少年は、広い草原の中を走っていた。
行く先もなく帰る場所もなく、少年は、走る。
彼の脛ほどにもない丈の緑草を踏み潰して駆ける。
空には、白い大きな空が広がっている。
眩しすぎる太陽のせいで、白い。ただ、漠然と白い。
薄く閉じられたまぶたの下からは、ただ、ひたすら前を見つめるきらめきが覗く。
「ああああああああ!!!!!!」
少年は不意に大きな声を上げた。広がる。
軽く呼吸が乱れている。走りながら声を出すというのは、やはりなかなかの重労働だ。
一定のリズムで運搬されていた酸素と二酸化炭素が、急にリズムを崩す。
こうなるともう止まらない。一度乱れた呼吸は、スピードを緩めることなく走る少年を蝕んでいく。
「はぁ、はぁ、はぁ、は、えっゴホッ、ゴホッゴホッ、ゲハッ、ゲホッ。」
バタッと倒れた。心臓が激しく暴れまわっている。陸に上がった魚の様に体がビクビクと跳ねる。
閉じた目の奥が赤い。
口を大きく開けて空気を胸にいっぱい吸い込もうとするが、少し吸い込んではむせる。
真夏の日中の犬のようにはぁはぁと繰り返す。
耳の奥にたまった空気が徐々に抜けてきた。心臓の鼓動も少しずつおとなしくなっていく。
天から照りつける灼熱の太陽をものともしない勢いで、蒸発する汗が体温を奪っていく。
「ふぅー、ふぅー。」
呼吸のリズムも徐々に不調和の地獄から抜け出し始めた。

ふと、影がかかった。
途端、忘れていた暑さを思い出したかのように汗が噴出す。
「走ってすぐ寝たら、子豚さんになっちゃうよ。」
いつもそうだ。だけど、いつも違う。
「トカゲ。」
そう、前の日は確か。
「トカゲって言ってなかったか、前の日は。」
その前の日はマングース。その前は猫。さらにその前はアオテナガザル。
「ん〜。」
少し、考えているようだ。鼻腔をくすぐる汗でも青草でもない匂いに少し酔う。
「一個前が、猫だったよ。うん。」
「やっぱり、いつもいってること違うよな。」
「そんなことないよ。言いたいことはおんなじ。走ってすぐ寝たらダメなの。」
そんな、挨拶。ここまでがいつもの挨拶。ずっと変わらないいつもの挨拶。
ゆっくりと目を開いた。影がかかっているからあの白い空を眺めることもない。
いつものように、目の前には僕を見下ろす影が一つ。
白い大きな麦藁帽子のような形の帽子をかぶり、真っ白なワンピースを着ている。
黒くて長い髪と大きな二つの目がある以外は、どこまでも透き通った少女だった。
吹き抜ける風に帽子のリボンとスカートの裾をなびかせながら、少女は笑って言った。
「いつもやってること同じだね。」
少女の肌は白い。こんな白熱の元でこれだけ白いとなると一体全体ロボットかと思ってしまう。
少女のほうが、あの空よりもよほど僕を照らしている。
「そんなことないよ。」
こちらから見ると影になっている白い少女をぼんやりと見つめる。
「思いっきり走って途中で倒れてはいるけど、いつも同じ場所で倒れてるわけじゃない。」
「倒れた場所、調べてるの?」
「いや、そんなこともないけど。」
だいたい、この広いだけの草原に目印なんてものはほとんどない。あるのは小さな湖と緑の草と白い空だけ。
それと、僕と少女。
「へっへへ〜ん。」
少女がこういう笑い方をするときは、必ずなにか僕を驚かせることを思いついたときだ。
すっと、全身をこわばらせる。
「なんだよ。」
「調べてるんだよ♪」
一瞬、何のことだか分からなかった。調べている。なにを。
そんな僕の戸惑いを感じ取ったのか、少女はルンルンと続ける。
「そ、調べてるの。というより、記録してるの。」
ますますわけがわからない。一体何を記録しているというのか。僕と彼女の時間だろうか。
ますます困惑していく僕は、表情もそれに続いているようだ。眉間に皺を感じる。
「なに。まだ分かってないの。今話してたところでしょ。」
「あ。」
声を出してしまった。
少女は破顔する。
なんだか、気温が上がったようだ。暑い。
「僕が倒れたとこ。」
ピンポーン、と少女はその場でくるりと一回転した。下から見上げている僕はなんとなく視線をずらす。
ふわりと浮いたスカートがヒラヒラとまた下がる。
「そ。倒れたとこね、草、結んでるんだよ。」
こうやって、としゃがみこんで僕の足元の草を結ぶ。突然影がなくなったので反射的に目を閉じた。
まぶたの奥は真っ赤だ。
ほらできたと、手をパンパンとはたきながら少女は立ち上がった。上半身をもたげる。
見ると今の僕の足元の草が綺麗にアーチを作っていた。
しかし、この形はどこかで見た気がする。そう、それは前の前の日だったか。確か僕の倒れたところに。
「うわっ。」
一気に立ち上がり少女のつむじ辺りをはたいた。無論、手が帽子ににこする程度だが。
「いった。なにするのよ!」
キッとにらみつけてくるが、怖くなんかない。その泣き出しそうな口の形のほうが存在感が強いから。
「な・に・す・ん・の・よ・!」
とりあえず、頭を持って前後にシェイクしてみた。「うぇわぇぇぇぇ」とか謎の言葉を上げているのがかなり愉快だ。
ぴたりと手を止めると、体のほうが軽く前後に揺れだした。
「こっちのセリフだ!」
無駄な気がした。絶対聞こえていない。しかたない。しばらく待とう。
風が吹いた。サワサワと草が揺れる。少女の髪が流れる。帽子が飛ぶ。
「あ。」
白くてリボンのついた帽子はあっという間に白い点となった。呆然とそれを見送る僕と、ゆらゆらとしている少女。
きっと、気づかない。うん。
時には自分に言い聞かせることも必要だ。時としてそれは真実すら捻じ曲げる。
「んん、暑い・・・。」
還ってきたような声が聞こえた。
「お帰り。」
「あ、ただいま。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
なんだか奇妙な間がある。
これは少女が今を認識するための間なのか、僕にどのような仕返しをするか考えている間なのか。
僕には見当もつかない。
「ただいま。」
もう一度、そうつぶやいた。ということは、おそらく前者だ。よかった。
そんな思いもつかの間。
少女は自分の頭上に手をやった。何度か自分の黒い髪を撫でる。だんだんとその手の動きは速くなる。
現実を認識してきているようだ。きっと、逃げたほうがいい。
一歩踏み出した僕は、先ほど結ばれた草に見事に足を取られて、転んだ。そこまで計算されていたとは。
「ねえ。」
背中から冷たい声を感じる。それは「大丈夫?」などとはベクトルが180度違う重たさ。ははは。
「私の帽子は。」
「う゛っ。」
背中に乗られた。この体勢では闘争や逃走さえも難しい。
首筋に冷たく、柔らかい熱を持ったものがあてがわれた。つつと首筋を撫でる。
それはくすぐったいというよりも、はるかに、怖い!
「ねえ、帽子は。」
指先で頬をくすぐられる。妙な心地よさが逆に気持ち悪い。
「え、知らないよ。」
だめだ。「え」の声が上ずりすぎだ。ふふっ、と少女は笑った。
「そっかぁ、知らないんだぁ。」
頭の中で危険信号が鳴り響く。緊急警戒措置シークレットナンバー024。
『妙に甘ったるい声を出した少女には近づくことなし。接触の場合、すみやかに退避すること。』
無理・・・。
「へぇ〜。」
暑い。なんだかとっても暑い。背中と頭の中はこんなに涼しいのに。どうしてなのか。
照りつける白い光に頭は焼かれ、少女に乗られている腰には汗が浮かび、体の中心は暑い。
ろうそくって、最期の瞬間にひときわ燃え上がるんだっけ。。。
「暑いなぁ。」
「あっちに飛んでいったよ。探しに行こう。」
ひときわ、爽やかな声で返してみた。自分で思っただけであって、実際はアクセントが妙だったりもしたが。
「ほら、早く行かないと分からなくなるよ。」
ロボットなのは自分なのだろう。話し方のプログラムがおかしくなったに違いない。でなければ、こんなに話し
方が不自然なことの説明がつかない。
「ほら、だから早く上からどい、うぐっ!」
少女は何を思ったか僕の上に寝転んだらしい。
「空、白いね。」
なんてのんきな声が聞こえてくる。背中同士がくっついたために余計に暑い。
じりじりと照りつける白い光は、僕を黒くし、少女を白くしているかのよう。
ほんとうに、少女は暑いなんて思っているのだろうか。
汗ばむ背中の湿度が増すにしたがって、そんなことまで考え始めた。危険だ。
サラサラサラ。
風になびく草の音が聞こえる。それと自分の呼吸音。少女の心臓の音。ドキドキと少し早い。
自分の鼓動はなぜか聞こえない。はぁはぁという呼吸音と、暑さに頭がぼやけているせいだろう。
草と土の香りが鼻腔を刺激する。いつも嗅いでいるからこそ、気づかない匂い。
背中に感じる水分が多い。やはり少女も汗をかいている。
「なあ、探しにいこう。」
「まだ。」
なにがまだなのかは分からないが、動くつもりはないらしい。
それは、暑いのは暑いが時折ぬける風が気持ちよいからかもしれない。
「ねえ。」
それが自分を呼んでいるのだと気づくまでに少し時間がかかった。
「ねえ。」
だから、もう一度呼ばれた。それは分かっている。だが、頭がはっきりしない。
「ん゛ん゛。」
変な声が出てきた。しかし文句を言われる筋合いはない。この白い光の下にこれだけの間身動きできずさら
されて、さらに上に乗られているのだ。これでどうして爽やかに「なんだい?」とかえせよう。無理!
「ここって、ここなんだよね。」
さわさわと風にのって消えた声。なんで声ってこんなにはかないのだろう。
「そうだろな。」
こちらの声も同じ。はかない。消えていった。
「もしね。」
「うん。」
「変なこと言ってると思ったら言って。」
「うん。」
「なんかね、頭が痛いんだ。」
「・・・。」
「それで、息も苦しいの。」
「病気?」
「聞いて。こうやってる今もね、すごく胸が痛いの。でも、ぜんぜんつらくないの。」
「・・・・・・。」
変なことを言ってると思った。
「何でだと思う?」
「・・・・・・。」
だって。
「・・・ごめん、わかんないね。」
「いや。わかる。」
それは。
「僕も、最近同じこと感じる。」
僕だけの苦しみじゃないと分かったから。

「ない〜〜〜。」
少女の大きな声が緑色の草を揺らした。それはより一層僕の心をぐさりとえぐる。
僕と少女は帽子を探しにきていた。たぶんこっち。そう思いながら進むが帽子は一向に姿を現さない。
早く探しに行かなかったせいだと文句を言おうとも考えたが、もともと知らないふりをしたのはこちらなの
で、そんなことしようものならこっちの文句の何倍の勢いで責め句が返ってくるかわかったものじゃない。
何度も草の結び目を交わしつつ、進んでいく。少女は二度ほど躓いていた。
「あ〜あ、なくなっちゃった〜。」
大きなはしゃいだ声で叫んでいる。怒っていないとわかるのに、当事者だから悪気を感じずにはいられ
ない。なんとまあ良心的なことだろう。
悪質なのは、少女がそんな僕の気持ちを理解しつつわざと声に出しているということか。
「だから悪かったって言ってるだろう。」
「悪かったですんだらオニヤンマはいらないのだ。」
そんな風に返される。少女の考えがわからない。
一向に進む。
進み続ける。
視線の先に、白いものが映った。
それは緑色の草の中にぼんやりと白くあった。
少女は気づいていないのだろうか。少し、速度が落ちている。疲れたのだろう。
最初、僕の一歩手前を歩いていた白い少女は今、僕の隣を歩いていた。帽子がないからすこし印象が変
わっているがまぎれもなくいつもの少女だ。
「おい、あれ。」
すっと、道の先を手で指した。人差し指を向ける。少女は「え。」と目を細めた。
「あれかな。」
駆け出した。足元に気を使いながら。どうして今まで気がつかなかったのだろう。結び目は無数に散らばっ
ていた。
白い物体のある地点に到着するや否や、衝撃で固まってしまった。
少女はまだ来ていない。
下には確かに帽子があった。緑色の草の間にすっと収まっていた。それだけならよかった。しかしそこに
はそれだけではなかった。
そこには、少女がいた。
紛れもなく、今こちらに向かってきている少女がいた。
白く無機質なその体には、白いワンピース。長い黒い髪。帽子は一つ。
ゆったりと自然にその場に寝そべっていた。
頭を上げる。やはり、少女はこちらに向かってきている。
頭を下に向ける。やはり、少女はそこに寝そべっている。
二人の少女がそこにいる。少年と少女しかいないはずのここに、少女がもう一人いる。
「到着☆」
一人の少女が隣に並んだ。動揺とかそういったものは感じられない。なぜだろう。
黙って目を向けてみる。少女は少女を見下ろしていた。目には笑み。そして悲しみ。
「あったね、帽子。」
よかった、と言いながら、少女は帽子を拾い上げた。
片方の手でパンパンと払って、頭の上に乗せる。いつもの少女だった。
白い帽子をかぶり、白いワンピースを着た、黒くて長い髪を持つ少女。
目だけが少しいつもと違う、いつもと同じ、足元にいるのと同じ少女。
「・・・。」
言葉にしようと思って、止まった。何を言えというのだろう。足元の少女に気づいていないとでもいうのだ
ろうか。
この少女が見えているのは僕だけなのだろうか。
フフと、少女が笑った。
「なんか、すごく面白い顔してるよ、今。」
どうしてだか、どことなく影が差しているように感じられてならない。こんなにも白い少女なのに。
にっこりと目を見つめられた。
思わず、反射的に目をそらしてしまった。なんだか心臓の鼓動が速くなった気がする。
「これが何なのか気になってるんでしょ。」
「これ」といった少女の目の先には、草に横たわる少女の姿があった。間違いなく見えているらしい。
「あぁ。」
なんだか間の抜けた声がでてしまう。明らかに動揺しているのが分かる。きっとアメーバにだって分かる。
「これはね、私もよく分からないんだ。たまに落ちてる。今までに見たことない?」
「ないよ。」
「そう。」
少しつっけんどんな言い方になってしまったのが自分でも分かる。なんだか少女の態度が気に入らない
自分がいる。
少女は膝の裏に手を入れてしゃがみこんだ。抜いた手をそっと下の少女の頬に近づける。
「ほんと、よくできてる。」
お腹のあたりが一瞬カッと熱くなった。すぐに治まったけれど余熱はまだ残っている。導火線に火がつ
いたかもしれない。
「できてるって、なんだよ。」
少女は顔を上げた。何を言っているのか分からないといった表情。目を少し大きくして視線で「なに?」と
言っている。
「だから、ここに君と同じ格好をして君と同じ顔をした女の子が倒れているのに。それを、よくできていると
か。」
一気にまくし立てた。なんだか言葉が変な気もしたがそんなのは関係ない。思いは伝わるはずだ。
少女はびくっと体をすくませて縮こまった。当然だろう。少年にそんな風に怒鳴られたことなんていままで
なかったのだから。
肩が小刻みに揺れている。
こちらとしては謝る義理なんてない。なのに、なんでこんなに胸が痛いのだろうか。
「くっ・・・う・・・。」
小さなうめき声が聞こえる。それは足元の少女からもれている。足元にしゃがみこんでいる少女から。
「んふっ・・・くふ・・・。」
すごく胸が痛かった。のこぎりでできた切傷のようにズキズキと痛んだ。
でも。僕はおかしなことなんてしていない。人を「これ」と言う少女のほうがいけないのだ。
「ふははははははは。あはははははははは。」
そして大きな笑い声が草原に響き渡る。発信源はしゃがみこんでいる少女。
あはははははと笑いながら少女は仰向けに倒れた。手をお腹に当てて、海老のように腰を反ったり曲げたり。
とにかくおかしくて仕方がないらしい。笑い声はなかなか納まらない。
ぽかん、と、した。
呆気にとられている少年と、笑い転げる少女と、静かに横たわる少女。
明らかに異様な光景なはずだ。
少女の笑いが徐々に納まってきた。納まったというよりも、酸素が足りなくなったというほうが正しいような気
もするが。
肩がまだ小刻みに揺れている。本当に海岸に打ち上げられた海老のようだ。
相変わらずこちらは呆けたまま。
「・・・・・・。」
何かを言おうとして言葉にならなかったようだ。また「ははは。」と続く。
ここまでくるとさすがにこちらの頭にも血が通い始めた。どう考えてもおかしい。なぜこんなにも
笑われなくてはならないのだ。
どう考えてもおかしなことなど言っていない。確かに言葉はおかしかったかもしれないがここまで笑われる筋
合いはない。
「お」
「そっか、そうだね。」
勢いよく口から飛び出した言葉は、空気を伝わることなく大気に霧散した。代わりに少女の声が大気を震わす。
「そういえば私もそうだったよ。ははは。」
未だなお笑い続ける少女にこちらの混乱は増すばかりだ。もう、ここが地なのか天なのかすら分からなくなっ
てくる。
少女はこちらに手を向けた。パーの形にして手のひらをこちらに。少し待てということなのだろう。はぁはぁと呼
吸を整えている。
「あー、あー。」
二、三度声の調子を整えてから少女はニヤニヤとこちらを向いた。立ち上がって目線を近づける。やっと説明
してくれるようだ。
「君は、この子が私と同じ形をしていることに対して不思議に思っているんでしょう。」
「ああ。でも」
「でも。今言いたいのはそのことじゃなくて、私がこの子のことを『これ』とかいったのが気に入らないんでしょ
う。」
なんとなく恥ずかしかったけど
「あ、ああ。」
間違いではない。
「じゃあ、質問。これ、なぁんだ。」
少女は自分の頭の上から帽子を下ろした。こちらに向かって差し出してくる。
「帽子、だろ。」
「うん、正解。」
今度はニコニコと。こんなにも表情が豊かな子だったのかと少し思う。
「別に怒ったりしないでしょ。」
何が言いたいのか分からなかった。何に対して怒ったりないかと聞いているのだろうか。
「だから、いったいなんなんだ。何の関係があるんだよ。」
やっぱり、言葉がきつい。少女に馬鹿にされているような、からかわれているような感覚にいらだっている。
「ああ、ああ、ごめんごめん。怒らないで。・・・ん〜、つまりね。ものに対してこれって言っても怒らないでしょ
う、ってこと。」
「ものに対して?」
「そう。帽子のことをこれって言っても怒らなかったでしょう。」
「ああ、そうだな。」
「じゃあ。」
少女は再びしゃがみこんだ。膝の後ろからよいしょと手を抜いて、マネキンのように動かない少女を指差す。
「これは。」
その時になって、やっと少女の伝えたいことが分かり始めた。今度は燃え盛るものを抱えることもない。
「わかる?だれじゃなくて、これだよ。」
少女の指が仰向けに横たわる少女の頬をクッと押す。えくぼのように少しくぼんだ。
僕も、しゃがみこんだ。仰向けの少女の手をとる。
冷たい。
腕を持ち上げる。
均一な重さ。
横から少女の視線を感じる。
腕を握る手に力をこめる。
骨とは異質の感覚。
そっと手を下ろす。
ぴくりともしない少女。
「わかったかな。」
少女はゆっくりと立ち上がった。帽子を頭に乗せて、ちょこちょこと位置を調節する。
そして納得したのか小さく「うん。」と頷くと今度はこちらを見下ろす。
「これは私じゃないし人でもないよ。お人形。」

白い空を眺めていた。
眩しすぎるその白さに、眺めるという表現はそぐわないかもしれない。
しかし、気持ちでは眺めていた。
少女と人形。
同じつくりをした少女と人形。
帽子だけ一つの、少女と、人形。
これに何か意味はあるのだろうか。僕と同じ人形もあるのだろうか。
ここはどこなのだろうか。
ここはここだけど、ここではないここはあるのだろうか。
ここにここでこことこことしてここはここがここここここここここここここここここここここここここここ。
―――やめよう。頭が痛くなる。
目を閉じた。

ふと気づいたら、辺りは優しく黒ずんでいた。となりには少女がいた。
夕凪が好きなのに、感じられなかったのが少し残念だ。
風がでていた。太陽の出ていたときとはまた違う風。緑色の草々を荒々しく撫でていく風とは違う、心を
包み込むような優しい風。風は今、少女を優しく包んでいる。
少女は座っていた。膝を曲げて腕に抱え、あごを膝の上に乗せている。強い風の中で柔らかなワンピー
スはヒラヒラとなびいていた。帽子は腕の中に抱えられている。
仄かな闇の中で、少女の瞳はぼんやりと前方にむかっている。
なんだかすごくはかないと思った。
こちらの視線に気がついたのか、少女はふと首を回した。右に38度。眼球を右に52度。下に41度。
目が合った。
その吸い込まれそうな瞳に向かって
「おはよう。」
といった。
「おはよう。」
と返ってきた。
そしてまた少女は視線を持ち上げた。ぼんやりと、前を見ている。
じっと見つめたが今度は視線が交わされることはなかった。心の中で小さなため息をつきながら再び目
を閉じる。
真っ暗な世界。
日中はあんなにも白い世界が、今はこんなにも黒い。
しかし、相変わらず少女は白いままだった。
日の力のすごさを思い知らされる。そして、少女のすごさを思い知らされる。
なぜか、そんなことを考えた瞬間、胸がズキンと痛んだ。トクトクと音が聞こえる。少し病気かもしれない。
ビュンと風が走った。
「んっ。」
少女のワンピースが一際ひらめいた。少女の闇よりも黒い長い髪がパサパサと流れた。
大気中に生まれた波に、僕は完全に飲み込まれた。
体温がぐんぐん上がっていって、心臓が一層ドクドクと悲鳴を上げる。顔が燃え、胃が縮む。少女の漏らし
た小さな声が耳についてはなれない。
風はやんでも、心の大波は引くことはない。
ふと向けた目がいけなかった。空を見ていればよかったのだ。なのに、僕は少女の顔を盗み見てしまっ
た。視線を送ると同時に、少女もまたこちらに視線を送った。なんていうタイミングだろう。同時に向けた
瞳は、お互いにお互いの瞳を映すこととなった。どちらかが多少遅かれ早かれすれば、なんとなくそら
すこともできただろう。しかし、同時に向けて同時にぶつかった瞳をそらすことはできなかった。
風がやんだ。
草の音がやんだ。
心臓の鼓動もとまった。
体の熱もなくなった。
ただ、少女がいた。
僕の中は少女になった。
わからない。なんだか全然分からない。
そこには、引力が生まれた。引き合う力、引力。
少女の体が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。視線の糸が二人をつないでいた。少女はその糸を巻き取
るように綺麗な軌跡をえがきながらゆっくりと僕に近づいてきた。
今度は重力までもが生まれた。まぶたが重い。目を開けていられない。
それは少女も同じようだ。徐々にまぶたが閉じられていく。でも決して糸が切れることはない。糸は、しっ
かりと繋がっている。
少女の顔が真上に来た。長い髪がはらはらと流れ落ち、僕の頬をくすぐる。小さな呼吸が聞こえる。少女
の呼吸もなんだか速い気がする。
ゆっくりと、吸い込む空気に少女の吐きだす息の量が混じっていく。ちょこっと温かくて、ちょこっと湿っぽい。
その割合はどんどん増えていく。
そして、呼吸が、止まった。
合わさった唇は、なんだか乾いた練り物のよう。
カサカサしていて、それでいていくらかの弾力をはらんでいる。
なんてことはない。ただ唇が合わさっているだけのことだ。なんてことはない。
温かさも、気持ちよさも、うれしさも、悲しさも、怒りも、感動もない。
ただ妙に冷めた自分がいるなと感じた。
冷めているのではないのかもしれない。ただこの状況についていけていないだけなのかもしれない。
思考がまわる。ぐるぐる回る。
ああ
これは
冷めているんじゃなくて
混乱しているんだ。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
ふと、唇が空気を感じた。実はぬくもりを感じていたようだ。大気にされされた赤い表皮がふっと冷える。
今度は重力が反転した。閉じたのと同じくらいゆっくりとまぶたが持ち上がる。
開いた瞳に映ったのは、仄暗い少女の顔だった。流れ落ちた髪の毛が、外の景色を僕の視界から隠す。
髪の毛に閉ざされた空間の中には、僕と少女の顔だけ。
上から見下ろす少女の顔と、下から見上げる僕の顔。
少女の目は、なんだかとっても脆かった。はかなかった。弱かった。
じっと、僕の目を見つめている。じっと。瞳を震わせて、すがるように、何かを待つように、ただじっと。
何でそんなに泣きそうなの。
思った。けれど、僕の表情はただ混乱の真っ只中にいる人のそれ。困るでもなく、弱るでもなく、喜ぶでも
なく。間違いなくアホ面だ。
ふと、少女の瞳が消えた。呪縛から放たれたかのように、肩から力が抜けるのが分かった。
少女は目を開いた。
口をゆがめて、目を細めて、笑った。
唇を噛み締めて、優しく細めた目で、笑った。
そして、今度こそ本当に少女の姿が消えた。
しばらくの間、空を見ていた。
闇の中で静かにこちらを見下ろしてくる空を、羨ましく、憎らしく感じたのはなぜだろう。
体を起こした。
見回したが、やはり少女の姿はどこにもなかった。
立ち上がってこちらに背を向ける瞬間に散った光の玉が何だったのか、今なら分かる。
頭の中を駆け巡っていた小さな妖精たちはどこかへ去っていったようだから。
ぐっと、背筋を伸ばした。両手を上げ、空に向かってこぶしを突き出す。そのまま後ろに倒れこんだ。
「はぁ。」
息がこぼれた。やっと、周りの様子に気がまわりだした。
風はいつの間にか穏やかに吹いていた。
ぐるぐると今度は体を転がす。
横にコロコロと転がっていく。
コロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロ。
どかっと、何かにぶつかった。
それはあの少女の姿をした人形だった。

目が覚めた。
目を覚まされたといったほうが正しいのかもしれない。
白い空が、眠りから僕の意識を引きずり出した。
隣を見た。
少女が寝ていた。
ああ、あのあとそのまま眠ってしまったのか。
ぶつかった少女の姿をした人形の顔を眺めていたのまでは覚えている。でも、それからの記憶がない。
帽子をお腹に乗せた少女の頬を指でつついてみる。
フニ。
えくぼのように少しくぼんで、弾力を持って指を押し返してくる。
それは人形のものではなかった。
「あれ?」
確か、えくぼのようにくぼんだ頬は指を離すと元には戻るが、弾力を持って指を押し返してくることなんか
はなかったはずだ。僕が寝ぼけているだけなのだろうか。
腕を持ち上げてみる。ほんのりと温かい。そして、不均等な重さ。骨の硬さ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
思考が、止まる。そして、はいはいで動き出す。
これは、少女。人形の少女のはず。だって、草の上に仰向けに寝ていた。
思考が歩き出す。
でも、少女が草の上に仰向けに寝ていたら、それは人形の少女なのだろうか。そう決めるのは、早計?
思考が走り出す。
とすると、これはいつもの少女で、夜に人形だと思っていた少女も実は人形ではなくて。
思考が音速を超える。
人形だと思っていた少女の顔を眺めて、その後、僕がしたことは―――
「んむにゅ。」
光速で後ずさった。少女がムニャムニャと口を動かしている。心臓が爆発しそうだ。もちろん僕の。
少女の意識が覚醒の兆しを見せている。「んんん。」といいながら腹上の帽子を顔の上にもっていく。
ごぞごぞと動いている。あとは起き上がるだけだろう。
夜、少女の人形にぶつかって、直前の唇の感覚を思い出して、少女はどんな気持ちだったのかなと
思って、上から人形の顔を見下ろして、ゆっくりと顔を近づけて、、、、、、。
全身が熱くなって冷たくなった。汗が二倍噴出した。
どうするべきだろう。このままここにいるべきだろうか。それとも逃げ出すべきだろうか。

1.ここにいる
「やあ、おはよう。」
「夜、なんかしてたね。」
「え、なんのこと。」
「へえ、何もしてないって言うんだ。○○○×××△△△なんて君にはなんてことないことんだ。」

2.逃げる
逃げ切れないままに、少女起床。
「なに逃げてんのかな。」
全力疾走。そのうち倒れる。気づけば隣に少女。
「死ぬかな?」

どちらも嫌だがまだ1の方がましな気がする。
ふと視線を向けると、座り込んだ少女の視線とドッキングした。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
前者、少女の沈黙。後者、僕の沈黙。
前者、寝ぼけた状態の沈黙。後者、状況にまかすしかないとあきらめつつも逃げだしたい沈黙。
もう一度「んむにゅ」と言って目をこすった後、少女はしっかりと座りなおした。
「おはようございます。」
「・・・・・・おはよう。」
少女はキョロキョロと周りを見回すと、立ち上がった。服についた草を払い、帽子を頭に乗せる。「う
ん。」といって帽子から手を離した。
「おはよう。もう、日でてるんだ。暑いね。」
涼しげにくるりとまわる。スカートと帽子のリボンと黒い髪がなびいた。
「・・・・・・。」
今度はグーッとのびをして「なに?」といった。
「え?」
「なに?さっきからボーっと私の顔なんて見つめて。あ、目やにかなんかついてる!?」
慌ててごしごしとこする。
「これでどう。」
こすったために目の周りを少し赤くして、少女はこちらを振り返った。
なんてことはない。いつもの少女だ。
瞬間。顔の温度が一気に上がった。それはもう、自分では「ボッ」という音が聞こえるくらいに。
「おかしくないかな。」なんて声にこたえる余裕なんてまったくなかった。僕は僕の心の整理でいっ
ぱいいっぱいだ。
「ねえおかしくない?」と顔を近づけられたときには、思わず飛び上がった。
「い、いや、大丈夫。おはよう。」
「そう。ならいいけど。おはよう。」
バクバクとする心臓を押さえつけながら立ち上がる。やけに暑い朝だ。

「いたっ!」
少女が顔から地面に向けてダイブした。足元には結ばれた草。
手を突いて起き上がった。膝が赤黒く染まっている。
「ああ、なにやってんだよ。」
かがんで膝を見ながら口にする。すこしすりむいたようだ。
「まったく、誰よここにこんな罠張ったの。」
「間違いなくお前だろう。」
少女は両手で軽く膝をはらった。土や草がポロポロとおちる。
口の端をすこし歪ませているから、やはりすりむいているのだろう。
最後に両手をパンパンとはらって帽子を軽く直した。
そしてひょこひょこと歩き出す。そろりそろりひょこひょこひょこ。
しかし摺り足で歩くものだから。
「うわっと。」
再び草に足をとられて転びそうになる。
「・・・・・・。」
「・・・・・・無言で見つめるの禁止。」
「・・・・・・あ。・・・・・・あ。」
「・・・・・・馬鹿にしてるでしょう。」
ともいえ、このような状態で放っておくわけにも行かない。なにせ仕返しが怖いから。
「とりあえず泉までいくか?」
「そのつもりだよ。私は。」
少女はまた立ち上がるとひょこひょこと歩き出した。今度は地面を見ながら慎重に。
カメと競歩の勝負をしても負けるんじゃないかという速さで少女は進んでいく。
ふと、考えが頭を掠めた。
夜までなら気軽に口にできたそれも、今はなんだか言いにくい。
もどかしい。心の中のもやもやがもどかしい。
「おい。」
けれど結局声をかけている自分がいた。
「ん、なに?」
まだ大して進んでもいない少女がこちらを振り向く。
「歩きにくそうだな。」
「まあね。大変よ、まったく。」
遠まわしな言い方は少女には無意味のようだ。また進行方向を向いてしまう。
「いつまでかかるだろうな。」
「さあね、そのうち着くでしょう。」
少女は振り返り、振り返る。
「膝、大丈夫か。」
「うん、平気。」
振り返り振り返る。
頭だけくるくると動かす動かす機械人形のような少女に向かって、すこしぶっきらぼうに切り出す。
「連れて行ってやるよ。」
「いいよ、場所分かるから。」
あっさりと拒否された。というより、絶対に主旨を理解していない響きがある。
「だから、連れて行ってやるっていうのは。」
カクカクと少女に歩み寄った。少女の正面に回り、しゃがみこむ。
首をクルリと向ける。
少女のいぶかしむ視線とぶつかった。
「ほら、おぶってやるから乗りなよ。」
言って、顔の温度の上昇を感じると同時に、目をはずした。
沈黙が背中にのしかかる。
じっと、背を見つめられている。心臓のドキドキは激しくなるばかりだ。
「うん、ありがと。」
実際はたいした時間ではなかったらしい。少女はためらいもなく背にもたれかかってきた。
背中にぐっと圧力がかかる。暑い。
「よし、じゃあいくぞ。しっかりつかまってな。」
「うん。ありがと。」
耳元でささやかれる声は反則だって、初めて気づいた。

そこに、在った。
泉が大きくなるにしたがってそれも大きくなる。
最初は気付かなかった。
気付かないふりをしていた。
でも、やはりそれはそこに在った。
「・・・・・・。」
人形。
少女の姿をした、帽子のない人形。
背中の少女は何も言わない。泉に着いたことさえ、何も言わない。
泉の周りには木々が点在している。
その中のひとつに少女の人形は寄りかかっていた。
座って、そよぐ風にさらされている。
緑の泉面に映るのは、白い空ではなく青い空。
風が柔らかい。
「おろして。ありがとう。」
耳元での声は反則なんかではなかった。
ただ悲しい声だった。
何も言わないまま少女をおろす。
少女もそれ以上何も言わずに地面に降り立った。
泉へと歩み寄る。
屈みこんで水を掬った。両の手からサラサラと水がこぼれる。
手に残った水を膝に振り掛けた。
パシャ。パシャッ。
冷たい音が響く。
少女は何度か繰り返し、ゆっくりと立ち上がった。
そして。ニコリと、笑った。
「ありがとう。」
そして少女はゆっくりと人形へと近づいていった。
僕は、動けなかった。
少女はゆっくりと人形に近づくと、しゃがみこんだ。
手は、膝の後ろには入れられていなかった。
少女の目はまっすぐに人形を見ている。じっと。
瞳がすごく不思議だ。ここからでは何も見えないのに、分かる。様々な表情が見える。
そこには言葉では表し尽くせないくらいの多くの顔が浮かんでいた。
怒り、疑問、恐怖、悲しみ、後悔、悔恨、怨恨、羨望。
その一つ一つがすべて人形に向けられていた。
じっと、そこだけ空間が止まる。風だけが流れる時間を教えてくれる。汗の感覚なんてもうなかった。
「・・・ね。」
風にのって、少女の声が聞こえた。たった一言だけ。
また風の音が場の主役となった。
少女は立ち上がった。人形はそのまま。いや、少女自体も何も変わってなどいない。
なのに、なにかが、違った。
「ねえ。」
「ん。」
自分でも驚くほどの速さで少女の言葉に反応した。0.1秒。もっと早いかもしれない。
「今日の私って、前の日の私と違うかな。」
意味が分からなかった。少女は少女だ。
「君は、君だよ。」
「そっか。」
沈黙が。沈黙が。沈黙が。重たい・・・。
目を軽く伏せた少女。
手が、帽子へとかかった。
「・・・・・・。」
帽子を取った。黒髪の少女が目の前にいる。背景の人形と同じ少女。
「私かな。」
なにいってるのかわからないよなんなんだいったいどうしたんだよだいじょうぶかあつさにやられたか。
「私、かな。」
少女はくるりと泉を振り返った。人形を目に留め、歩き出した。そっと、人形の横に並んで座る。
ふわりとなびいたスカートを整え、人形に寄り添う。
帽子は、二人の真ん中に置かれた。
帽子を中心としたシンメトリーが完成した。
少し歪んだシンメトリー。でも、自然の中では生まれるはずがないほど精巧なシンメトリー。
「私かな。」
耳を疑った。声が、重なって聞こえた気がした。二つ。二つの声。
泉の水面が穏やかに波紋をたてる。サワサワサワサワ。綺麗な波紋だ。
少女が立ち上がった。人形はそのまま。
「好きって、言うんだよ。」
す、き。
「この気持ち。」
す、き。
「この変な気持ち。」
す、き。
「このいやな気持ち。」
す、き。
「この素敵な気持ち。」
す、き。
「この苦しい気持ち。」
す、き。
「この不思議な気持ち。」
す、き。
「この温かい気持ち。」
す、き。
「この病気な気持ち。」
す、き。
「この胸が痛む気持ち。」
す、き。
「この悔しい気持ち。」
す、き。
「この痛い気持ち。」
す、き。
「この心地よい気持ち。」
す、き。
「このもどかしい気持ち。」
す、き。
「この遣る瀬無い気持ち。」
す、き。
「この目を合わせたくない気持ち。」
す、き。
「この抱きしめたい気持ち。」
す、き。
「この邪魔をしたい気持ち。」
す、き。
「この壊れそうな気持ち。」
す、き。
「この楽な気持ち。」
す、き。
「この不気味な気持ち。」
す、き。
「この支配したい気持ち。」
す、き。
「この満足な気持ち。」
す、き。
「この不満がいっぱいな気持ち。」
す、き。
「このめちゃくちゃにしたい気持ち。」
す、き。
「この、この、この、気持ち。」
す・・・き・・・。
「この熱い気持ち。」
「この心が引き裂かれそうな気持ち。」
「この頭が割れそうな気持ち。」
「この自分が許せない気持ち。」
「このいらいらな気持ち。」
「この幸せな気持ち。」
「この、気持ち。」
頭の中が空っぽになったようだった。空っぽな頭の中のイメージ。
それはどこかのサイバー空間のよう。
でも、僕がわかる。そこにいる僕が分かる。ここではないここにいるのが分かる。
少女の声が僕をここから遠ざけて、少女の声が僕がここにいると教えてくれる。
ぼんやりと白い光を見ていた。
肉体への衝撃で、ここを取り戻した。
気付くと僕は少女の腕の中にいた。少女のほうが僕よりも小さいのに、なぜだか少女の腕の中に
いた。
自然と手を回した。少女の背に手を這わせた。
くっと、力をこめる。細くて柔らかい少女の体を感じる。
首筋を何かが駆け上がった。ゾクリと体の芯が震えた。頭の中が暑さでぐちゃぐちゃになってくる。
手に力をこめる。「んっ。」と耳元で声が上がる。再び訂正。耳元での声は反則だ。
頭の中がおかしい。
唇を首筋に近づ―――
「だめ。」
少女の体が僕から離れた。
それは、絶望だった。
「私じゃないから。」
それが、希望だった。
「?」という表情を浮かべる。
興奮はおさまってはいない。
少女は再びかがみこんだ。人形の顔に触れる。さらりと頬を撫で、自分の手にあった帽子をかぶせた。
そこに、少女がいた。
帽子をかぶった少女が、やはり少女だった。
帽子をかぶっていない少女が人形だった。
帽子をかぶっていない、人形のはずの少女がこちらを見上げた。
「この子。」
僕は、帽子をかぶった少女のはずの人形を見た。
そこにいるのは紛れもなく、僕の知っている少女だった。
夜の口付けをかわした少女だった。
なぜだろう。少女はこの人形じゃないはずなのに。
「つまりね。」
少女の声がはかない。
「こんなことなんだよ。うん。説明なんてできない。ただ、こういうことなんだ。」
正直言って、分からなかった。少女が何を言っているのか。少女が何を言いたいのか。
説明してほしかった。僕には何も分からない。
少女に伝わったのだろうか。少女は口を開ける。
「私もこの子も私なの。だけど私じゃない。今は私。暗い夜が明けるとこの子。また夜が明けると私。」
だから、わからない。
「夜が明けるとなのか、白い日差しに当たるとなのかは分からない。でも、こうして順番。」
順番。
「順番に順番に。でもね。この子ががんばったから。勇気を出したから。たぶん、もうだめなんだと思う。」
勇気。だめ。
「たぶん、今私が動いてるのがおかしなことなんだよ。なにがおかしかったんだろうね。帽子が飛んできたせ
いかな。」
理解できそうで、分からない。
「あ〜あ、ちょっと残念。嘘。すごく悔しい。でも、私には勇気がなかったから。」
少女はその後も言葉を紡ぎ続けた。
消えるだとか。悔しいだとか。仕方がないだとか。
そんな言葉の片々だけが記憶に残る。
少女は僕のために言葉を紡いでいるのではない。
少女は、なにか、最期のように、言葉を吐き出しているのだ。
「・・・・・・。うん。・・・ごめんね。わかんなくて。でも、いいんだよ。わかんなくても。ただ感じてくれれば。
理解する必要なんてないんだ。気持ちを感じてくれれば。こんな気持ち、わかってほしくなんかないから
ね。ばれたら、それこそ死んじゃう。」
あははと、本当にはかなく、笑った、人形。
「空、真っ白で眩しいね。」
少女が上を向いた。つられて、上を向く。
相変わらず、白い空が僕らを見下ろしていた。
眩しい。目を閉じた。
真っ赤な世界がまぶたの裏に繰り広げられる。
赤い。赤くて、黒い。
・・・黒い。
・・・・・・黒い?
・・・・・・・・・黒い・・・・・・・・・。
目を開けた。
空には泉があった。
空一面に広がる、泉。
泉の青色。
あおいそら。
あおい空
青い空。



ふと、正面を向いた。
そこには、少女がいた。
少女が木に寄り添って眠っていた。
白い大きな麦藁帽子のような形の帽子をかぶり、真っ白なワンピースを着ている。
黒くて長い髪と大きな二つの目がある以外は、どこまでも透き通った少女。
そんな真っ白なイメージの少女が木に寄り添って眠っている。
そして、人形。
少女と同じ姿をした、けれども帽子をかぶっていない人形。
それが地面に横たわっていた。
地にかがみこんだ。
人形の手をとる。
冷たくて、均一な重さをした、人形の手だった。
「ん。」
隣で声が聞こえた。顔を上げる。少女の頭も持ち上がったところだった。
同時に目があった。
恐ろしいまでのタイミング。コンマ1秒ずれていないタイミング。
どちらも目を逸らせはしない。それには、少女の目がまだ少し夢見心地だという理由もあるのだが。
少女の瞳に光が宿った。瞳に僕の姿が映る。
「おはよう。」
声をかけた。優しい声が出た。こんな頭の中がゴチャゴチャで綺麗な時に、人間は優しい声を出せる
のだと知った。
少女はあたりを軽く見回して、再び僕の顔を見た。
そして笑顔で。
「おはよう。」
と言った。