。
そう言えば、そろそろ父の命日だ。
そんなことを思いながら、私はそのまま眠りに就いた。

当時私は6歳で、兄は15歳。
私は兄のことが大好きだった。
兄はいつでも優しく、姉から私を守ってくれるヒーローだった。
私の中で兄は絶対であり、真実であった。
兄の行動はすべて神聖なものであり、私は兄に追随することが世界に対する何よりの自慢であった。
兄は誰からも慕われていた。
母からも父からも姉からも妹からも学友からも教師からも。
幼いながらもすべてを内包する包容力に人々は魅了された。
姉が私を嫌う理由は、ひとえに兄が原因だった。
姉も兄のことが大好きだった。
しかし、兄は姉よりも私に対して優しかった。
そのことが姉にはどうしても我慢ならなかったようだ。
私より5年も早くこの世に生を受け、それだけ長く兄と接しながら、兄が私を選んだのが許せないらしい。
もちろんそんなのは姉の被害的妄想であり、至極自分勝手で短絡的な思い込みである。
兄は誰に対しても公平であり、平等であった。
姉は自分が特別になれないことを、他を特別に見立てることで自分の中で消化していたのだ。
本当に愚か。愚かな姉よ。
しかしこれに矛盾するが私は一つだけ、兄の特別を手に入れていた。
誰にも話せない。誰にも話さない。二人だけの神聖な秘密。共有の罪。二人だけの絆。
ある日の夕方の公園。
私は独りで砂場に座っていた。
リリーとは仲良くなっていたが、その日は本当に珍しく、私はリリーと大げんかをした。
なんてことはない、悪いのは私。
リリーが手を滑らし、私の人形が床へと落ちた。
その衝撃に、腕が取れてしまったのだ。
それは私の一番のお気に入りであり、私はリリーを非難した。
リリーはうつむいて涙を浮かべて私に謝ってくれたが、私はどうしても私を鎮めることができなかった。
そのまま母に外出の旨をつげ、一人で近所の公園へとやってきた。
大勢いた子供たちは、陽が落ちていくにつれ徐々に姿を消していった。
友達や家族と手をつないで公園から去っていく。
私は独り砂場に座り、砂の城を作っていた。
私は綺麗なお姫様。
バケツに入れた水を使って砂を固めながら、私だけの小さな小さな城を作り上げていく。
こっちには私の部屋。
天蓋付きの大きなベッド。
天井には黄金のシャンデリア。
白い大理石でできた鏡台には、赤青緑の宝石が収められている。
こっちは兄の部屋。
ここには、父と母の部屋。
姉の部屋も準備してあげる。
そして、リリーの部屋・・・・・・。
泣きたくなった。無性に泣きたくなってきた。
空が代わりに泣いてくれたらいいのに。でも空はこんなにも美しく紅い。
足音と影を感じたのは同時だった。
顔を挙げるとそこには私の王子様。
「帰ろう。」
しかし私は首を縦に振らない。
意固地になっている自分。今思うとなんて馬鹿なんだろう。
理性(こころ)と本能(こころ)がかみ合わない。
砂場に座り込んだまま、石像のように動かない。
兄は私の隣に座り込む。
何を作ってるの。お城。へえ、上手だね。
・・・・・・。
帰ろうか。・・・・・・うん。
兄と手をつないで立ち上がる。
家に向かって歩き始める。
しかし、途中で足が動かなくなる。
怖い。リリーと会うのが怖い。
リリーに嫌われていたらどうしよう。
リリーに罵られたらどうしよう。
私はもう私になれない気がする。
怖い。
兄に告げる。怖いと。
兄は私をベンチに連れていく。
二人で並んで座る。
兄が頭をなでてくれる。
私は心を落ち着ける。
自分で自分に言い聞かせる。
兄の手から勇気をもらう。
兄は私の頭をなでながら、少しずつ力を込めて自分の方へと引き寄せる。
私はそれに抵抗しない。
兄の体にもたれかかる。
体温を感じる。
兄は私の前髪をかき分け額に唇を寄せる。
いつもと違う兄の行動に少し戸惑いを感じるが、しかしそれも嬉しい。
兄のしてくれることはなんだってうれしい。
兄が私の頬に舌を這わせる。
少しくすぐったい。
私は笑う。
兄も笑う。
少しだけ心が軽くなる。
兄の手が私の肩に回される。
私を抱きしめる。
私は身を任す。
兄は私の体中をくすぐる。
ぞわぞわとするくすぐったさに、私は声をあげて笑う。
兄の手が私の体中いたるところを這いまわる。
私は声をあげて笑う。笑う。
やがて、兄は帰ろうかという。
私はもう怖くない。
兄の手をとって立ち上がった。

それは、その大げんかから一週間後の夜だった。
私と兄は、それまで以上に仲良くなった。
私は今まで以上に兄にくっつき、兄はそれを厭わなかった。
あの夜。
眠っていた私は、兄に揺り起こされた。
静かにと唇に人差し指を当てられる。
寝ぼけ眼のまま兄に連れられて部屋を出る。
そうして私たちは客間に来た。
私にはこれからのことが分からない。
ただ兄に付き従う。
兄は怖くないからといった。
私に不安は無い。
それどころかいつもとは少し様子の違う兄を見ながら、優越感を感じていた。
これは秘密だよ。
そんなことを言われて、嬉しくないはずがない。
秘密。
二人だけの秘密。
なんと、甘美な響きであろうか。
兄は私に服を脱ぐようにと言った。
言われるままに上着を脱ぎ、ズボンを足首から抜く。
兄はその間に、押し入れの中から布団を出していた。
その上にいつも使っているバスタオルを敷く。
兄に呼ばれ、私は布団の上へと移動する。
静かにねと言われる。目を輝かす兄。
それから起こっていくことも、私には理解ができなかった。
一つだけ本能的に理解できたのは、これは特別なことで、決して他の人には言ってはいけないということ。
父にも母にも内緒。
二人だけの秘密だ。
兄がどうして私を選んだのかを考えると、とても悲しい結論に辿り着く。
様々な面で、私は都合がよかったのだろう。
しかし、誤解をしないでほしい。
私は兄を嫌ってなどいないし、その時のことを恨んでもいない。
むしろ私はどこまでも兄のことが好きであり、あの夜は美しい記憶として永遠に誰にも穢されないところへと置いておくつもりだ。
兄よ。私の大好きな兄よ。
私はあの夜、兄によって女になったのだ。


目が覚めた。
そこは美しい雪化粧をした廃墟などではなく、埃の積もった路地裏の薄暗い部屋。
今日も仕事だ。
明日も仕事。
明後日からはまた学校が始まる。
生きるのは難しい。
だがそれでも、なんとなく生きていて良かったと思う。
私は真っ赤なハイヒールを履いて立ち上がった。
部屋を出る。
ガチャリと、その部屋の錠をおろした。