<登場人物>
撫子(なでしこ) さやか
蘭(あららぎ) 良太
石楠花(しゃくなげ) 寧々
柊(ひいらぎ) 聡美
石榴(ざくろ) 美雪
樫(かし) 耕太




撫子さやかは夏の太陽に吸い込まれそうになった。
いや、溶かし尽くされそうになったという方が正しいかもしれない。
道。
町を流れるこの大きな一流の川の横をまっすぐにのびる道。
砂利は焼け、水面は輝き、汗が背中を伝う。
暑い、夏だ。
左手の薬指にはプラチナのリング。
7月のこの日。
今日はその上にもう一つ指環をはめる。
セルリアンブルー。
指環は空の熱源から発射される光線を受け、キラキラと煌めく。
水面のように。きらきらと。

くらりと。

まるでその煌めきに翻弄されるかのように、世界が回った。
軽い貧血。
大きな帽子もかぶっているし、熱中症ではあるまい。
そう思いながらも、身体は涼を求めて、左手側に立つ大きな木の下へと歩み始めていた。
今の自分の年齢を思いかえす。
若い。
まだまだ若い。
幼稚園のお母さん達の中でも若い方だし、それなりに綺麗な自信もあった。
娘にはこの美しさというものが、理解はされないだろう。自分もそうだった。
だから、次は男の子が欲しい。
そう思い始めてからもう2年。
新たな生命の兆しはなかなか現れてこない。

恵まれていた。
夫にも、娘にも、家庭にも、収入にも、境遇にも、状態にも、家にも、近所にも、親戚にも、公園にも、幼稚園にも、この街にも。
何一つ、生きていくうえでの障害などなかった。
満ち足りている人生。
カップに注がれた水は、溢れることもなく、枯れることもなく、常に一定で、平穏で・・・。
カツンと。
小石につまずいた。
その勢いで木陰へと入り込む。
蒸散された水蒸気に癒される。
木々の優しさを感じる。
カバンの中から白地にハート柄のついたマイボトルを取り出す。
中には冷えた水。
喉を鳴らした。
ジジジジジ。
蝉の羽音が聞こえる。
蝉の声は鳴き声ではない。
蝉は身体を震わせて、その音があの声のように聞こえる。
蝉は声を出せない。蝉は震えている。
ふと辺りに目を走らせた。
長く延びる道には人影はひとつもない。
みんなこの暑い中を好き好んで外に出ようとは思わないのだろう。
川沿いを走ったり歩いたりする町民も多いが、この時期は早朝か夕方以降に限られる。
仕事に出る人たちはこちらとは反対方向にある駅に向かう。
それにしても妙な感じ。
こんなにも人がいないなんて。
家の中で一人になっていても感じないような、一人きりの開放感を感じた。
汗が。
額から流れ落ちた汗のしずくが、首筋を通り胸元を流れていく。
大きな木に背を預ける。
揺れる蜃気楼。
立ち上がる熱気。
静かに焼け焦げていく世界。
娘は幼稚園で元気にしているだろうか。
ふとそんな思いが頭をよぎり、そのまま意識の外へと流れていった。
横を流れる川のように。留まることなく。


当時の私は高校二年生。
セーラー服が可愛いからという理由で選んだ学校だった。
学業・・・並。
部活動・・・並。
教師・・・並。
その名を三波高等学校という。
運動は苦手だったが、中学の時は部活への所属が強要された。
私はバレー部に入部。身長が高かったせい。
3年間は非常につまらない、苦痛な時間を過ごした。
そして高校。
なにごとにも消極的だった私は、しかし世間から離れる勇気もなく、結果として三波高校男子バレー部のマネージャーという位置づけに落ち着いた。
それまでの身体的な苦痛から解放されて、比較的楽しかった。
友達もできた。
いじめもうけたし、いじめもした。
ささいで、かわいらしい、つまらない高校生活。
そんな生活を送っていた二年生の夏。
男子バレー部の合宿で、海辺の合宿所に行くことになった。
いつもは山の合宿所を使うのだが、今年は工事の関係で部屋数が制限され、しかも代わったばかりの顧問の手際の悪さもあり、予約がとれなかったのだ。
毎年使っているのだから、考慮してもらってもいいような気もするが仕方がない。
そして、私は、あの忘れられない夏を経験することになったのだ。

バレー部男子、総勢18名の大所帯。
インターハイも終わり、部内には情熱と悔恨が溢れている。
三年生は引退して受験勉強へと方向変換を強いられていた。
「さやか。」
渡り廊下を歩いているところを顧問の白井に呼びとめられた。
さやかが両手に抱えたかごには、汗に汚れたタオルがつまっている。
「なんですか、白井先生。」
「明日の集合時間は7時半でいいんだよな。」
「だから何度もそうだって言ってるじゃないですか。日程表を見てください。」
「うむ。その日程表がだな・・・。」
「また失くしたんですか・・・。」
「すまん。まだ予備あったよな。」
「部室に。」
そう言ってスタスタと歩き始めた。
またどうせバツが悪そうな顔をして頭をかいているんだろう。
今日も暑かった。
一雨降れば涼しくなるだろうに、空はそんな装いを全くみせない。
屋内とはいえ、これだけ暑ければ逆に蒸し風呂状態だ。
しかもあの狭い体育館でいくつもの部活が活動をしているのだ。温度も湿度も高くなる。人間の体は暑いのだ。

タオルを洗濯機に放り込んで体育館に戻った。
バレー部男子の面々はミーティングの最中だった。
中央にいるのは蘭良太。2年生の新キャプテン。
実力、人望、性格、全ての面で満場一致でのリーダー選出だった。こんな弱い部にはもったいないくらいの人材。
187センチの高い身長と引き締まった身体、その爽やかな顔立ちから女子たちからの人気も抜群だった。
彼を目当てではいってきた1年生マネージャーも多い。
今年は特に多かった。
なぜこんな弱小部にと言いたくなる。5名もの女子生徒が入部を希望してきた。
すでに3名やめていることを考えると、目的が何であったから予想がつきそうなものだ。
壁際の給水ボックスでカップにポカリを注いでいるのが石楠花寧々。
生き残った1年生の内の一人。
長い髪を左右の高い位置で結び、ふんわりと垂らしている。
ふんわりとした柔らかで紅色をした頬や、丸みを帯びた体つきがなんとも可愛らしく男子の間でも人気みたい。
もう一人綺麗なタオルを手渡しているのが柊聡美。
中学時代バレー部で、チームは弱かったが個人の能力は高く、女子バレーの中では有名な存在だった。
しかし彼女は高校で自らが戦場に立つことを拒んだ。
その理由は誰も知らず、いくつもの憶測が飛び交っていた。
聡明で、学内の成績もトップクラス。
切れ長でつり上がったそのまなざしは話しかけられることを拒むようなオーラがあるが、実際は話しやすい子だ。
どんな話題にも適度な知識があり、会話が途切れることがない。
長いストレートの髪は、どんなに暑いときもくくりあげられることはなかった。
「さやか。どいて。」
入り口で立ち止まる私の後ろから、声が飛んできた。
クラスメートの石榴美雪。女子バスケ部。
一応、友達だったりする。
「あ、ごめん。」
「うわ、やっぱ中、あっつー。くっさー。」
タオルを肩にかけ、手にはマイボトル。
さっぱりした顔を見ると、どうやら顔を洗ってきたようだ。
「あっついよね。」
「ほんとマジあっつー。死ぬよね、わたしら。」
「休憩中?」
「いや、試合形式。私はさっき終わったからちょっと逃げてきたの。」
「ふーん。」
チラっと。
本当にチラリとこちらのコートを流し見て、
「じゃね〜。」
美雪はコートへと戻っていった。
「なでしー!」
声に振り向くと、今度は同級生の樫耕太がこちらに向かって何かを投げつけてきた。
受け損ねて肩にぶつかって落ちる。
封筒。
中には小銭?ジャラジャラと音を立てている。
「お、わりー、わりー。それ、明日の金な。」
「うん、わかった。」
「よろしゅー。」
耕太はそのまま寧々の元へ。
カップを受けとり喉を鳴らしていた。
床に落ちた封筒を拾い上げ、中身を確認する。
これで全員分のお金がようやく揃った。
会計管理もさやかの仕事だった。
良太の号令がかかる。
練習は再開された。

合宿当日。
移動用の専用マイクロバスが到着・・・なんて大それた演出などない。
朝6時半。
三波高等学校のロータリーには、男子バレー部の面々が集まってきた。
移動は電車。
三波高校の数少ない優秀な点の一つ、駅から徒歩3分という立地がここで活きてくる。
ドリンクボトルや試合用ユニフォームなどのアイテムは全て自分たちで持たなくてはならない。
今回は顧問が車を出すため、それらの物を積み込むために全員で待機している状態だった。
「まだかよ。」
良太がスマホの時計を見ながらこちらへやってきた。
他の部員達も時間をもてあまし、雑談したり、ゲームをしたりして時間を潰している。
「あいつ寝坊したんじゃね。」
「うんー、一応電話はつながったんだけどね。なんか渋滞に巻き込まれたとか。」
「こんな時間に?ぜってー寝坊だろ。使えないな。」
「ほんとだねー。」
「どうする。もうそろそろ時間だろ。」
「うん・・・うん、いいや、もう皆先に行っちゃってて。」
「積み込みどうすんだよ。」
「いいよ。私と白井でやっとく。」
「人手足りるか?」
「うん。まあ大丈夫。」
「私も残りますよ。」
声をかけてきたのは聡美。ちらちらとこちらを伺っていたようだ。
「いいよいいよ、聡美ちゃんも行っちゃって。」
「1人残るのも、2人残るのも一緒ですよ。」
「うーん・・・。」
「いいんじゃない?二人であとから来いよ。どの道、白井のアホが来ないと着いても入れないんだろ。」
「まあそうだけど。」
大所帯での移動になるため、次の便で行かないと車内が3000%の超満員になるとは寧々の談。
普段から電車通学のため、電車の混み具合には詳しいらしい。
「どーしたんですか?先生まだなんですかー。」
そんなところに丁度寧々も声をかけてきた。
「おう、石楠花。うちらこの便乗らないとやばいんだよな。」
「はい、まじもうちょーやばいです。」
「それでね、私と聡美ちゃんが残るから皆には先に行ってもらおうかって話してて。」
「あ、それいいかも。次になるとこみこみで死んじゃいますよー。」
左右から垂らした長い耳のような髪をぴょんぴょん跳ねさせながら言われてもどうにも説得感がない。
「よし、じゃあそうしよう。おいコータ。」
良太はさくさくと部員達に出発の旨を伝えに行った。
「ごめんね、聡美ちゃん。」
「別に先輩が謝ることじゃないです。」
「サトチン私も残った方がいい?」
「いいよ。あんたは先行きな。」
「あいあい。しっかり皆を援護いたしまーす。あっららぎせんぱーい。」
ウサギのように寧々は駆け出していった。
「テンション高いね。」
「そうですね。」
思えば聡美と二人きりになるのって初めてかもしれない。
何をしゃべればいいのか、先輩としてちょっと悩む。

部員全員が出発した後。
体育館の淵の木陰に並んで座った。
蝉の鳴き声がうるさい。
でも、蝉の鳴き声のないこの空気に耐えられる自信はない。
再度鳴らした顧問の携帯は、通話ボタンを押されることはなかった。
普段はどうでもいい顧問がこれほど待ち遠しく感じたことはないし、この先も一生ないだろう。
いろいろな話題が浮かんでは消えていく。
一言で終わってしまいそうで、なんとなく口に出しにくい。
アスファルトに反射した日光が暑い。
「来ないですね。」
一瞬、自分が話しかけられたと分からなかった。
ワンテンポ遅れて聡美見ると、あちらも地面を眺めている。
「うん。ホント使えないよね。」
「ええ、まったく。」
なんか、言葉の重みが違う気がしてちょっと悔しい。
私の「使えない」はただの愚痴で、彼女の「使えない」は根本的に存在そのものを否定しているかのよう。
そんな気持ちになったからか、ちょっと意地悪な質問を思いついた。
「聡美ちゃん、部活楽しい?」
抽象的で、それでいて彼女にとっては多すぎる意味を含んだ言葉。
聡い彼女。
もちろんその全ての意味を瞬時に悟ったことだろう。
私の頭の中ではすでにいくつかの回答が脳内に浮かんでいる。
でもやっぱり彼女は
「中学の時より、自由な時間が増えましたね。」
と、私の中では一生思い浮かばないだろう言葉を返してきた。
私なんかじゃとても追いつけないところで生きているんだと思った。
タイミングよく鳴る電話。
もう着くという顧問の声。
夏の日差し。
木陰の涼感。
蝉の鳴き声。

私達三人が合宿所に到着した時には、すでに皆入口で待機、たむろしていた。
ガヤガヤという声が、誰かの気付きによって、ガタガタと走る車へと向けられる。
オンボロ車は体格だけは立派だが、エアコンという文明の利器を操る力はほとんどないようだった。
「いやーすまんな。どうも道が混んでて。」
誰一人として聞いていない台詞を吐きながら白井は車を降りた。
汗をぬぐう私と、汗を拭きとる聡美も降りる。
「せんせー早く受付してくれよ。ここ暑いって。」
良太が真っ先に走ってくる。
「わかってるわかってる。ちょっと待ってろ。車ここでいいのかな。」
「受付で聞いてみれば。」
「そうだな。もうちょい待ってろよ、お前ら。暑い暑い。」
慌てて私も受付へと向かう白井の後を追う。
費用は前払いだったはずだ。たぶん白井はそんなこともわかってないだろう。
建物の扉が開くと、心地よい冷気がさやかを包んだ。
汗ばんだ肌が心地よく冷やされる。
「さやか、全員で何人だっけか。」
「いいですよ、私が話しますから。」
「いやいや、すまんな。しかし暑いな。」
白井を無視して受付へと向かう。
初めての合宿所。
見るものすべてが新鮮だ。
なのに、なぜか、その視界に見覚えのある人物が飛び込んできた。
「あれ?」
視線の先には4,5人のグループ。
じっと見つめているとその人物がこちらを振り返った。
「あれ?」
あっちも同じ反応。
そりゃそうだ。こっちが知らなくて、あっちは知ってるなんて不公平だもの。
「なにしてんの。」
「そっちこそ。」
Tシャツに短パンというラフな格好で、美雪は肩からかけたタオルで汗をぬぐっていた。
他の人間もこちらを見ている。
「え?ここで?合宿?」
「うん。あたしら毎年ここだもん。昨日からいるよ。」
「へー。私達今日からなんだ。」
「合宿?あれ?男バレっていつも霧ヶ峰じゃないっけ。」
「うん。今年はとれなくてさ。こっちにしたんだ。」
「へー。」
美雪は横でにこにこして立っている白井にも気付き、軽く会釈をした。
「いつまで?」
「今日も入れて、あと四日。」
「あ、じゃあ私たちより長いんだ。」
「ん?いつまでいるの?明後日?」
「いやいや。今日から明々後日までの四日間。」
「なるほ。」
居場所がなかったのか白井は一人で受付へと向かい、なにやら書類にサインなどをしている。
「んじゃ、またね。」
「うん。夜とか遊ぼ。」
美雪達のグループは階段を上がっていった。
振り返る直前、美雪の視線が外へと向いた。
ガラス越しに見える男バレの面子。
そのうちのだれか一人を意識し、そして階段を上がっていったような気がした。

各々割り振られた部屋へと別れ、荷物を置き、着替えて第二体育館に集合。
ホワイトボードで確認すると、美雪達は第一体育館をあてがわれているみたい。
破るためにある合宿所内でのルールを確認し合い、練習開始となる。
ごはんはすべて合宿所で準備してくれる。
バイキング形式だと聞いて、男たちは雄たけびを上げた。(誇張だ。実際に叫んだのは耕太くらいだ。)
練習メニューは事前に決めてある。
せっかく海にいるということで、海でのトレーニングも予定されていた。
マネージャーたちは汗だくになる男達のために、フォロー体制を万全に整える。
水分を準備し、タオルを準備し、テーピングの準備をし、エトセトラ。
例えば寧々ちゃんと二人で炊事場にポカリを作りに行った時。
「こーいう合宿ってすごくワクワクしますよね、さやか先輩っ!」
「うん、そうだね。」
「私、水着新しいの買ってきたんですよー。」
「うん、聡美ちゃんと買いにいったんだってね。」
朝、その情報は聡美から仕入れていた。
まさかこの二人が・・・?という疑問は浮かんだものの、どうやら辞めた連中も含めてのグループらしい。
たしかに数少ない同級生だ、一緒に買い物くらい行くだろう。
どのくらい仲が良いのかは・・・謎。
寧々は聡美をサトチンと呼び、聡美は寧々をネネと呼んでいた。
「先輩はどんなの持ってきたんですかー?」
「なに、水着?」
「はい。私ピンクにしたから被らないかなーって。」
「うん、大丈夫、ピンクじゃないよ。ふつーふつー。」
なんかこの子と話していると、こちらまでラフになってしまう。
「白井の親父は部屋に閉じ込めときましょー。あいつ絶対変態だし。」
「男子の水着見て興奮してるかもよ。」
「あっははー!それまじ変態。さやか先輩ウケル。」
「ねえ知ってる。白井の噂。」
「あれでしょ。お嫁さんと子供に逃げられたのは実はホモなのがばれたからだってやつ。」
「そうそう。そうでもなきゃ、こんな興味もない部活の顧問しないよねー。」
「じゃあ私たちは安心ですねー。」
さすがに先生を前にしては憚られるような会話で盛り上がりながら冷房の利いた廊下を歩いた。
すれ違うのは同じような背格好の人間や、館内の掃除をしているおばちゃん達。
やはりこの時期、どこの学校のどこの部活も合宿をしているのだろう。
日々のためなのか優勝のためなのか分からないが、私達には誰にも負けないエネルギーがある。
世界の全てを掌握しているかのように私たちは生きている。
飲料用の水をペットボトルにそそぎいれる。
ペットボトルにはすでにポカリの粉がはいっている。
5袋で298円。1リットル用だが、少し薄めに、1,5リットルで作る。
お安い。学生の味方。ありがとう大塚製薬。
さっき、少しだけ寧々ちゃんに嘘をついた。
選んだ水着は、本当にこんなの着て大丈夫なのか自分でも不安になるようなものだった。
2週間前、葵と一緒に買いに行った水着。
高校生でこんなの着る人間なんているんだろうか。しかも着る人間はこの私だ。
「着るよ。」
葵のその一言で買わされてしまった。正直恥ずかしい。
ていうか無理。
そう思って、去年までと同じ、水色と白の水着を持ってきた。
でも一応買ったので、その水着も持ってきた。
黒。
息をのむような黒。
深淵の黒には、真紅の赤と深紫の模様が入っている。。
黒くて、上と下が繋がっていなくて、胸元が大きく空いていて、というかビキニの水着というやつで。
こういうのはもっとおっきな子が着けるものだと思うのだが・・・。はぁ。心のため息が重たい。
「どうかしました?」
「え?いや、カートとかあればいいのになって。」
「あーほんとそうですね。重たいですもんねー。私マネージャーでこんなに筋肉つくって思わなかったです。」
「だよねー。意外と重労働だよね。もともと寧々ちゃん何部だっけ。中学の時。」
「美術部ですねー。ぜんっぜん面白くなかったけど。」
「絵とか描くの?」
「絵も描きますし、デッサンが多かったですけど。でもだめ。私才能なかったし、周りも下手くそばっかり。」
「じゃあなんで入ったのよ。」
「カッコいい先輩がいたから。」
「へぇ。」
いけない、悪い癖。へぇ。興味がないですって言ってるようなもの。
でも寧々ちゃんは続く。
「でもでも3年だったからすぐに部活来なくなっちゃって。それからは退屈ですよねー。
 よっぽどの理由がないと、1年ごとにしか部活やめられなかったし。まあ友達いたからまだましなんですけど。
 んで、2年になってさあやめようって時に、それまでの先生が定年で辞めちゃって、あ、おじいちゃん先生でわたしら友蔵って呼んでたんですけど。そんで、代わりに来たのがイケてる先生で。結局最後までいましたねー。あ、だから2年からの方が真面目だったかも私。」
うんうんと遠くを見ながら頷いている。
「そうだったんだね。」
じゃあいったいなんでこうこうせいになってだんしばれーぶのまねーじゃーになろうとおもったの。
頭の中に浮かんだ言葉を、全力で押さえこんだ。
聞けないんじゃない。答えを聞きたくないから。
ニコニコとしながら、両手に重たいポカリをとった。

「っ!」
耕太の放ったアタックは、磁石に引き寄せられるかのように、コートの隅へと吸い込まれた。
ライン上のギリギリに猛烈な勢いでボールが叩きつけられる。
次いで、次の人物がアタック。
ボールはコートを外れた体育館の床へと突き刺さった。
アタックの練習を三人の女マネージャー達+アルファが眺めていた。
「おしいっ、ドンマイッ!!」
大きな声で声援を送るのは、バレー部ではない彼女達。
はずした子はちょっと口をへの字に曲げて恥ずかしそうな表情を浮かべ、こちらに向けて左手を軽くあげた。
その間も、テンポよくアタックの練習が続いて行く。
ドカッ!
「ナーイショー!」
良太のアタックが耕太にも劣らない美しいラインを描いて、地面をたたいた。
きゃあきゃあと黄色い声援を上げる集団は、三波高校女子バスケ部のみなさまだった。
はっきり言って、うるさい。うざい。
あ、あの寧々ちゃんまでもがめんどくさそうな目を向けてる。
聡美ちゃんはまるでそこには何もいないかのように、練習の様子を見つめていた。
本当は、その都度声を出すのも私たちの仕事なのだが、いまはそんな気になれないのだろう。
白井はバスケ部の顧問と向こうの方で話している。
女子バスケ部顧問、密田瞳。30いくつかの、綺麗な人だ。昔は自分も選手だったようで、半袖短パンから伸びる手足は女でも憧れる。
白井め。
ニヤケてるんじゃないぞ。
何がどうなったのか、練習しているはずの女バスの面子がうちの練習を見学にやってきた。
見学というか、見学というか。
正直迷惑なのだが、そんなことも言えるわけもなく。
誰が言い出したのだろう。
美雪かな。
無意識にそんなことを考えて、頭の中で頭をふる。
クラス中の噂だった。
石榴美雪は蘭良太に好意があると。
つつけば割れそうな噂が膨らんでは消えていった。
これも小さな噂だが、男バレのツートップは蘭良太と樫耕太。
実力も、魅力も。
魅力なんていうと固い。要するにカッコイイ。
カッコイイんだ。
彼女たちも何かを目的にしてここに来ているんだ。
なんか気持ち悪い。
血液が淀んだ濁流みたい。
ぐらぐらと暑い。
「さやか先輩。」
寧々ちゃんの声でふっと我にかえった。
「汗すごいですよ。大丈夫ですか。」
大丈夫と応えようとして、あれ意外と大丈夫じゃないんじゃないかと思ってしまった。
軽く手をあげて、そして、そのままうずくまって地面に倒れた。

ふわふわとしていた。
私は船に乗っていて、船の先端で両手を広げて立っていた。
後ろには、誰か良くわからないが、外国の男の人が私の腰を持って支えている。
顔はよくわからないが、知っている人のような気がした。なぜなら、そうされることが全く不快じゃなかったから。
〜〜〜♪
なにか良く知っているメロディーが流れていている。
爽快。気持ちいい。世界はなんて美しいんだろうと思った。
思っていたら、なぜかその男に頬を平手打ちされた。
えっ、と思って振り向くとなぜかすごい怒っている。
ごめんなさい。私が悪かった。
ちょっとでも乗り気になったのがいけなかった。ここはもっと悲しみと憂いを大切にするシーンだった。
撮影のスタッフが出てきた。そうだ、これは映画の撮影。
ごめんなさい、と謝っている私に彼は何度も平手打ち。
8回目のそれで、私はついに足をもつれさせた。
そのまま海へ転落。
海へ沈んでいく。
気持ちいい。
揺れる。
ふわふわしている。
―――か。
男が海に飛び込んで助けに来てくれているのが見える。
そりゃそうだ。あんたが落としたんだから当たり前だ。
―――か。
―――か。
なんだ、煩い。そんなに呼ばなくても聞こえている。
はやく沈んでいく私を助けたらどうなんだ。
うるさい。そんなに呼ぶな。
私をそんなに呼ぶな。

ぱっと眼を開いた。世界は白くて黒い影がいくつも私を照らしていた。
「お、気付いたぞ。」
目の前には良太の顔があった。
思ったけど、思ったと思うのには時間がかかった。
頭がぼーっとしている。
「大丈夫か?」
「―――。」
首を動かす元気もないので、瞼を一度閉じて開く。
「意識はあるみたいだな。ちょっと涼しい場所に寝かそう。外の日陰でいいか。」
「私も手伝います!」
「寧々は大きいタオル持ってきて。2枚。」
「分かった!」
「おい、耕太、お前足の方な。」
「あいよ。せーのっ。」
よくわからないが、私は今倒れていて、どこか涼しい場所につれていかれるらしい。
ぐっと身体を持ち上げられた。
節々が痛い。
気持ち悪いのだから揺らさないでほしいが、そんなことを言う元気もない。
10秒ほどで、再び寝かされた。
風が気持ちいい。
「ここでいいかな。」
「先輩、ポカリとか飲みます?」
「飲ませた方がいいと思うよ。先輩ちょっと身体起こして。」
聡美ちゃんに支えられて、無理矢理口になにかを押しつけられた。
気持ち悪いけど飲む。
冷たさが心地よかった。
「ほらよ。」
「あ、樫先輩ありがとうございます。」
額にぬれたタオルをあてがわれる。
それも気持ちいい。
「―――。」
ありがとうと言ったのだが、声になっていなかった。
でもそれは相手にも伝わったみたい。そんな気配がする。
「よしじゃあ戻るぞ。」
「寧々ちゃん任せたよ。」
「はいはい、いってらっしゃいー。」
「あたしたちもあっちに戻るわ。また様子聞かせて。」
「はい、分かりました。」
「さやか、お大事に。」
周りの空気が離散する。
横には一人。たぶん寧々ちゃんが残ってくれているんだと思う。
「ありがとうね。ごめんね。」
声にならない声でささやく。
「はいはい、いいですから。そのまま寝ててください。」
暑いけど、今までの息苦しさからは解放されていて、それだけでずいぶん気持ちが楽になった。
ダンダンと。
体育館の床を叩く足音が聞こえる。
タオル一枚を挟んで床に寝ているから、その音波は全身に揺れとなって伝わってくる。
ダンダンダン。
煩わしいけど、少しだけ心地よさもある。
変なの。矛盾している。
「もう戻っていいよ。」
なんとか絞り出した声で、寧々ちゃんに伝える。
「ん?何か言いました?先輩。」
しかし届かない。
「私大丈夫だから。」
「いいから、そのまま寝ててください。」
ぴしゃりと言いきられる。
おとなしく口をつぐんだ。
「先輩は。」
寧々ちゃんはちょっと言い淀んで。
「あの人たちが嫌だったんですよね。」
そう、つないだ。
「あの人たち?」
「女バスの人たち。」
「そんなことないよ。友達だし。」
「私はちょっと嫌でした。練習の邪魔しないでほしいし。ていうか、邪魔だし。そもそも動機が不純だし。」
「動機?」
「来た理由ですよ。別に同じ学校だからとかそんなんじゃないでしょう。」
コツンと。本の角で頭を叩かれたような気分。
「そんな理由でしょ。」
「違いますよ。あの人たち、うちの皆を見に来てたんですよ。そうでしょ。」
断定。
次いで耳から飛び込んでくる暴力。
「ううん。皆っていうか、蘭先輩と樫先輩かな。」
ゴツンと。コンクリートの塊を投げつけられたような衝撃。
分かっていながら、誰とも話したことがなかった。聡美とも寧々とも、そして美雪とも。
言葉が紡げない。盲惑とした頭が働かないせい。そうきっと熱中症のせい。
「あーゆーの、腹立ちますよね。中途半端っていうか。こっちの迷惑考えてないっていうか、って、先輩!?」
ん?という一言が出なかった。
なんでだろう。声が出ない。
「ちょちょちょ、ちょっと、マジやばくないですか。ちょっと館の人呼んでくるんで、そのまま寝ててください!
 サトチンー!」
寧々ちゃんは慌ただしく立ち上がると、そのままどこかへ駆けていった。
取り残される私。
なんかちょっとみじめで、でもなんかちょっと嬉しかった。
「・・・顔・・・真っ白で・・・。」
遠くから何かが聞こえてくる。
でも、言葉の意味は理解できない。
ザブーン。
沈んでいく。
心地よい水の中をたゆたう。
私はイルカ。くるくる回る。
世界が回る。
私も回る。
白く明るい世界へと沈んでいく。
不思議。
白い世界なのに、吸い込まれるような一点が見える。
そこは白い。純白という言葉でさえ足りない気がする。
そりゃそうだ。今の私には言葉の意味は理解できないのだから。
落ちている感覚が、だんだんと吸い込まれていくような感覚に変わる。
意識的な、意図的な何か。外の力によってベクトルを定められているような気がする。
後一歩。
もう到達できるというその時。
急に頭の後ろに鈍い痛み、重さ、塊を感じた。
推進力が一瞬にして失われ、ぐっと急制動がかけられる。
いたい。
慣性に沿って流れる身体だけが引き寄せられ、頭と体が分離しそう。
いたいいたいいたい。
刹那、世界は暗闇に代わった。
赤と黒。
真紅と漆黒のなかで、深紫の糸が舞っている。
前も後ろも見えない。
あまりの頭痛に目を開けていることもできない。
瞼の裏が痛い。チラチラとなにかが蠢く。
手を挙げて頭を抱えたつもりが、私には手もなかった。
抑えつけたい。
いたい。
苦しみの中で、意識は先ほどとは違う終点を目指して収束していった。


合宿二日目。
体育館の隅で椅子に腰かけ、皆の練習を見ている。
頼もしい後輩たちは、汗を流しながらかつての私のポジションで彼らをフォローしていた。
タオルを受け取り、ドリンクを渡し、コート外の選手と冗談を交わす。
楽しそう。
腰を上げてその中に加わりたいが、私にはここしか許されていない。
本当は部屋で寝ていろという指示だったが、それだけは拒みたかった。
聡美や寧々、良太や耕太までもが、時折こちらに視線を向けて来てくれる。
視線が交わされるたび、口角を持ち上げる余裕くらいはあった。
目を細めると、ちょっと安心したような顔で、また自分の仕事へ戻っていく。
寧々ちゃんがふざけて良太の肩をたたく。
耕太が聡美ちゃんを呼びとめて、なにか話をしている。
気が付けば、時計の針が二人とも仲良く並んで上を向いていた。


昨夜はなかなか寝付けなかった。
結局午後からずっと寝ていたからというのもあるのだが、頭がクリアになってからはずっと彼らのことを考えていた。
忘れようとしていた。
ずっと覚えていたけれども、そんなことは嘘なんだって自分に言い聞かせて、周りにもそういう風にふるまって。
でも、ずっとずっと心の片隅にひっかかっていたこと。
良太のこと。耕太のこと。そして、葵のこと。
葵と知り合ったのは中学2年生のとき。
クラス替えで一緒になった。
それまでも名前くらいは知っていたけれども、接点はなかった。
同じクラスで意気投合。
グループの中でも、私たちは一番の親友となっていた。
高校も同じ場所を受け、同じように合格。
1年も2年も同じクラス。
ずっとずっと親友。本当の親友。大好きな親友。
でも。
でもでもでも。
一個だけ。
私は彼女を裏切り続けている。嘘を吐き続けている。
嘘の根源は今もまだ、この円柱型のカバンの奥底にしまわれている。
1年前のことだった。
それは合宿に出発する一日前。
その日の練習は準備のために早めに解散になった。
準備を終えて、私は部活終わりの葵と一緒に駅前のマックに行った。
いつものように、シェイクとポテトを頼んで席に座る。
あのね、さやか。ちょっとお願いがあるんだ。
なに。どうしたの珍しい。
うん、実はね。明日から合宿でしょ。
そうそう。さっきまで準備で大変だったんだよ。
うん。あのね。その時でいいからさ。これをね。渡してほしいんだ。
なにこれ?手紙?だれに?あ、もしかして、誰か目当ての人とかいるの!?
いや、べつに、いや、そうんだんだけど。
うっそほんとに。へー。意外。だれだれ。葵って渋い人が好きだよね。2年の桑先輩とか?さすがに言いすぎか、あはは。
ううん。違うよー。渡してほしいのはね、蘭君。
良太?え、良太なの?あ、でも確かになんか人気あるらしいよね、あいつ。
うん、そうらしいね。でも一緒にはしないでほしいなぁ。
わかってるよ。へーそうなんだ。うん、いいよわかった。合宿の間に渡しておくね。最終日でもいい?
うん、いいよ。なんかどうしてもこれだけはだめだわ。自分じゃ渡せない。
葵らしくないね。まあ、いいよ。協力する。応援するよ。
うん、ありがとう。
「うん、ありがとう。」
胸が、いたい。
嘘じゃなかったんだ。その時は本当に良太なんてどうでもよくて。まあかっこいいよね、くらいで。
でも合宿で4日間ずっと一緒に生活してて。
葵のことがあるから、余計意識して見ていたせいで。
なんか、私まで、好きになっちゃんだんだ・・・。
でももちろんそんなことは言えない。葵には言えない。親友だから。壊れちゃいそうだから。そんなの絶対嫌だから。
・・・ごめんね。
・・・そっか。まあ仕方ないさ。ありがとう、ごめんねさやか、嫌な役回りさせちゃって。
そんなことないよ。もっとうまく葵のいいところ説明できれば。
いいっていいって。自分で言わないのがそもそも卑怯だし。他に好きな人がいるなら仕方ないよ。
・・・。
こらこら。私が落ち込むところだろ。さやかが落ち込んでどうすんの。
ほんとだ、あはは。
はー、夏休み終わったらどうやって顔合わせよ。まあ、まだ長いし、気を入れ替えようかー!
元気だね。
元気にするしかないってこと。さ、遊びにいこう!
「あの時。」
あの時、本当は私は良太になにも言ってないんだ。
手紙も渡してないんだ。
そして私が良太のことを好きになっちゃったんだ。
夜は静かだった。
空調の低い音が館全体に響いている。
疲れているのもあるのだろう、同じ部屋の寧々ちゃんと聡美ちゃんはもう眠っているみたい。
布団を抜けだす。
部屋を抜け出し、共同トイレへ向かう。
トイレに入ると自動的に電気がついた。
鏡の前に立つ。
酷い顔。
夕食を食べていないこともあってか、げっそりとやつれた私がそこにいた。
自慢の長い黒髪も、汗と汚れでべとついている。
ぶさいく。
じわっと目に涙が浮かんできた。
なんで。なんで。なんで。
なんだか無性に悲しい。
涙がこぼれる。針で突いた指先にぷっくりと現れる血液のように。
大きなしずくとなり、頬を流れる。
人間も動物も植物も一緒だ。
傷ついた時、身体から液体が流れる。
血が流れる。樹液が流れる。
そして人間だけ、涙が流れる。
どこも傷ついてなんていないのに。
見えない部分。
こころ。
ハート形で胸にありそうなのにどうやら正体は脳みそっていう不思議なもの。
見えないのに傷ついている。そして、液体が流れる。
自分が嫌になる。
悪いのは私だってどこかで理解してるのに、悪いのは全部周りだって思ってる。
夜に、合宿中に、部屋を抜け出して、暗い廊下を抜けて、トイレの鏡の前で泣いている自分が嫌になる。
こんなに好きだから、嫌になる。
涙の効力か、少しだけ落ち着いてきた。
深くため息をつく。
明日、謝ろう。
迷惑かけてゴメンって。
そして帰ったら葵にも謝ろう。
手紙を渡してなくてごめんって。嘘吐いてごめんって。
手紙も返して、また新しい手紙を渡すって言おう。
こんな卑怯な私はもう良太に告白することなんてできない。
そこはそっと秘密にして。
こころの奥に鍵をかけて。私だけの秘密にするんだ。
顔を洗った。
タオルなんてないから、その場で顔を振る。
なんか犬みたい。
ブルブルブル。
冷たくて気持ちいい。
トイレを出た。
部屋へと戻る。
途中で談話室の前を通る。
ガラス張りのその部屋。
来る途中は気付かなかった。
電気もついていない。
夜になって、気持ちも切り替わって、感覚が鋭敏になっていたのかもしれない。
気付かなくていいものに気付いてしまった。
良太と美雪が抱き合っているのに気付いてしまった。


最悪なことに食堂前で女バスと鉢合わせした。
もちろん美雪だっている。
今だけは会いたくなかった。
「お、さやか、元気になったか。」
「うん、まあね。」
案の定美雪が近づいてくる。
「熱中症?」
「うん。暑さには慣れてたつもりだったのにね。やっちゃった。」
「水分取らないと。まずは自分の体調管理からだよ。」
「そうだね。」
美雪はなぜかそのまま動かない。
先に行った皆を追いたいのだが、私もなぜかその場所から動けない。
皆が先の角を曲がって見えなくなった時、美雪は私の手をひいた。
「ちょっとこっち来て。」
「なに。私行かないと。」
「ちょっとだけだよ。いいからこっち。」
食堂とは反対の方向に連れていかれた。
自分は女バスに「先行っててー!」とか言ってるんだから。勝手な子だ。
角を曲がった先には昨夜の部屋。
ドキリとして足がもつれたが、そのまま歩かされた。
背の高い観葉植物(模造品だ)の影で美雪はようやく足をとめた。
なんとなく空気が怖い。
昨夜は気付いた瞬間に音もたてずに小走りでその場を逃げ出したからばれてないと思っていたが、
もしかしたら見られていたのかも。
でも、それでもこちらが睨まれる理由なんてない。
蛇に睨まれた蛙はきっとこんな気持ちなんじゃないだろうか。
「さやかさ。」
「はい。」
思わず敬語で返してしまう。
「あいつになんとか言ってくんない。石楠花。」
「しゃくなげ?寧々ちゃん?」
予想していたのとは全く違うところから攻められた。
「なんとかって?なんかあったの?」
「あいつ、うざいんだよ。」
「はぁ。」
へぇと同じく、言っちゃいけない言葉なのに、思わずそんな言葉を口にしてしまった。
しかし、彼女も熱くなるとブレーキのきかない性格だ。
「大体目つきが気にいらない。さやかは知らないかもだけど、こっち睨んでくるんだぜ。
 練習中とかは無視してたけどもう無理。
 そっち行くたびにいちいち嫌そうな顔するし、でも私は楽しく部活してますみたいな顔してさ。
 まじうざいっつーの。
 こっちあ何しようと勝手でしょ。邪魔してるんじゃないんだしさ。でしょ。」
うん、とか、そうだね、とか、気のきいた言葉の一つも出てこない。
美雪のマシンガンは辺り構わず乱射してきて、私の後ろ側まで問答無用で打ち抜いていく。
「で、今朝だよ。こっちが朝練終わって歩いてたらさ、いきなり話しかけてきたんだけどさ。
 なんだと思う。もうこっちの練習に来るなってさ。
 馬鹿じゃない?お前になんの権利があるんだっての。
 そしたらさやかが倒れたのも私のせいとか言ってくるんだよ。」
そこで美雪はいったん言葉を切った。こちらの反応をうかがうような間が空く。
私は事態を把握するのに必死だったし、そんな話も聞いていなかったし、美雪が期待していた反応はできなかったようだ。
「さやかが倒れたのって、私らのせいなわけ?」
「いや、それは関係ないと思うけど。」
「でしょ。勝手に暴走して馬鹿だよな。
 ああ、またいらいらしてきた。
 まあ、そういうわけなんで。よろしく。」
「え?」
「うざいからこっち関わるなって言っといて。
 あ、これ私の意見じゃなくて皆の意見なんで。よろしく。」
言いたいことだけ一方的に告げると、少しすっきりした顔をして美雪は道を戻っていった。
はっきり言って困る。
どっちかというと、私はバレー部で寧々ちゃんの意見がもっともだと思うわけなので。
昨日の寧々ちゃんの言葉が浮かんでくる。
昨夜の談話室の二人がよみがえる。
ダメだ。
反射的に目を閉じて思考を隅に追いやる。
今私が考えないといけない問題は、二人の状態をいかに良好に保つかということ。
どちらもはっきりと物を言うタイプなので、融通をつけてもらうのも難しい。
聡美ちゃんだったら、冷静な対応をしてくれるんだけど。
はぁとため息をつく。
そもそもが体調不良なのだ。心も身体も。
食堂に向かう気持ちが失せてきた。
談話室のソファに座る。
しっかりとした弾力がお尻を押し返してきた。
ソファの横の水槽を見る。
赤や銀の小さな魚が小さな水槽の中を泳いでいた。
この子たちみたいなら悩みもないだろうに。
人間と言うのはとても難しい。
寧々ちゃんになんて切りだそう。
「美雪に言われたんだけど、寧々ちゃんうざいからもう関わるなって。」
無理だ。
火に油を注ぐどころの話ではない。
キャンプファイヤーの炎にタンクローリーを突っ込ませるようなものだ。
「美雪とかうざいから、もう関わらない方が良いよ。ほっとこう。」
無理だ。
なんでそんなことを言いだしたのかを問い詰められる。そして私は根掘り葉掘り答える。
そしてその後の展開は前述の通り。
「何も言わない。」
そうだ。これが良いかもしれない。
何も言わない。何も知らない。何も聞いていない。
私は今、調子が悪いから、よく覚えていないのだ。
寧々ちゃんが何か言ったら美雪にはまだ寧々ちゃんと話ができていなかったと言おう。
そうするつもりだったけど、デリケートな話だからなかなか口に出来なかったと。
そうしよう。
立ち上がった。自分でもなにか釈然としないものを肩に載せたまま。
だからだろうか。身体が重い。
やっぱりこのまま食堂に行く気にはなれなかった。
再度ソファへと座りこむ。
このまま沈んでしまいたい気分だ。
そうだ、このまま部屋に行って寝よう。
調子が悪くなったと言えば許してもらえるはず。
やっぱり無理して練習を見に行ったのがいけなかったんだ。
再び立ち上がった。やはり見えない何かを肩に抱えている。
逃げたい。
こんな逃避、何の役にも立たないけど、このまま食堂へ向かう勇気は私にはなかった。
しかしそんな私を逃がしてはくれない影が二つ。
「あ、いた!せんぱーい。」
揺れるツインテール。
並んで歩く凛とした黒髪。
頼れる後輩たちだった。
「大丈夫ですか?たぶん私のせいだ、ごめんなさい!」
こっちが何も言わないのに、寧々ちゃんは分かっているみたいだ。
話を聞いているのか、聡美ちゃんも何も言わずにこちらを見ている。
「石榴先輩に連れていかれたから、絶対そうだと思ったんですけど。なんか言われたんですよね。」
「う、ん、まあ。」
「やっぱり!ほらね、サトチン、正解だったでしょ。」
「そうだね。」
「いや、もう私カチーンときてですね!ちょっと聞いて下さいよ!」
そう言って寧々ちゃんは、コの字型に並べられたソファの、縦線にあたる位置に腰を下ろした。
聡美ちゃんもそのつもりなのか、もう一つのソファに腰を下ろす。
必然的に、私も今ようやく立ち上がれたソファに再び沈むこととなった。
「あんだけこっちこと引っ掻き回しておいて、あの後もこっちに来てたんですよ、女バス!」
「寧々、声が大きいよ。」
「ああ、ごめん。先輩は寝てたから知らないでしょうけど、特にあの石榴先輩?
 来るたびに蘭先輩に声掛けてくるし。
 休み時間じゃないんですよ。普通に練習中にですよ。
 白井も密田もなんにも言わないし、もう、イライライライラ。」
「あれはちょっとダメだよね。」
「ちょっとじゃないよ!全然ダメだよ!んでもって、私のこと見る度に舌打ちしてくるんですよ。
 何さまですか、あの人!」
「ちょっと、寧々ちゃん落ちつこうよ。」
「落ち着いてます!」
暴走列車は止まらない。
「で、夜ですよ。夜。お風呂場の前でですよ。ああ、もう!
 お風呂って時間で決まってるじゃないですか。
 なのにあの人たち時間も守らずに、うちの時間になっても出てこないんですよね。
 それで仕方ないから中に呼びに入ったんですけど、そしたら誰が好きとかどうとか話してるんですよ。
 話するのはいいですよ。好きにすればいいですよ。とっとと出ろって話ですよね。
 それでこっちが言ったら、はいはいみたいな感じで出てくるし。
 だから私言ってやったんですよ。うちの部の人は時間も守れないような人は嫌いだって。
 そしたら目の色変えてつっかかってきて。」
「いや、それ喧嘩売ってるだけだから。それは寧々ちゃんが良くないよ。」
「だって、しょーがないじゃないですか!そりゃ私も良くないかもですけどー。」
「悪いことは悪いですからね。」
珍しく聡美ちゃんも怒っているようだ。
「で、先輩。さっき誘拐されて何言われてたんですか!私がうざいとかですか!」
「いや、その、うん、なに。」
「やっぱりそうなんですね。ほんっとごめんなさい、腹立つ。
 無視していいですから。そんなのあんたに言われる筋合いないって!」
なんか。
二人とも同じことを言ってる気がする。
どっちの言うことももっともだし、どっちの言うこともなんて自分勝手。
ほんの少しでも相手のことを思うことができたらこんな諍い起こらないのに。
煮込みすぎたクリームシチューのように、全てがドロドロと溶けて混ざり合っていく。
やがて茶色く、黒く濁っていき、鍋に焦げ付いていき、ちょっとやそっとじゃ取れなくなる。
綺麗にすることなんてできなくなる。
不快な感情が血液の流れに乗って体中を支配していく。
不思議なものだ。
そうなってしまうと周りの景色も変わってしまう。
寧々ちゃんも聡美ちゃんも水槽の魚達さえ邪悪な表情に見えてくる。
「ごめんね。」
でも、そんな私にはこんな台詞しか口にすることはできなかった。
「先輩が謝ることじゃ―」
「ちょっと調子悪いからやっぱり部屋で寝てるね。」
そして、この場所から逃げ出すことしかできなかった。
昨晩より、5分前より、重たい心と身体を抱えて。

眠れないながらに横になって、いつの間にか眠っていて、目が覚めた時に隣にいたのは意外すぎる人物だった。
「よう。」
「おはよ。」
改めて頭を振って左右を見る。
うん、間違いなくここは女子マネージャー達の部屋であって、男子禁制のはずである。
ゆっくりと視線を戻した。
「やっぱ調子悪いか。」
それは紛れもなく男性の発声で、目の前にいるのはまごうことなく樫良太その人である。
「女になったの?」
「は?」
徐々に頭が覚醒してくる。
何か言った気がするがもう忘れた。
「頭痛いのか。」
「うん。ちょっとねー。」
耕太はTシャツ姿で首にタオルをかけていた。
身体からはまだ少し熱気が立ち上っている気がする。
「練習は?」
「抜けてきた。」
「そう。・・・は!?」
目が覚めた。
「なんで。」
「いや、どうしてるかなって思って。」
「いやいやいや、抜けるも何もどうやって。」
「ちょっとトイレって言ってきた。」
あははと笑う。
「笑ってないでとっとと戻りなさい。メンバーから外されるよ。」
「そうかもなぁ。しかも女子部屋に忍び込んでんだからますますやばい。」
「それはやばいわ、ほんと。」
はぁとため息。頭がいたい。
「余計頭いたくなりそうよ、私は。」
「それはそれは。大いに頭を悩ませて下さい。」
「うるさい馬鹿。」
今、私の脳みそはテスト前でも見せないほどの猛烈な回転をみせているというのに。
この状況に。
一年前の光景を頭蓋骨いっぱいに投影しながら。
「どのくらい前からいるの?」
「ん?でも来たとこだよ。5分も経ってないんじゃない?ここ涼しくていいな。」
「ちょっと、あんまキョロキョロしないでくださーい。男子禁制なんだから。」
「あ、それで女がどうの言ってたのか。」
「女が?」
「さっき言ってたじゃん。女になったの?って。」
「私が?」
「うん。」
「いや、言ってないし。しらんよ。」
「そっか、寝ぼけてたんだな。」
「いやいや、寝ぼけたりもしないから。」
「はいはい。」
なんか、口の端がにやにやと笑っているのが悔しい。
そしてちょっと恥ずかしい。
耕太はベッドの端から立ち上がり、狭い部屋をきょろきょろしながら歩いている。
今が何時かはわからないが、昼よりは室内が暗くなっていた。
廊下の明かりが差し込んでいるのが見える。
「で、何しに来たわけ。」
「んー?」
耕太はそのひょうきんそうな細い眼を少し大きくしながら振りかえった。
「我らがさやか嬢が昼飯の時から行方不明だからな。どうなってるのかなって。」
「寝てました。以上。だれに聞いたの?」
「何を。」
「部屋で寝てるってこと。」
「ああ、サトチン。」
なんだって君は素直に教えてしまったんだ。聡美ちゃん1点減点。
「聞いたっつーか聞きだしたっつーか。なかなか教えてくれないんだもん。」
やめた。むしろ1点増やす。ごめん聡美ちゃん。
「なんて言ってた?」
「体調不良で休んでますって。」
「ふーん。」
「何。違うわけ?」
「何が?」
「いや、別に。」
なんか、二人にしかわからない沈黙が訪れる。
いろんな思惑があるんだ。お互いに。
隠されたパイとか、隠しているパイとか、その他にも勝手な憶測、不安。
言葉のない会話。
その中で、一番聞いてみたいことを、ぐっと飲み込んだ。
飲み込んだ音が聞こえたかも知れない。
そのくらい大きな塊だった。
それは聞いてはいけない。きっと。特に私からは絶対に。
耕太も同じような塊を飲み込んだようだった。
聞き出せない何かをいじらしく、狂おしく、体内へと閉じ込める。
さっきまで静かだった時計の秒針が騒ぎ始めた。
1秒が過ぎていくのを、恐ろしい程の轟音で知らせてくる。
1秒・・・2秒・・・沈黙を数えていく。
「ま、じゃあ戻ろうかなー。」
「うん。早く戻った方がいいよ。」
「お大事に。」
「はいはい、ありがと。」
実際には振りかえらなかった耕太が振りかえった姿が見えた気がした。
願望なのかもしれない。
欲望なのかもしれない。
原因はどうあれ、状況はどうあれ、一人は絶望的に寂しかった。
眠る前のとげとげとした心臓は、一時の眠りで牙を抜かれた虎のように大人しくなっていた。

夜。
12時。
眠る人々。寝室。女子部屋。
目が覚める。
歩く。
トイレ。
昨晩と同じ。
電気。
鏡。
昨晩よりはましな顔。1日ぶりに入れたお風呂。
顔を洗う。
少し汗ばんだ額が冷やされる。
頭を振る。
飛び散るしずく。
透明な鮮血で汚される鏡。水垢。
戻る。
談話室。
今日は誰もいない。
美雪も良太もいない。
ダレモ―――。
思考が止まる。
冷える。
固まる。
凍る。
動けない。
吐き気。
衝撃。
貧血。
衝動。
発散。
夢。
幻。
嫌。
人影。
動く。
弄る。
手。
身体。
服。
布。
衣擦れ。
水槽。魚。ブルーライト。
照らされる。
大人達。大人達の顔。
ひとつはオトコ。
ひとつはオンナ。
ひとつはシライ。
ひとつはミッタ。
判別。
判明。
現場。
口づけ。
視線。
交差。
吐息。
ガラス越し。
存在。
気付いて。
やめて。
そんなもの、見せないで。
私はここいにる。
気付かない。
届かない。
心臓。
鼓動。
早い。
止まる。
激しく打つ。
ギュッと握りつぶされそうになる。
眩暈。
ぐっと、胃から何かがせり上がってきた。
数回ぶりの食事。
ようやく食べたそれら。
地に杭で打ち付けられた鉛棒のような足を無理矢理動かした。
トイレへと戻る。
近い方にかけ込む。
胃からすべてを吐き出した。
苦しい。
涙が出る。
地面に膝をついて便器を抱え込むように。
綺麗に清掃されているそこからは、それほどの悪臭はしない。
泣いた。
涙が止まらない。
嗚咽が止まらない。
吐いた。排他。
私以外のものを全て取り除きたい。
心からも身体からも。
嘔吐く。
喉が焼ける。
胃酸が舌を濡らす。
声を出した。
叫んだ。心の限り。
「〜〜〜!〜〜〜!」
なのにそれは声にならない。
糸の切れたマリオネットのように。
意志は身体を動かしてはくれない。
フラッシュバック。
先ほどの光景が目の前をちらつく。
激しい頭痛が襲う。
肩から力が抜ける。
両手を握りしめる。
力が入らない。
腰を落とした。
もう何も出ない。
食べ物も。胃液も。声も。
ただ、涙だけは止めどなく溢れ出てきた。
悲しい。
切ない。
そして、どうしようもない気持ち悪さが。
身体を貫く。
せっかく洗ったはずの顔がもうぐちゃぐちゃになっている。
服も、吐瀉物と唾液でべとべとになっている。
機械的に灯った光。
蛍光灯の白い世界はこんなにも残酷。
こんな醜い私の姿もさもありありと現実に映し出す。
嫌だった。逃げたかった。夢であって欲しかった。
でも。これは現実なんだって分かってしまっていた。
昨日の現実を参考にした夢じゃないんだって分かってしまっていた。
廊下から反響が聞こえた。
ひたひたと足音。
隠れなきゃと思った。
だが身体が動かない。
本当はだれかに見つけてほしい。そんな思いが身体を留まらせる。
足音は大きくなる。
女性向けトイレに入ってきたみたい。
足音が止まる。
入口に近いこの個室は入るとすぐに目につく。
驚愕した相手の雰囲気が伝わってくる。
しかしそれも一瞬のこと。
その人は私の隣に腰をおろし、肩に手をかけてきた。
顔を向けることができない。
相反する感情がぐるぐるとマーブル模様。
なぜだろう。再び涙があふれてきた。
ぼろぼろとこぼれる涙。
「先輩。」
驚くほど優しい声が聞こえた。
顔を上げると、長い黒髪の少女が微笑んでいる。
「立てますか。」
心に沁みていく優しい声に頷く。
べとべとに汚れた手を臆することなく取り、ゆっくりと立ち上がらされた。
流し台に連れていかれる。
全自動の水道から勢いよく水が流れる。
両手を洗って、顔を洗った。
トイレの水がこんなに綺麗だと思ったのは初めてだった。
躊躇うことなく水を口に含み、口内をゆすぐ。
脳が苦さを思い出した。
何度も口をゆすぐ。
何度も何度も。
焼き付けられた光景を吐き出すように。
いつの間にか眼鏡をかけた黒髪の少女は替えのジャージを持ってきていた。
何も言わずに渡されたそれを、個室の中で着替えた。
段々と健康になるにつれ、嫌な臭いが鼻を突く。
その臭いに吐き気を催しそうになる。
脱いだ服をぐちゃぐちゃと丸めた。臭いも閉じ込めるように。
となりの個室で水の流れる音が聞こえた。
掃除までしてもらったのかと思ったが、良く考えたら彼女はトイレに来たのだ。
そりゃ、することをしにきたんだから、することをしたんだろう。
なんか少しおかしくて笑ってしまった。
傷み切った心の傷が塞がれていく。
ふぅ。
一息ついて扉を開けた。
まっすぐに洗面台に向かい、もう一度顔を洗った。
顔を振る。
ぶるぶるぶる。
先ほど染みついた透明な鮮血の上に更なる血が塗り重ねられていく。
濃く濃く濃く。
鏡の中の自分に涙をうつすように。

緑の中のベンチに並んで腰を下ろした。
建物のすぐ隣にある公園。
夜の帳が二人の姿を闇へと溶け込ませていく。
蒸すような暑さはあるが、日中よりは遥かに過ごしやすい。
蝉の鳴き声が聞こえる。
「知ってますか、さやか先輩。」
「何を?」
黒髪の少女、柊聡美が口を開いた。
なんということもなく、あのままトイレを出て、そのまま部屋に戻ることなくここへとやってきた。
二人とも無言。
言葉は交わさないが、なにかしら通じ合うものがあった。
「蝉の鳴き声って、鳴いてるんじゃないんですよ。」
「へ?」
「蝉の鳴き声って言うじゃないですか。あれって実は、雄が身体を震わせて、その音が鳴き声に聞こえてるんです。」
「へぇ、そうなんだ。」
蝉の音に耳をすませる。
夜更かししている彼らはいったい何をしているのだろう。
遊んでいるのか、働いているのか。
談話室の前を通る時。
避けるようにしながらも見てしまった室内には、もう誰もいなかった。
聡美ちゃんに話してしまおうかとも思ったが、大人の事情もあるかもしれない。
もしかしたらもしかしたら、私の見間違いかもしれない。
なので、黙っておくことにした。
聞かれても、黙っておこう。
でもなんとなく何も聞かれない気がした。
代わりに1年前の話をしたくなった。
「ねえ、聡美ちゃん。」
「はい?」
「ちょっと聞いててくれない?質問禁止ね。」
「いいですよ。なんですか?」
夜空を見上げる。
蒼い天に瞬く無数の星々。
膨大で圧倒的な力を感じる。
その力に後押しされた。
「私ね。去年の合宿の時、耕太に告白されたんだ。」
「・・・。」
聡美ちゃんは約束通り何も言わない。
言ってくれてもいいのにと思いながら、天に向かって呟き続ける。
「でも私もう好きな人がいたし。断ったんだ。
 そしたらさ、じゃあもっとうまくなってからもう一度言うってさ。
 フられたその場で言うんだよ。馬鹿だよねー。」
当時は凄く悩んだことも、もう笑って話せるようになった。
「なかなかさ、世の中思い通りにいかないよね。
 勉強も、部活も、恋も、なにもかも。難しいよね。
 はぁ、何言ってんだろう。ごめん、なんか急に話したくなって。
 他の皆には内緒ね。ありがと。」
立ち上がった。
「冷房きいてないし、暑いね。もどろっか。」
「はい。」
聡美ちゃんも立ち上がる。
でもいつもと違う。なんだか煮え切らない様子。
聡美ちゃんは言いにくそうに唇を噛みながら、口を開いた。
「先輩すみません、一つだけ聞いてもいいですか。」
「いいよ。ダメって言ってたけど。なに。」
「先輩の好きな人って、蘭先輩ですか。」
逡巡。しかし、質問はこちらの目を見てまっすぐに。聡美ちゃんらしいかっこいい聞き方だった。
「うん、そうだよ。」
その真正面からの勢いを受けて、今までにない力強さで言葉が出る。
誰にも言ったことのなかった気持ちが、言葉にすることで強くなる。
心拍数が上がってきた。
聡美ちゃんの目に吸い込まれそうになる。
髪と同じ真っ黒い瞳。切れ長の目と合わさって、美しく繊細な光をたたえている。
その瞳が少し下がった。
視線が外れる。
聡美ちゃんはちょっと悲しそうな表情を浮かべた。
「1年前からですか?」
「うん、そう。」
「蘭先輩は知ってるんですか。」
「多分気付いてないと思うけど。」
「そうですか。
 ・・・・・・。
 すみません、先輩。私は先輩を応援することができません。」
心底申し訳なさそうな顔で聡美ちゃんは下を向いた。
「いやいや、いいけど。聡美ちゃんも良太が好きなわけ?」
「私は違います。違いますというのは失礼ですね。蘭先輩も好きですが、恋とかじゃありません。
 これは本来私が言うべきじゃないと思いますが、樫先輩の話のお返しです。
 寧々も蘭先輩のことが好きです。」
「寧々ちゃんが?」
「はい。寧々も。それと、石榴先輩もそんな気がします。」
「美雪も?」
「はい。そうは思いませんか?」
昨夜の光景や、寧々ちゃんが言ってた言葉などが思い出される。
「ごめんなさい。余計先輩を悩ませることになるかもしれませんが。」
「ううん、そんなことないよ。」
「私は寧々を応援します。でも先輩の邪魔はしません。
 これもホントは内緒なんですが・・・寧々は明日、蘭先輩に言おうとしていますよ。」
「告るってこと?」
「はい。夜に呼びだすみたいです。来てもらえるかは分かりませんが。
 でも蘭先輩なら、なんとなく寧々が勝ちそうな気がします。」
「私もそんな気がするわ。」
自然と笑顔になった。
良太は寧々ちゃんの勢いに負けてそのままOKしそうな気がする。そういう奴だ。
「先輩は気付いてたんですか?」
「寧々ちゃんのこと?ううん、全然気付かなかった。」
「そうですか。不思議です。もっとびっくりすると思った。」
「うん、ホント。私も不思議。
 いろんなことがあったせいかな。全然びっくりしなかったわ。」
「いろんなこと?」
「うん。大したことじゃないんだけどね。」
トイレで吐き崩れていた私を思い出しているのだろうか。
優しい聡美ちゃんは、何も聞いてはくれなかった。
「よし、戻ろうか。」
「はい。暑いですしね。」
二人、公園を背に歩きだした。
寝て起きたら、合宿最終日。
きっと何かが起こる予感を感じながら。


目覚めは快適だった。
心配そうな表情の寧々ちゃんに明るく挨拶をする。
聡美ちゃんもいつもと同じ態度で接してくれた。
心の中でありがとうと手を合わせる。
体調は回復していた。
「ずいぶん元気になったな。」
「まあね。」
お茶碗一杯のご飯を見て、耕太が目を丸くしていた。
昨夜はわざわざおかゆを作ってもらって、少量食べただけなのを見ていたからだろう。
同じテーブルを囲む寧々ちゃんや聡美ちゃんと比べても明らかに多い。
「ほんとだ。もう大丈夫なのか。」
「おかげ様で。」
良太も並んで目を丸くしている。
心なしか寧々ちゃんの瞳の奥が燃えている気がするが、きっと気のせいということにしておく。
今日はまだ長いんだから。
「でもさやか先輩。ホントにいきなりそんなに食べても大丈夫なんですか。」
「うん?どーだろう。でもお腹すいちゃってて。」
「倒れてからあんまり食べてなかったんですから、いきなりは無茶じゃないです?ねぇ。」
「そうですね。せめて良く噛んで食べた方が良いかもしれません。」
「そっか。わかった。じゃあ、おかずを少し減らそう。ということで、これあげる。」
「ええ!私ももういっぱいですよ。」
「でも取っちゃったんだから、食べないとダメでしょう。バイキングの掟。」
「卵って高タンパクですけど、とりすぎはだめなんですよー。」
「とかいって卵嫌いなんでしょ。」
「そうですー。だからサトチン食べて。」
「私ももう十分です。」
「そうなりゃ私が食べるしかないじゃない。」
「どうぞどうぞどうぞ。」
三人で笑う。
二日間が嘘のように心が軽かった。
横目で教師達を見やる。
並んで食事をしていた。深くは考えないようにする。
「そういや昨日白井が言ってたんですけど、今日の午後はなにかお楽しみがあるらしいですよ。」
「うん。それ、私が発案。」
「え?そうなんですか?」
「うん。こっち来る時に、絶対海ではスイカ割りでしょって。」
「ってことは、お楽しみってスイカ割り?」
「そうそう。こっち来る車の中で私が力説してね。スイカは白井が準備してくれるって。」
「へぇ〜。」
「先輩、スイカ好きなんですってね。」
「うん、好き。超好き。エーデルワイスのレモンパイの次くらいに好き。」
「それレベル高いですね。」
「ちゃんとおいしいの買ってきてくれてるといいんだけどね。」
ちなみにエーデルワイスのレモンパイとは、とある洋菓子屋さんの午前中で完売するほど人気の高いスイーツだ。
「じゃ、まあ午前中はがんばろっかなー。明日のお昼にはもう帰るんですしね。」
「そうだね。今日が勝負だよ。」
そうですね、と寧々ちゃんの瞳に再び火がともる。
きっと練習に対してではないし、ましてやスイカ割りに対してもではないだろう。
良太達はにぎやかに朝食をとっていた。

昼休みになった。
ご飯を食べたあとは、浜辺でスイカ割りをして、その後は水泳特訓メニュー。
スイカ割りが告げられた時、男たちは雄たけびを上げた。(再び誇張だ。実際に叫んだのは耕太くらいだ。)
お楽しみを前に、みんな我先にと食堂へと向かっていた。
「私ちょっとトイレ行きたいから、先ダッシュしますね。」
食堂までの道を全力疾走する寧々ちゃんを聡美ちゃんと二人で見送る。
「気合入ってるね。」
「ですね。」
二人して顔を見合わせる。
どう考えても、良太に夜のお願い(なんか卑猥だ。)をしに行ったのだろう。
バイタリティ溢れている。
1年の若さのせいじゃない。絶対。
私には絶対にあんなことはできなかったと思う。
「みんないる中でどうやって言うのかな。」
「寧々のことだから、蘭先輩だけ呼んできてこそっと言うんじゃないですか。」
「ああ、そういうの上手そうだね。」
並んで廊下を歩く。
昨夜も二人で歩いた道。
二人ともなんとなく思い出しながら無言で歩く。
蝉。太陽が暑い。
談話室の前を通る時、ガラスの向こうに見知った姿が見えた。
刹那。
緊迫した状況がガラス越しに伝わってくる。
聡美ちゃんも足を止めてそちらを凝視している。
寧々ちゃんと美雪。
なにやら言い争っている様子。
聡美ちゃんを顔を合わせると、二人で駆け出した。
談話室に入るには、中の廊下に行って、そちらの扉から入らなくてはならない。
扉は分厚く、外にはほとんど声は漏れてこない。
しかし、扉に近づくにつれ、二人の罵声が耳に届き始めた。
幸か不幸か、周りに人はいない。
勢いのままに扉の中になだれ込む。
その音に一触即発の二人が振り向くが緊張感は途切れない。
乱入者には興味がなさそうに、二人は再び対峙した。
外から見た時のように言葉をぶつけあいはしない。
しかし、一歩でも動けば、命を奪うかのような険悪な雰囲気が二人をまとっている。
龍と虎。
昔なにかで見た、そんな図が二人に重なって見えた。
「だからもう来るなって言ってるんです。」
沈黙を破ったのは寧々ちゃんだった。
「迷惑だって何回言ったら分かるんですか。そっちはそっちでやってろっていってるでしょ。」
「だからお前に言われる筋合いはねーっつーの。邪魔だっていうのはお前だけだろ。」
「部員全員迷惑してます。なかなかそんなこと言えないことぐらいわかるでしょ。
 そのくらい空気よんでください。」
「1年ごときが何言ってんの。お前何さまなわけ?自分かっこいいとか思ってんでしょ、馬鹿だね。」
「馬鹿馬鹿いうなこの馬鹿!キャーキャー五月蠅いって言ってるんですよ。猿山の猿みたいにキーキーキーキー。」
「あはは。それまさにお猿さんだねー。そっくりですねー。あはははは。」
あっと思った時には遅かった。
寧々の右手が美雪の頬を思い切り打っていた。
緊張は瓦解した。
美雪の右手が寧々の頬をはたく。
バシッと、先ほどより大きな音が談話室内にこだまする。
寧々は目に涙を浮かべながら、美雪に飛びかかった。
手をつかみ、服をつかみ、髪をつかみ、はちゃめちゃに転がりあう。
後ろから走りだした聡美が寧々の身体をつかみ、美雪から引き離す。
慌てて私は美雪の身体を引き離した。
しかし美雪の鍛えられた力に一瞬に突き飛ばされる。
尻もちをついた。
修羅のごとき美雪が寧々を睨んで立っていた。
寧々は聡美に抱き止められながら美雪を睨んでいる。
「お前みたいなブスに良太は渡さないよ。」
「黙れ、この猿!」
「豚は豚らしくブーブー鳴いてな。」
美雪は「馬鹿!死ね!ゴリラ!」と叫ぶ寧々の咆哮を聞きながら部屋を出ていった。
美雪の姿が遠ざかるにつれ、寧々ちゃんの声も小さくなる。
やがてそれは嗚咽へと変わり、そのまま慟哭となる。
聡美ちゃんがそれを聖母のようにあやす。
私はどうしたらいいのか分からないまま尻もちをついたままの姿勢でいた。
どのくらいの時間そのままでいたのだろうか。
寧々ちゃんの声は小さくなり、ぐずぐずとした様子になると、ゆっくりと立ち上がった。
昨日も三人で座ったソファへ腰かける。
私たちも同じようにソファへ座った。
寧々ちゃんは言葉を探しているようだ。
辛抱強くそれを待つ。
悩んで悩んで悩み抜いた結果、寧々ちゃんは最初に「ごめんなさい。」と言った。
「迷惑かけました。石榴先輩にもなんかすごい酷いこと言っちゃった。」
また目に大粒の涙が浮かび、勢いよく流れおちた。
1つ。2つ。
次々と溢れては流れていく。
「悔しかったの。先輩に声をかけてるのが、先輩の肩を叩いてるのが。
 だからもうやめてもらおうと思って。なのに、なんでこんな風に。」
「大丈夫。大人なんだからさ、分かってくれるよ。」
「さやか先輩もごめんなさい。止めてくれてありがとうございました。
 もうなんか、私、わたしじゃないみたいで。」
「ううん。むしろ私はなにもできなかったし。つきとばされちゃった。」
「あ!先輩大丈夫でした?」
「うん、なんともないよ。ありがとう。聡美ちゃんはすごいわ。」
「そんなことないですよ。さすがに止めないとと思っただけで。」
「うん、ホントすごい。ありがとう。頼りにしてるよ、友よ。」
「うん。」
いつの間にか二人の間にできていた絆を初めて目の当たりにした気分だった。
強固で綺麗で、なんだかとても羨ましい。
「美雪にはさ、私から言っとくから。また今度謝ればいいよ。」
「はい、ありがとうございます。ああ、早く解決させないと気が重たい。」
「そうだねー。思いっきり言ってたしね。」
「あああああ、死んでしまいたい。」
頭を抱えて小さくなる。
そんな姿もちょっと可愛かった。
「提案なんですけど。」
「はい、聡美ちゃん。」
「ここでお昼食べませんか?女バスの人もいるだろうし。」
「うん、賛成。私とってくるよ。」
「私も行きます。寧々はここで待ってて。」
「うん、よろしく。」
「スイカ割りもあるからね。8分目で良い?」
「はい。お願いします。」
聡美ちゃんと二人で席を立った。
ごしごしと目をこする寧々ちゃんを横目に食堂へと向かう。
「あ!」
「何!?」
寧々ちゃんの大きな声に振りかえる。
寧々ちゃんは大真面目な顔で、こう言った。
「唐揚げは2つお願いします。」

ここ数日で一番暑い日だった。
空にはキラキラと太陽が輝いている。
白い砂浜にブルーのシートを敷いて、その上に緑のスイカを載せる。
この合宿で白井がした一番のよい仕事だったと思う。
ずっしりとした大きなスイカが三つ。
木刀のような木の棒も準備されていた。
水着でワイワイと準備する男子をパラソルの日陰から眺めている。
寧々ちゃんはピンクのタンキニ。
トップスは少し短めでかわいいおへそが覗いている。
縁には白いフリルが満載。
アンダーの腰部分についた二重フリルは重すぎることなく、視線を引き付ける。
ツーサイドアップにした髪は動きに合わせてピョコピョコと揺れる。
そして聡美ちゃん。
圧倒的だった。
男子達からも、おぉぉと声が漏れたほど。
濃色のイメージが強い彼女は真っ白い水着を着ていた。
シンプルなワンピースタイプ。
しかしその、なんというか、圧倒的だった。
美しいボディラインを余すことなく浮かび立たせるフィット感。
肩のあたりから脇腹を通り太ももまで落ちるラインプリントがその美しさをより一層引き立たせる。
二人とも薄いパーカーを着て陽を避けていた。
そして私も背を丸めながらおニューの水着に肢体を通した。
もちろんパーカーなんかを羽織っている。
「かっこいー!先輩、そういうのも似合ってますよ!」と寧々ちゃんにべた褒めされたが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
男子達の視線については・・・ご想像にお任せします。
それはそれとして。
案の定、食事の後、美雪に呼び出された。
思いっきりくぎを刺され、串刺しにされ、めった切りにされた。
「はっ。死ねよ。」
寧々ちゃんが謝りたいと言っていたと伝えた後の反応である。
関係の修繕にはまだまだまだまーだ長い時間がかかりそうだ。
「今晩はね、あいつのところに良太はいけないよ。」
いつどこで聞いたのか、美雪は寧々ちゃんが良太を今晩呼びだしたことを知っていた。
「実は一昨日の夜ね、私良太を呼び出したんだ。んで、今日の夜も先約ってわけ。」
「へぇ、そうなんだ。」
一昨日の夜。抱き合う二人。
「告って抱きついたんだけどさ。あいつガキだから逃げたんだよね。」
「はい?」
「私もさすがに突っ走りすぎたのかも。夏の海っていうのはやばいよね。テンションあがるわ。」
「逃げられたの?」
「うん。」
ちょっと拗ねたような表情。
「明日も早いからとかなんとかいいながら逃げていった。だから今日はそうならないように、準備万端だよ。」
「準備ねぇ。」
「んふ。ナニするかは、内緒。」
妖艶で無邪気な笑みを浮かべる。口元のえくぼが可愛い。
「やっぱ伝えなくてもいいや。ま、そういうことだから。」
じゃあねーと美雪は練習へと戻っていった。
「という話でした。」
危険な部分を除いて寧々ちゃんと聡美ちゃんに伝えた。
さすが寧々ちゃん、それを聞いてさらに闘志が燃え上がったみたい。
「私負けませんから。」
アンダーの腰部分にある紐を結び直して、男子達の準備しているシートへと駆けて行った。
後ろ姿に呟く。
「私さ。」
「はい。」
「なんかちょっとだけ良太に同情してきた。」
「・・・・・・まあ、分からなくもないです。」
聡美ちゃんの同情的な視線はまっすぐに寧々ちゃんに捕まっている良太を捉えていた。

夏の日差し。
開放的なシチュエーション。
露出の多い着衣。
雄大な海。
カモメの鳴き声。
潮。
さざめき。
揺れる。
押しては引いて、押しては引いて。
私の心の内のよう。
揺れる揺れる揺れる。
状況が変わる。
刺激が襲う。
乱れる思考。
ぶれない自分。
恋。愛。性。男。女。夢。気持ち。
キリッと小さく小さく奥歯を噛んだ。
サイボーグ009の加速装置を思い出す。
加速。
何かが加速する。
自分でもはっきりわからないなにかが、しかし間違いなく加速を始めた。
もう誰にもとめることはできない。

空は茜色に染まっていた。
夕焼け小焼け。
太陽が海へと沈んでいく。
合宿最終日の夜は屋外でのバーベキュー。
引率教員によるTOP会談でもあったのか、バーベキューは女バスとの合同で行われていた。
水泳訓練の後、水着のまま串を焼く。
女バスは海での練習はなかったようで、羨ましそうな視線を向けていた。
体育館の灼熱地獄を考えれば、天と地の差だろう。
美雪の姿はない。
どこかで準備とやらをしているのかもしれない。
寧々ちゃんはどこか警戒しているようでいて、同時に興奮に身体を震わせていた。
聡美ちゃんに何かを熱心に話しかけている。
ゴメンと、思うことさえなかった。
葵の時よりも冷静に、冷徹に。
何かが背を押してくれる。
まっすぐに歩く。
男達は数人ではしゃぎながら肉を焼いていた。
その輪に向かって声をかける。
「キャップテン。」
「ん?」
良太が振り向く。
耕太達他の男子も口を閉じた。
「ちょっと部の相談があるんだ。来てもらっていい?」
「ん、ああ、いいけど。」
「ゴメンネ。皆は先に食べてて。」
「おうー、早く帰ってこないと全部食っちまうからな。」
「馬鹿!お前、絶対残しとけよ!」
「へいへい。」
どつき合いながら笑っている皆。
私も笑った。
良太の一歩前を歩き始める。
後ろをついてくる。
「どこ行くんだ?」
「皆に聞かれたくないからね。ちょっと離れたところ。」
「真面目な話か?」
声が真剣味を帯びる。
かっこいい。
「うん。真面目な話だよ。じゃないとわざわざ連れてこないって。」
嘘。嘘なんだよ。心の中でケラケラと笑う。
「だよな。誰かに何かあったとか?また誰かやめたいって言ってるのか?」
「うん、そう。」
「まじかよ。1年だよな。まだ半年も経ってないのに根性ないなぁ。」
みんなから少し離れたところで立ち止まる。
「なにか理由があるみたい。それでね。私に相談してきたの。でも私が止めただけじゃちょっと力不足で。
 良太にも話すから、三人で話そうって言ったらOKしてくれたんだ。」
「いいよ、もちろん。で、誰なんだよ。」
「まだ内緒。言ったら絶対に良太は顔に出るもん。今日の夜、三人で話そう。」
「え、今日の夜?」
「うん。どうせみんなと遊ぶくらいで、暇でしょ。」
知ってるんだ。
寧々ちゃんにも、美雪にも呼び出されてるってこと。
でも絶対に良太は断れない。
真面目だから。新キャプテンなんだから。
「何時くらいだよ。」
「何時くらいならいい?」
「すぐに終わるかな。」
「わかんないよ。それは良太の腕次第じゃない?」
「・・・じゃあ9時くらいでどうだ。」
「わかった。そう伝えておくね。談話室に来てもらったんでいいかな。」
「ああ、あー、いや、別の場所ないかな。」
「んー、じゃあさっきスイカ割りしたところとかでもいい?」
「ああ、うん、じゃあそれで頼むよ。」
「頼りにしてるよ。」
「おう、任せとけ。」
良太は走ってバーべキュー連中の元へ戻っていった。
肉ー!と叫んでいるのがこっちにまで聞こえてくる。
やっぱり呼び出されたのは談話室だったみたい。
二人に呼ばれているのは何時なんだろう。
8時?10時?すぐに終わらすつもりなら9時半だろうか。
そもそもどっちにも行くのか。行って、承諾するのか、断るのか。
わからない。
わからないけど。
私は私のやり方でやらせてもらう。
だれにも邪魔はさせない。
時間の過ぎるのは早かった。
何をしたかもよく覚えていない。
寧々ちゃんや聡美ちゃんと笑いあって。
他の部員たちともふざけあって。
女バスの子たちともちょっと遊んで。
断片的な記憶しか残っていない。
全ては約束の時間までの序章にすぎない。
そして時計の針は9時を指した。
水着の上にパーカーと短パンを履いて砂浜に経つ。
波の音が心地よく聞こえてくる。
うだるような暑さも潮風が和らげてくれる。
建物の方から人影が来るのが見えた。
砂の上を走ってくる。
こちらには一人しかいないのにもう気付いているだろうか。
気付いていないかもしれない。
馬鹿だから。
「あれ?まだ来てないのか。」
「うん。私一人フライングしちゃったみたい。」
「そっか。」
良太はシャワーでも浴びたのか、さっぱりとした顔をしていた。
Tシャツに短パン。
素足にビーチサンダル。
引き締まった腕や足が月明かりに煌めく。
「ちょっと歩きながら待とうか。立ってるのもなんだし。」
「ああ。」
良太の一歩前を歩く。
自然と後ろをついてくる。
「合宿楽しかったね。」
「そうだな。そういやさやか、身体は大丈夫なのか。」
「うん、もう全然平気。元気だよ。」
「さやかでも熱中症とかなるんだな。」
「それどういう意味よ。」
「いや、その辺しっかりしてそうだからさ。」
「そうだねー。大失態でした。ごめんごめん。」
建物が見えなくなる。
イコール、建物からこちらも見えなくなる。
「夜でも意外と見えるもんだね。」
「そうだな。星とか綺麗だもんな。」
空を見上げる。
満点の星空。
ところどころに霞む雲。
白い月も煌々と輝く。
顔を下ろすと、波が光を反射していた。
きらきらとして綺麗。
「白井のせいでここになっちゃったけど、なかなか良いかもね。」
「だな。俺、霧ヶ峰よりこっちの方が好きだわ。」
「私もそうかも。あっち蚊も多いしね。」
「だよな。施設も汚いしな。」
「こっちまだ新しいのかな。綺麗だよね。」
「金額も同じくらいだし、来年もここで決定。」
「はーい。」
さりげなく。
パーカーのファスナーを半分下ろした。
一瞬、良太の視線がそこを捉え、すぐに目を離した。
下に水着を着たままなのもわかったと思う。
「さやか、そろそろ教えてくれよ。誰なんだよ、やめたい奴って。」
「あれ?まだわかんない?」
「ん?・・・もしかして、さやか?」
「あったりー。」
はずれ。
「え、なんで。」
「なんででしょう。」
走り出す。
「おい、待てよ。」
良太が後ろを追いかけてきた。
すぐに腕を掴まれた。
そのまま砂浜に転がる。
笑い声が止まらない。
普段の自分よりワントーン高い声で笑っている。
良太は訳のわからないような顔で私を見下ろしていた。
大の字になって寝そべる。
広大な宇宙が見える。
すべてのものがちっぽけに感じられる。
手を伸ばす。
全ての星を掴めそう。
心のワクワクが止まらない。
いまだかつて感じたことのない高揚感。世界が明るい。
視界にないの良太の動きも掌握できる。
困惑。疑問。模索。
下から見上げる。
上から見下ろす。
神様って上から見ているものだって思ってた。
下から見上げる神様もいるんだ。
単純な支配関係を覆すような感覚が背徳感に火をつける。
足首をつかむ。
良太は動かない。
人差し指でなぞった。
脊髄反射的な動きで飛び退かれた。
おもしろい。
目が大きく見開かれている。
「暑いね。」
昼間蓄えた熱を放出している砂達。
海水に冷やされながらも、芯にはまだまだ熱を蓄えている。
パーカーの前を全て開く。
星明かりに白い肌が浮かび上がる。
隠された部分は黒。
宵の群青よりも暗く沈む。
良太の心拍数があがった。心臓が耳元にあるみたい。そんな状態だと思う。
立ちあがってさらに奥へと足を進めた。
絶対についてくるという確信。
外れない。外さない。
「優秀な後輩たちも入ってくれたしね。そろそろ勉強に集中してもいいかなって。」
嘘。嘘。嘘。
全部ウソ。
最高の嘘吐きだ。
「そっか。どっか行きたいところとかあるのか。」
「うん。医学系に進みたいんだ。でもうちお金ないから、やっぱり国立狙いたいしね。」
「医学部か・・・。すげぇな。」
「すごくないよ。」
開けた浜辺の終点に辿り着いた。
ごつごつとした岩はまるで地面から生えているみたい。
少し平らになった岩に腰を下ろした。
もう建物の明かりはまったく届かない。
「私馬鹿だからさ。もっともっと勉強しないといけないんだよね。」
「そんなに成績悪かったっけ。」
「悪いよ。真ん中以下だもん。やっぱり無茶な話かなぁ。部活楽しいし。」
「無茶じゃないとは思うけど。やる気次第じゃないか。部活は続けてほしいけどなぁ。」
「私必要かな。」
「おう、もちろん。さやかがいなくなったら、うちの部どうなるんだよ。」
「どうなるの。」
「まわんないんじゃないか。寧々ちゃんとか聡美ちゃんも大分慣れてきたけどまだ1年生だし。
 うちの部、2年生とかさやかだけだから、3年が引退して負担が増えてるのもわかるけどさ。」
「二人とも超優秀だから大丈夫だよ。」
良太は優しい。
部のために私をひきとめたいけど、個人的な理由も大切にしてくれる。
だからみんなに慕われていて、リーダーなんだろう。
「ねえ、立ってないで座りなよ。」
「いいよ。」
「練習で疲れてるでしょ。ほれ。」
砂浜を指差す。
はぁとため息をついて、良太は胡坐をかいて腰を下ろした。
「キャプテンは大変?」
「んー。大変っちゃ大変だけど、けどまあ助けてもらってなんとかやってるよ。」
「うん。しっかりキャプテンしてると思うよ。」
「そう言ってもらえるとうれしいけどな。」
「だって良太が一番みんなのこと見てるし、一番みんなのために動いてるもん。
 リーダーってそういうとこだと思うよ。もちろん実力も1番だけどね。」
「そんなことねぇよ。」
ちょっぴり照れくさそうに笑う。
そんな良太はいつもと違ってすごくかわいい。
「ねぇ。」
ちょっとだけ声が震えた。
気付かれてなければいいなと思う。
「ご褒美欲しくない?」
「ご褒美?」
「うんそう。がんばってる新キャプテンにご褒美。」
「なにかくれるのか?」
「どうしようかなって話。」
「なんだよ。みんなでそんな話になってんのか?」
「ねぇ、どう?」
「いやまあもらえるものはなんでももらうぞ、俺は。」
瞳がきらきらと輝いている。
男の子っていつまでも少年なんだな。
きっと大きくなってもこんな瞳をしていると思う。
「よかった。じゃあ目を瞑って。」
「目?」
「いやまあね、きっとそう言うと思って、実はもうここに隠してあるのでした。」
「まじかよ。あれ?じゃあやめるどうこうの話は?」
「ちょっとドキドキした?」
「うわー、まじかよ!やられた!」
背中から砂浜に転がった。
ころころと転がっている。
その姿が面白くて、思い切り笑ってしまった。
「さやかからのご褒美なわけ?えろいな。」
「いやいやいやいやいや、みんなからだよ。後でお礼言ってね。」
「否定しすぎだろ。はは、全然気付かなかったわ。あいつらめ。」
本当に馬鹿で可愛い。
どこまでが嘘なのかもわかってないんだ。
ついさっき自分を騙した人を疑おうともしないんだ。
「はいじゃあ目を閉じて。」
「はいはい。」
「薄目も禁止ね。」
「わかったわかった。」
ふわりと。岩から立ち上がった。
サンダルを脱ぐ。
砂がさらさらと肌を撫でる。ちょっとくすぐったい。
パーカーを脱ぎ捨てた。
夜風がひんやりと肌をなでる。
白い煌月。
月の魔力で空間を遮断されたみたい。
感覚が鋭敏になる。
ネコのように足を運ぶ。
良太の後ろ側に回り込む。
「なんだよ。水とか掛けるのなしな。」
糸が切れたように良太の背中に抱きついた。
両腕を背中から首筋に回す。
良太の身体が緊張で固くなる。
鍛えられた筋肉たちが収縮する。
頬は熱く、心臓は爆弾のよう。
何も言わない。
波をBGMにそのまま動かない。
こういうときは男からなにか言うべきだと思うが、まあ許してあげる。
頭の中で何を考えているんだろう。
少しはえっちなことを考えてくれているだろうか。
千里眼が再び良太を捉えた。
目はきょろきょろとして、口は金魚のようにぱくぱくしている。
頭の中でいろんなことを考えては答えもなく消えていってる。
胸がきゅーっとなった。
耳もとでささやく。
自分の声が自分の声じゃないみたい。
蠱惑的で相手の脳内に侵入して制御神経を一斉に麻痺させる麻薬のような音波。
良太の生唾を飲む音が、振動が、全身から伝わってくる。
なんだ。人間だって、音を出す時は身体を震わせるんじゃないか。
聡美ちゃんとの会話が頭の右上らへんに浮かんで、でもすぐに消えた。
まだ良太からの言葉での反応はない。
身体はこんなにも正直だというのに。
理性なのか。意地なのか。プライドなのか。
兵糧攻めをされた陥落寸前の城は、革命軍に突入されるのを待つばかり。
頬を良太の耳にこすりつける。
顔を左右に振る。
産毛がぴりぴりする。
世界を陰が覆った。
邪悪な月が雲間に隠れたのだろう。
いけないことをするために。
私達のいけないことを隠すために。
タイミング。機会。チャンス。
唇を、良太の首筋にあてがわせた。
全てを奪うように、強く吸い上げる。吸血鬼のように。
うっと声を上げすごい力で逃げようとする男を、それ以上の力で抱きとめた。
力を込めるほどに身体は強くぶつかり、激しく昂ぶっていく。
吐く息さえもが熱い。
火山から噴きでる熱風のよう。
もつれ合い、ほつれ合い、そして男を組み伏せた。
膝のあたりに小石があってちょっと痛い。
でも、今動いたら全てが崩壊しそうでがまんする。
視線が合わない。
良太は唇を強く噛んだまま右下や左下へと眼を動かす。
耳もとでささやいていた言葉。→100%有効
さらなる一歩を目指す言葉。→50%有効。40%軽蔑。10%予測不可能。
「・っと・・・・・・い?」
波が言葉をさらっていく。
沈黙が苦しく。しかし濃密な世界は崩れない。
空気の密度が濃い。
隔離された空間の中でエネルギーが飽和している。
解消しなくては。解放しなくては。
このままではやがて大きなエネルギーは空間そのものを破壊して、とんでもない威力の爆弾になって全てをはちゃめちゃにするだろう。
空気の重みに耐えかねたように、ゆっくりと身体を沈ませる。
顔を下ろしていく。
視線は合わない。
良太は動かない。
呼吸は荒くなる。
息ができない。
酸素が足りない。
こんなにも吐く息は熱く、早く、重いのに。
取りこむ酸素の量が、追いつかない。
息が足りない。
ぼぅとする。頭がぼやける。視界も霞む。
目を閉じる。
視界はいらない。
感覚だけで世界を掌握する。
ゆっくりと唇を良太の唇に合わせた。
良太が今までにないほど鼻から息を吸い込んだ。
柔らかい、唇。
鋭敏に。新鮮に。暖かく。
電流が走った。
手の先から足の先までを小さな電流が駆け巡る。
ピリピリと。
なんと心地良い。
言葉じゃ足りないくらい。
快感。
味わう。
ゆっくりと。果てしなく。さらにさらにさらに。
求める。
深く。
繋がる。
心が。
逃げる。
捕まえる。
逃がさない。
引き寄せる。
掴む。
絡める。
焦燥。
困惑。
歯車。
噛みあわない。
ガチガチとぶつかる。
しかし少しずつ。
調整する。適合させる。
鋭敏で柔軟な味覚器を挿入する。
エナメル質をねぶる。
閉ざされた扉を開き侵入していく。
スリル。
恐怖。
嫌われないか。
でももう止まらない。
頬骨から目の奥にかけて溶岩が煮え立っている。
徐々に。
良太の身体から力が抜けてきた。
密着させた身体がより深く溶け合う。
顔を上げる。
濡れた顔。
唾液が唇を濡らす。
不意に。
涙。
こぼれる。
目じりから。
目がしらから。
熱く。
溢れる。
ポタポタと。
不思議と。
笑っている。私。
口元を通り抜ける呼吸気さえもが心地よい。
ああ。なんて淫らなんだろう。
千里眼で自分の顔を見てしまった。
熱を帯びて憂いを持ったまなこ。
軽く持ちあがり上気したほお。
軽く開かれたねっとりと濡れたくちびる。
額にはりついたかみのけ。
白いてあし。
黒い水着に隠されたぶぶん。
「ねえ。」
本当はそのまま言ってしまいたがったが、あまりの恥ずかしさに言葉を挟む。
相手の注意を向けるように。
しかし本当は必要ない。
だってそうじゃない。
だって、彼はもう完全に私だけを見ているのだから。
「良太のこと、好き。」
言ってしまった。
急激に身体が冷えていく。
お腹の底から。
黒い絶望感のようなものが広がっていく。
恐怖。
自分だけがかわいくて。
自分だけが大切で。
突如、頭の中に人々の顔が浮かんだ。
石楠花寧々。
石榴美雪。
葵。
裏切った人々。
大切な人々。
本当はもっともっと多くの人間が蘭良太に恋してたと思う。
バスケ部の女子たち。
女子バレー部の人たち。
クラスメイト。
委員会。
幼馴染。
ご近所さん。
町の人。
道行く知らない人々。
良太からの答えがない。
答えが欲しい。
声として、返事が欲しい。
良太の顔。
視線が下がっている。
「いいよ。」
かすかな声が、波の音よりもはっきりと耳に届いた。
さやか。
何がいいのか良くわからなかった。
肯定の「いいよ」なのは分かる。
「何が」いいの?
「好きで」いいの?「僕も好き」なの?「どうでも」いいの?
疑問符が浮かんでは、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。
どれが本当でどれが間違いなのかもわからない。
良太は微笑んでいた。
先ほどまでの緊張感から解き放たれたよう。
籠の小鳥が外へ飛び出したように。
良太が身体を起こした。
動きに合わせて、私も身体をどける。
向かいあって、砂の上に座った。
「俺、今までそういうの全部断ってきたんだけど、いいよ。付き合おう。」
「え。」
「え、ってなんだよ。自分から言っておいて。」
あははと声を上げて笑う。
その笑顔に、再び涙がこぼれた。
気持ちとは裏腹に、涙が浮かんでは流れていく。
「いや、泣くなよ。なんか俺が悪いみたいじゃん。」
「ゴメン、ゴメンね。」
嬉しかった。
時間が過ぎるにつれて、実感が伴ってくる。
告白したのも初めてだったし、今までに誰かと付き合ったこともない。
「ありがとう。」
初めてのことではあったが、ただただ幸せがさやかを包み込んでいた。


結局良太はその夜、寧々と美雪のどちらの元にも現れず、二人はお互いにやきもきとした夜を過ごすことになる。
翌日。寝不足なお互いの顔を見て、どちらの成功もなかったことを瞬時に悟ったようだ。
そんな二人が今では二人は生粋の親友となっているそうなので、世の中分からないものである。
体調は大分回復し、さやかは再び陽の中を歩き始めた。
幼稚園からの長い道を歩く。
二人は周りに隠したまま、こっそりと付き合いを続けた。
合宿から戻ってきた私は、結局葵にも黙ったままであった。
その後良太は社会人バレーチームからの誘いがあり、大手企業に就職が決まった。
それにあわせ、さやかも卒業後は事務職をこなす日々となる。
やがて、二人は結婚。
それなりに裕福な家庭は、娘と三人でそれなりな幸せを満喫していた。
太陽を見上げる。
白く霞んで、まともに直視できない。
夏の太陽。
なぜか、真っ白い月が思い出される。
夏の風。香り。川のせせらぎ。
聞こえるはずもないのに、どこからか聞こえてくる波の音。
不満はない。
何も、何一つ、不満はない。
なのに、なぜだかたまに、心に大きな穴がぽっかりと空いたようになる。
あの時、なにもかもに嘘をついたあの時、あれが本当によかったのだろうか。
切なさ。寂しさ。後悔。
どれもが当てはまり、だがそれだけでは説明がつかない。
家に届いていた結婚式の招待状の返事を出していないことを思い出した。
差出人は、樫耕太と柊聡美。
大切な仲間達。
チリリ。
心が焦げた。
太陽のせい。夏のせい。
こんなにも暑い世界はこの世のすべてに活力を与える。
エネルギーを与える。
加速させる。
自分だけではできないことも、後押しする。
夏に惑わされなければ。夏に狂わされなければ。
私はどんな人生を歩んでいたのだろう。
もっと幸せな人生だったのだろうか。今よりも凄惨で不幸な人生だったのだろうか。
今となってはわからない。
誰にも確認することはできない。
全ては夏のせい。
夏。暑い夏。
こうして私は、花嫁になった。