「本日はカップルデーでして、カップルの場合は割引になります」
「この券使うよりも安くなるのか」
「いえ、こちらの券の場合は併用が可能でして・・・」
ずらりと並んだ行列には目を丸くしたが、いざ並んでみると意外と早く売り場にたどり着けた。
前の親子連れは「大人2枚」と言って赤ん坊を連れだち中へと入っていった。
赤ん坊は朝早く起こされたのか、ぐっすりと眠っていた。
ベビーカーの中は暑くはないのだろうか。
記憶をたどる。
しかしそんな頃の記憶などあるはずもない。
そもそも俺はベビーカーに乗せられていたのだろうか。
「じゃあそれで」
「はい。それでは1000円となります」
「まとめてで」
「お二人分でよろしいでしょうか?かしこまりました」
こういう場合はまとめて払うに限る。
下手にバラバラに払おうものなら、後列からどんな非難の眼差しを受けることか。
そもそもなんでこんなに混んでいるのだろう。
こんな古びた水族館にここまで人が押し寄せる理由がわからない。
今日だけたまたまなのだろうか。
チケットを受け取り、奥へと進む。横に並ぶ足音。
石畳を少し進むと、大きな入り口が俺達を迎えた。
家族連れ、カップル、友人。
カップルの割合が多いのはカップルデーとやらのせいか。
多くの人々が入り口に飲み込まれていく。
俺達も、そんな人々の群れに続いた。

コツコツと固い床を踏む音が、館内にこだまする。
最初の水槽が見えてきた。
いや、水槽というよりは大きなガラス面。
ガラス面の向こうは屋外になっていて、そこに。
「ワニね」
「ワニだな」
ワニは水の中で目だけを出していた。
ふん、涼しそうな顔をしてるがこっちは冷房完備の屋内だ。
だがどうにもワニの目がこちらを嘲笑っているようにしか見えない。
こんな目をどこかで・・・。
一つの考えが浮かび、隣に並ぶ少女を見つめる。
大してワニには興味がないらしい少女は、次の水槽に目を向けていた。
視線の先には小さな壁にはめ込まれた水槽。
中になにが泳いでいるか、ここからは見えない。
「なあ」
ん?といった具合にこちらを見上げてくる。
その目をじっと見つめる。
その紫掛かった瞳に、自分の姿がほんのりと映る。
暗い館内だが、大きなガラス面のおかげでここは比較的明るいのだ。
「なによ、じっと見つめて。気持ち悪い」
フイと視線をそらされる。
そして思う。
この瞳に間違いない。
「このワニの目、絶対お前に似てるよな」
言わなければよかったと思うがもう遅い。
世の中、後悔ばかりだ。
「どこが似てるのよ」
「そのなんか人を嘲笑うかのようなところとかさ」
こうなったら突き進むのが男の道だ。
「ふ〜〜〜ん」
そのまま先へと歩き出した。
「おい、なんか言えよ。怖いだろ」
「べっつに〜。なんとも思わないし」
怒っているオーラが見えない分、相手の考えがつかめない分、恐ろしい。
「うわ、ちっさ。見えないってこれ。」
小さな水槽を見つめながらなにやらブツブツと言っている。
水槽の上には3種類の魚の名前が、写真と説明文つきで貼られていた。


「なんで」
「だから割引券があるから」
「いや、だからなんで」
「行きたいから」
「一人で行けよ」
「そんな寂しいことしたくないわよ」
「じゃあ行くなよ」
「だから行きたいの」
「僕すごく暇だよ」
「うるさい。友達みんな予定が詰まってるのよ」
「・・・・・・(泣」
「でもだからって俺か?」
「まあ、どうしてもダメだって言うならボタンと一緒に行くけどね」
「プピ」
「どうしてお前がここにいる」
「プピピ」
「それで、どうなの」
「あ〜?今週の日曜だっけか。わかったよ」
「え、いいの?」
「いいよ、どうせ暇だしな」
「じゃあ水族館で9時半に待ち合わせね」
「おう」
「どうせ杏となんて行ってもいじめられるだけで楽しくなんかないしね」
「あ、やっぱ一緒にいく?」
「遠慮します」
「お前ヘタレな」


杏の後を付いていく。
付いていきながら思う。
今度は風子と一緒にこよう。
「聞いてる?」
「聞いてない」
「・・・・・・」
すごく微妙な顔をされた。
「悪い悪い、なんだっけ」
「別に」
スタスタと先へ進んでいく。
慌てて追いかけて横に並ぶ。
「なぁ、なんかお前今日ちょっとおかしくないか」
「そう?」
「いつもならさっきので鉄拳だろう」
「ほしいの?」
「そうじゃないけど」
「わ、でっかい水槽」
杏がハタハタと駆けていく。
子供か。
今度はノンビリと追いかける。
「何もいないな」
「いるわよ。ほらあそことか」
杏の指の先を見つめるが、そこには水槽の底に敷き詰められた砂しか見えない。
「そもそもここ何がいるんだ」
「鰈」
杏の指差した先の砂が不自然に舞い上がった。
確かによく見るとなにかがいる。
「あんなんで隠れたつもりなのかしら」
「俺はわかんなかった」
「あたしは一発で見破った」
「そりゃ杏がすごいんだよ」
「どーも」
それで興味を失ったのか、杏は次の水槽へと噛り付きにいった。

いくつもの水槽を見て回った。
変な形の魚から食卓にのぼるであろう魚まで、様々な種類の魚類たちがうごめいていた。
「エイってこう下からみると顔みたいに見えない?」
「ん?あ〜確かに。あれが目か」
「そうそう」

「うわ、ヒトデ」
「おお。・・・風子がみたらきっとまた旅立つな」
「確かに。風子ならなるわね。・・・しかしこう一面ヒトデって気持ち悪いわね」
「そうだな」

「これあんたそっくりじゃない」
「ん・・・おい」
「この死んだような目が似てるわ」

杏は始終はしゃぎ続けていた。

そこには人が集まっていた。
入り口に並んでいた人間が全て集まっているのではないかというような盛況ぶり。
オークション会場だといわれればそうだし、緊急避難時の階段だといえばそれも当たり。
そんな人の群れ。
「なあ、なんでこんなに集まってるんだよ」
「ショーに決まってるでしょう」
「ショー?」
「ショー。なに、朋也あんたもしかして知らずに来たの?」
「俺は杏に無理やり連れてこられただけだ」
「うわー。じゃないとこんなに人がいるわけないでしょ。少しぐらい考えなさいよ」
グダグダと言っている間も、人のうねりに押し進められる。
やがて俺達は詰められた席に並んで座った。
目の前には大きな円形のプール。
そこには背びれを水面に覗かせた大きな動物が、悠々と人魚のように泳いでいた。
隣に座る杏に小声で訪ねる。
「イルカか」
「そう。あ、ちょっとジャンプした」
ザップーンという水のはねる音がする。
「へぇ、この町の水族館にイルカなんていたんだな」
「違う違う。このイルカ達はね、ご出張」
「ご出張?」
「そうそう。遠くの水族館から期間限定でこの町に来てるのよ。このステージもそう」
「なるほどな。しかし、すごいな」
キィィとイルカの声が上がった。



「もしもし」
「ちっす、岡崎っす」
「おお、風子か。少し待て」
受話器の向こう側から祐介さんの声が仄かに聞こえる。
ドキドキと胸の興奮が収まらない。
『じゃぶじゃぶばしゃん』と題されたイルカショー。
明らかに小さな子供を狙って付けられた題名だが、そのイルカとアシカの見事な演技には心を奪われた。
これはぜひ風子と見に行かねばなるまい。
期限は残り一週間。
彼らが帰る前になんとしてでも風子を連れて行かねば。
しばらくして、また受話器から声が聞こえた。
「悪いな。今風呂に入ってるらしい。出たらまた掛けるように言っておこう」
「うっす。じゃあ頼みます」
「おう、じゃあな」
ガチャリと電話の切れる音。
受話器を置くと共に再びけたたましくベルが鳴り響く。
慌ててもう一度受話器をつかむ。
「はい、もしもし」
「あ。朋也?」
「なんだ杏か」
「あたしじゃ不満だっていうの」
「今電話待ってんだ。切るぞ」
「あ、風子だ」
「うっせぇ」
「あ、待って待って。すぐ切るから」
「ったく、なんだよ」
「うん。今日はありがとね」
「別にいいよ。意外と面白かったしな」
「でしょう。あたしに感謝しなさいよ」
ふとワニが浮かんだ。
「来週風子といってくるよ」
「ふ〜ん。熱い熱い」
「おお、熱いぞ」
「・・・ま、それだけ言いたかっただけだから」
「おう」
「じゃあね」
「じゃあな」
カチャリと受話器を置いた。
再び鳴る電話。
こうもタイミングがいいことに失笑。
受話器を取り上げた。
「朋也さんですかっ」
「おお、風子。風呂上がったか」
「はい、ふう、あ、おねぇちゃん、何するんですか」
ガタガタと耳へ騒音が飛び込んでくる。
「岡崎さん、こんばんは」
「あ、公子さん。どもっす」
「ちょっと待っててください。この子ったら、パジャマもろくに着ずに飛び出してくるんだか、あ、祐くん、今こっち来ちゃだめ」
風子の!風呂上り姿(パジャマ無し)!
心拍数が跳ね上がる。
ライブドアショックの折れ線グラフの上下反転。
「ん〜〜〜、おねぇちゃん乱暴すぎです。きっと風子獅子戦吼でふっとばされます」
「なにわけのわかんないこと言ってるの。おねぇちゃん泣いちゃうよ」
「泣き落としなんて卑怯です!」
受話器から流れてくる声に妄想を膨らませる。
ああ、これが、風子の、逝く感覚、か。
変なところで風子と同じ(?)体験が出来た。
「はい、お待たせしましたっ。風子になにか用事ですか?」
「あいや」
急速に現実に引き戻され、謎の声が漏れる。
「風子、朋也さんが電話くれてうれしいです」
「おお、俺も風子の声が聞けてうれ・・・風子、来週の日曜暇か?」
物凄く恥ずかしいセリフを言いかけた気がして、慌てて話題を逸らした。
「よかったら水族館に行かないか」
「いっしょに帰って噂とかされると恥ずかしいし・・・」
「・・・」
「は、風子、今なにかにとり憑かれてました」
風子・・・。風子アフター3あたりから怪しいとは思っていたが。
祐介さんの影響だろうか。それもそれでいやだが。
「部屋のヒトデと戯れる以外の予定はありません」
「風子を連れて行ってやりたいところがあってな」
会話をこちらのペースへと戻す。
このままでは風子の部屋のヒトデたちと戯れる休日になってしまう。
「どこですか」
「どこだと思う」
「ヒトデ王国ですか?」
「むしろ俺を連れて行ってくれ」
「分かりました。じゃあ日曜日にヒトデ王国前で」
「いや、だから俺場所知らないから」
「風子も知りません」
風子話していると飽きない。
杏あたりに言うとまた何か言われそうだが。
「水族館だよ」
「水族館ですか」
「そう、ヒトデもいるぜ」
「わぁ、ほんとですか、朋也さんっ!」
受話器の向こうで頬を赤く高揚させ、目を爛々と輝かせているだろう風子が脳裏に浮かぶ。
「おう、もう視界全てがヒトデだ」
「風子、今からでも行きます」
ふと疑問。
「あれ?風子、お前水族館行ったことないのか?」
「はい。風子がちっちゃかった頃行った記憶もそこはかとなくなきにしもあらずですが」
「なら目一杯楽しめそうだな」
「はいっ!」
ああ、きっと風子は今頃旅立っているに違いない。
悪戯がしたい!・・・今の俺にならできる!
悪戯をしますか?
→はい
いいえ
「やい風子」
「・・・は!朋也さん呼びましたか?」
「朋也?誰だそいつは」
「朋也さんじゃないですか?」
「ワシはヒトデ王国兵隊長直属の部下、スタフィーじゃ」
「朋也さんじゃなくなってます!朋也さんはどこに行ったんですか」
「食べた」
「食べたんですか!?」
「ところてんみたいにした」
「ああ、朋也さん。風子今行きます」
「でももう食ったし」
「そうでした。朋也さんを返してください」
「うむ、どうするか」
「ヒトデ王国、恐ろしいところでした。風子そのキュートな響きに騙されてしまうところでした」
「よし、兵隊長シスター様に代わろう。シスター様」
「ボスの出現ですね」
「ぷっ・・・私がシスターだ・・・くっ」
「なんか笑ってます。これがボスの余裕というやつですか」
「ぷ、笑い茸」
「なんか弱そうです!」
「で、用件は、ふふ、なんだ、くっ」
「朋也さんを返してください!」
「朋也・・・くつ。ああ、あいつか。そんなに、ぷ、大切か」
「はい、風子の一番大切な人です」
「・・・ヒトデよりもか」
「ヒトデよりもです」
「・・・ちょっと待て。今吐き出す」
「うわぁ、それはちょっと嫌です」
「すごい音がするから5秒くらい耳を塞いでろ」
「わかりました。・・・・・・朋也さん大丈夫ですか?」
「何が」
「ああ、朋也さんです。うまくはきだされてよかったです。」
「何言ってんだ?」
「朋也さんはヒトデ王国の人に食べられちゃってたんですよ。覚えてませんか?」
「なんだよ、俺はずっと風子と話してたぞ」
「そんなことありません。朋也さんはなんとか隊長のシスターに食べられていたんです」
「いや、だって風子と水族館のことについて話してたし」
「それは風子です。日曜日に水族館に行くって約束しました」
「だろう」
「でもその後です。その後朋也さんは食べられたんです」
「・・・お前ほんとに風子か?」
「ええ!?何を言ってるんですか間違いなく風子は風子です」
「だってなんか訳のわかんないこと言ってるし。本物の風子はどこに行ったんだ!」
「風子ここにいます。食べられてません」
「食べられたのか!?」
「食べられてません!!」
「バナナみたいにか!?」
「風子剥かれてません!なんかさっきもこんな風に話した気がします」
「どうやら別次元に繋がってるみたいだ。一度切るぞ。すぐに掛けなおす」
「はい、朋也さんみたいな人、お元気で」
ガチャ。プー。トゥルルル。
「本物の朋也さんですか!?」
「本物の風子か!?」
「ああ、本物っぽいです。よかった」
「ああ、こっちも一安心だ」
「なんかさっきまで朋也さんみたいな人と話してました」
「俺も風子みたいなやつと話してたぜ。危なかったな」
「はい。ハイパーミステリーにアンビリーバボーでした」
悪戯、終了。
「それはじゃあ日曜日に水族館でいいか」
「モウマンタイと書いてモウマンタイです」
「よかったよかった、ギリギリだからな」
「何がですか?」
「あ・・・いや、なんでもない」
「秘密ですか?」
「ああ、内緒」
「それは風子ドキドキです。おねぇちゃんに聞いちゃだめですか」
「だめ、内緒」
「分かりました。乙女回路全開です」
「ああ、絶対楽しいからな」
「はいっ!」
風子と話してると飽きないんじゃない。
風子と話していることがこんなに楽しいんだ。
飽きないのと楽しくてやめられないのとはなんだか違う気がする。
「そういや今日は何してたんだ?」
「おねぇちゃんに捕まって部屋に監禁されてました」
「は?」
「朋也さんからも言ってください。風子は芸術肌の天才だから数学なんてできるわけがないです」
「それに関しては何も言えん」
「おねぇちゃん酷いんですよ。風子社会勉強のためにカッペーに借りたゲームやりたかったのに」
「勝平に借りたゲーム?」
「はい。うぐぅなたい焼きとか卒業式の伝説の樹です」
「なんか謎が解けたのと勝平の意外な趣味が露見してしまったことに動揺が隠せないがそれは社会勉強にはならないと思うやめろとは言わないが」
「朋也さん珍しくすごい饒舌です。は!」
「どうした?」
「風子今から見たいテレビがあるのでもう切ります」
「何」
「ハニワのすべてです。ん〜激ぷりちーです」
「そうか・・・?」
「はい、胸きゅんです。それでは」
「ああ、学校で」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ゆったり5秒ほどして風子の受話器がおりた。

火曜日、風子の様子がおかしくなった。
風子の表情が重い。
そんな2人の帰り道。
「なにかあったか」
「別になにもないです」
始終無言。
昨日の帰り道と正反対な風子。
この間のようなすれ違いとは異なった不安が胸を蝕む。
意気消沈、無表情。
あの自然と湧き上がってくる愉快さが過去の遺物に思える静寂。
「風子、もう帰ります」
駆け出した風子を呼び止めることはできなかった。

水曜日、杏が会いにきた。
「あーごめん」
「何が」
「ちょっと」
杏は髪をなびかせて教室から去っていった。
その後姿を見送る。
程なく戻ってきた杏に頭をはたかれる。
「ちょっとって言ったんだから来なさいよ」
行きがけに横にいた春原もはたかれていた。

中庭には弁当を広げたりパンにかぶりついたりする生徒達の群れ。
プライバシーの保障がされていないようでその実、個々の群れごとに有効範囲が限定されている不思議な空間。
そんな群れの一つになった俺達。
「いい加減教えろよ」
昼休みといえどもそれは昼食の時間も含んでの呼称だ。
こんなところにいてはあんぱんにすらありつけなくなる。
昼抜きなんてまっぴらごめんだ。
「あー、うん、ごめん」
全く要領を得ない。
「なんだよパンなくなるだろ」
「あはは、そうだね、うん」
要領を得ないというより会話が成立していない。
これまた数日前と正反対な杏。
「お前まさか妹の方じゃないだろうな」
すごく変な目で見られた。
この目は間違いなく杏のもの。
「うん、あのね朋也。・・・ちょっと大袈裟になったかもしれない」
「は?」
「風子関連」
ああ、と心の中で納得とため息。
「また俺で遊ぼうってか」
「いや、今回はちょっとマジ」
「なんだそのちょっとマジって」
「うるさいわね。だから今から説明しようとしてるんでしょ」
路傍の石に腰を据えた。
上から杏を見下ろす格好となる。
杏は俺が座らないと確認するためなのか数秒置いてから、ことの次第を語り始めた。

「昨日のお昼ね、風子とばったり会ったのよ。
 それでまあいろいろ話したりして。
 そのときつい言っちゃったのよね、朋也と日曜日に水族館に行ったってさ。
 その後も調子付いていろいろと話してたら風子がちょっと暗くなってたのよ。
 だからそれと関係あるかなって。はは、ごめん。」

「というわけだ」
夕陽に赤く染められたベッド。
隣人は今頃部活の真っ最中だろう。
BGMは無い。
CDラジカセの再生ボタンを押すと朋也の声が流れ出ることになる。
横の金髪は呆れたような表情を浮かべながら、朋也の言葉に耳を傾けていた。
「それで、僕にどうしろと」
「いや、なんだかな」
誰かに聞いてほしかったというのが本音だと思う。
しかし生憎こんなことを話せる友人、もとい、まあこんなことを話しても差し支えないだろう友人というのがこいつしかいなかった。
「風子の怒りの原因を見つけたいなって思って。どう思う」
「それは百戦錬磨の僕にアドバイスしてほしいということかな」
「ああ。だめだったときに智代の刑に処して俺の怒りを発散できそうなやつはお前しかいなくて」
「智代ちゃんの刑?」
「クマ」
「うわああぁー!」
よほど嫌な思い出なのかその根元が黒くなり始めた金髪をかかえる春原。
「大丈夫だ、お前なら耐える」
「そういう問題じゃねぇ!!」
ドカッ!
春原の叫びに合わせて揺れる壁。
「うるせえんだよ!こっちは風邪引いて寝てんだ!!!」
「ひぃぃ、ごめんなさい」
隣人はしっかりと在宅しているようだ。
「で、どう思う?」
「謝罪とかないんだね」
「涙をふけ。男が泣いていいのは友に裏切られた時だけだ」
「それが今だ!」
ドゴン!
「ひぃぃ、ごめんなさい!」
「学習能力ないのな」
「もういいっす」
男春原は真っ赤に燃えている。
「僕が思うに」
涙をとめた春原がベッドに腰を掛けなおした。
「風子ちゃんとしては岡崎が浮気してるのが嫌だったんだと思うよ」
「浮気?」
聞きなれない単語。
「岡崎からすれば違うだろうけど、傍から見れば完全な浮気でしょう」
「・・・」
それは、考えの候補にも挙がらなかった。
「彼女がいるのに別の女の子と2人きりで休日に水族館なんて」
「お前も誘われたじゃないか」
「あれは単なるいじめでしょう。・・・僕ってなんだかすごくいじめられてる気がするんだけど」
「気のせいだろ」
「今なんか杏の声も聞こえた気がする。・・・ともかくそういうことなんじゃないの」
浮気。
確かに客観的に聞くとそれはそう思えなくもなかった。
が、でも。
「杏とだぞ」
「それでもだよ。お前だって風子ちゃんが勝平と一緒に居ただけであんなだったじゃんか」
「ぐ・・・」
それを言われると言い返せない。
あの時はすれ違いの連続から自分の世界がすごく狭いものになってしまっていた。
だとすると風子も俺と杏の関係というのが分からなくなっているということだろうか。
「とにもかくにも岡崎が悪い。さっさと謝っちゃえば」
確かに日曜日までにこのすれ違いをなんとかしなければ、イルカが故郷へと帰ってしまう。
「まあ僕の場合はそんなミスしないけどね。隠してるから気付いてないだろうけど、オファーはいっぱいなんだぜ」
「いや、気付いてるよ」
ガンガンガン。
「春原!ちょっと面貸せや!」
「ほら」
「ひぃぃぃぃぃ」

しかしなあと思う木曜4限目の坂道。
昨夜は結局具体的な案も出ないまま寝入ってしまったようだ。
気付いた時にはブランチにも遅い時間だった。
謝るにしてもいったいどうしろというのだ。
こちらとしては杏に付き合ってやっただけなのになんでこんな目に合わされないといけないのか。
そんなことがグルグルと螺旋を描く。
解決策があるとしてもそれは二重螺旋の関係を保っているようでうまく噛み合ってくれない。
「プピ」
坂道の途中に奇妙な茶色い物体が現れた。
  1・たたかう
  2・まほう
→3・なでる
  4・にげる
4はともかく1と2は選んだ時点でゲームオーバーになる自信があったため無難に3を選択。
近寄っていってもその丸い物体は逃げようとはせず、逆にこちらの腕の中に飛び込んできた。
「プピピ」
「まったく」
ボタンの滑らかな毛を撫でる。
「プピ〜♪」
目を細め恍惚とした表情を浮かべるボタン。
それはまるで。
「お前の主人のせいでこっちはひどく迷惑してるんだぞ」
愚痴を言ってみたところでボタンは相も変わらず幸せそうな表所を浮かべているだけだった。
鐘の音が響く。
ピクリとその音に反応して、ボタンは朋也の手から滑り降りると校舎に向かって駆け出した。
「あ、こら」
しかしルルスクロファレウコミュスタコスの足は速い。
あっという間にその茶色い物体は黒い一点となった。
「まさかあいつここで放し飼いにでもするつもりかよ」
ぼやきながら校舎へ向かう。
授業が終わったこともあり、校舎からは生徒が徐々に吐き出されていた。
その中に見知った姿。
「あ」
「うっす」
さっとそらされた視線が中庭の方を向く。
「わかってるよ」
「え」
「あんまり連れてくるなよ、ボタン」
杏の横を通り抜け、朝飯兼昼飯の争奪戦へと向かった。

「それは確かにそうだね。そうだと思うよ」
半袖のシャツからのぞいている肘には大きな絆創膏が二つ。
「そのほうが誤解も解けやすいだろうしね」
明るく話す春原を見ていると自分の幸せを感じられるのは何故だろう。
「なあ」
「ん?」
「お前・・・いや、なんでもない」
「え、なに。気になるんだけど」
「いや、別にいいよ」
「言えよ、気になるだろう」
「じゃあ言うが・・・お前ってほんと男だなって」
「なんだよ突然そんなこと」
「いや、その肘とか見てるとな」
「これ?ああ、なるほどね。傷は男の勲章だっていうしね」
「お前ほんと・・・男だな」
「やめろよ。そんなに溜められると逆に照れるだろう」
可哀そうな、不幸な、へたれな。そんな言葉が全て当てはまる男。
「まあまずは杏に話を振ってみれば? あいつ も自分のせいだって認めてるみたいだし、協力してくれるんじゃないの」
「そうだよな」
教室でパンを齧りながらその栄養分をすぐ頭の回転のほうにまわす。
杏は今頃中庭でボタンにエサをやってるだろうから放課後にでも捕まえればいいだろう。
「しかしねぇ」
目の前の金髪男が軽い溜息をつく。
「まさか岡崎からこんな話をきくようになるとは」
「なんだよそれ」
「だってお前って恋とか愛とか全く興味ないような感じだったじゃん。だから不思議だなってさ」
「まあな」
こっちだってこんなことになるなんてつい数ヶ月前まで考えもしなかった。
あの坂道で。
あの坂の下で古河に話しかけたことから俺の人生は大きく変わったと思う。
人生の分かれ道というものが万人に存在するのだとしたら、あそこは俺の分岐点の大きな1つだったと思う。
あそこで古河の声に耳を傾けなかったとすれば、きっと今も春原と適当に悪さをする日々が続いていただろう。
俺はあの時古河に声を掛けたことを後悔なんてしない。
だって今の生活がとても楽しいから。
他の分岐点も数多く存在しただろう。
それぞれに楽しい未来があったかもしれない。
苦しい未来があったかもしれない。
今なんて比べ物にならないほどの幸福があったかもしれない。
でも。
俺はこの道に満ち足りた思いを抱いている。
「それで風子ちゃんとはどこまでいっ、へぶしっ!」
突如窓から飛び込んできた野球ボール(硬球)が春原の後頭部に直撃した。
体が前に倒れた時に額を机にぶつけた音の激しさに教室中の目が向く。
状況を把握しているのは俺だけのようで、皆机に伏せている春原を奇妙な目で見ていた。
「気にすんな」
周囲を牽制しつつ床に転がったボールを拾い上げた。
窓に近寄り、校庭に目をやる。
そこには一列に並んでこちらを見上げる群れとその仲間と思しき人間が数人+α。
その中には見知った顔も一人。
「なんだ朋也の教室だったのか。すまない、ボールが入ってしまった」
「中の人間に直撃したぞ」
ボールを窓から放り投げる。
下にいる人間が一様に腕を伸ばす。
「なに!?怪我はないか!すぐにいく!」
「けっ、俺様のボールに当たったくらいで死ぬなよ!死のホームランショットだがな」
横にいた+αこと赤髪にサングラスといったかなり怪しい奴の打ったボールらしい。
「春原だから大丈夫だ」
駆け出した生徒会長の足が止まる。
「なんだあいつか。生きてるか?」
「生きてるよ!」
のびていた奴が復活した。
「どこのどいつだこんなことしやがったのは!しめてやるから上がってこい!!」
わめきながら窓から身体を乗り出した春原。
その動きがぴたりと止まる。
「悪いな、俺だ。けっ、しめてやるとはいい度胸だな。そっち行けばいいのか」
声を発するは赤髪にサングラスの生徒とも教師ともとれない風体の男。間違いなくやばい部類にはいりそうな男。
「いや、僕は大丈夫なんで気をつけてください〜」
こめかみに一筋の汗を流しながら窓から身体を引く春原。
やはり・・・男だった。


太陽の光は弱まっているはずだが、とてもそうとは思えない。
梅雨もあけ日差しを強めた灼熱は授業時間をすぎても休むことはなかった。
炎天下。
嫌でも汗がにじみ出る。
「熱いな」
「プピ」
中庭でボタンと並んで座る。
ボタンはぬいぐるみということになっているため、生徒達が興味と恐怖の混ざった目を向けては通り抜けていく。
「ったく、どこいった。」
杏のクラスにその姿は見えず、周りのやつらも知らないとのことだった。
さてどうするかと中庭を見て思いついたのがボタン。
杏は必ずボタンを連れて帰るはずだから、ボタンと一緒にいれば杏に会えるという算段である。
「お前暑くないのか」
「プピ〜」
いのししって汗かくのか?
どうやらボタンに懐かれているらしくあちらから寄ってくるので触ることは可能だ。
だがもしも汗でベトベトならばそれもそれで嫌である。
なんか昨日抱き上げた気もするが。
しかし暑い。
木陰に座っているから幾分は涼しいだろうと割り切り、杏の訪れを待つ。
たまに流れるそよ風が心地よい。
「プ」
ピクリと動いたかと思うと、ボタンは一直線に駆け出した。
「おい」
他の人間の姿がないことを確認してボタンを追いかける。
いや、追いかける必要もなかった。
立ち上がったときにはボタンを抱いた杏の姿があった。
「朋也・・・」
「探したぞ、杏」
逆行に照らされた姿が眩しい。
「探してた?」
「おお、ちょっとこっちこい」
「これから帰るんだけど」
「少しだけだよ。お前にも責任があるんだからこい」
「風子のこと?」
黙って腰を下ろす。
少しだけ逡巡して、杏は横へと腰を落ち着けた。
「責任ってなによ」
「自分から言ってきたんだろうが」
当然分かっていたのだろう。
杏の返事はない。
「俺考えたんだけどな、つっても傍から見ればすぐに分かることなんだが。風子は俺がお前と水族館に行ったのに怒ってるんだと思うんだ。それってデートじゃん。
 俺たちが別にそんなんじゃないって分かっててもこの間の俺みたいに一回変に思うと止まらなくなることってあるじゃないか。たぶん風子はさ、今そんな状た」
「朋也!」
ピシッと葉がきしみ、ピタリと風がやんだ。
部活連中のかけ声すら届かなくなる。
ただセミの鳴き声だけが止まることなく聞こえ続けていた。
「杏?」
声を出したつもりなのに声になっていなかった。
うつむき、何かに耐えるように肩を震わせる杏。
膝の上のボタンも心配そうな表情を浮かべている。
「杏?」
今度は声になったと思う。
だが杏の震えは止まらなかった。
「杏」
パシン!
肩に手を触れた瞬間。
手をはじかれた。
同時にボタンの背に汗が流れる。
ポタリ、ポタリ。
「プピ・・・」
ボタンの力無い泣き声もむなしく響く。
ポタリ、ポタリ。
風がゴメンと耳を撫でた。
その感覚にいち早く気付いたからだろうか。
立ち上がり駆け出そうとした杏の手首をしっかりと捕まえていた。
振り払われそうになる手に力をこめる。
「なんだよ、どうしたんだ」
「馬鹿!」
杏の右手は抱えていたボタンを地面に落とし、朋也の頬にあった。
音や痛みや色や。
そんなものが刹那消える。
手の力が抜けると杏はするりと逃げ出した。
しかし、2,3歩進むとうつむいたまま振り返った。
両の拳は硬く握られたまま体の両側に垂らされている。
じわりと左の頬に痺れる感覚がよみがえり、状況が体にしみこんでくる。
「・・・」
杏は後ろを向いて脱兎の如く駆け出した。
「プピピ」
ボタンが二人の間で少しオロオロとした後、主人の後ろを追いかけていった。
しばらく、いやほんの少しの間だったのかもしれない。
とにかく、身体も精神もやっと現実に還ってきた。
杏に打たれた頬が痛む。セミの音がうるさい。
「・・・」
周囲に人影はなかった。
ただ一人、そこにポツンと立ちすくんでいた。
「なんだよそれ・・・」
杏に打たれた左の頬よりも胸が痛かった。
痛くて重くて倒れそうだった。
セミの声がうるさかったが間違いない。
聞き間違いなんてことはない。
杏は確かに言った。
たった一言。
たった一言だったけれど、それはあまりに重すぎた。
「なんだよそれ・・・」
声にならない声が漏れる。
声にならない声が漏れる。
「・・・」
カバンを手に取った。
こちら側からだと下りとなる坂にふかってふらふらと歩いていく。
「なんだよそれ・・・」
杏は確かに言った。
「好きなの」