風が心地よい。照りつける日の光は木々が遮ってくれるとはいえやはり今の時期は暑い。小さな妖精
達が服と肌の間を駆け抜けると、汗がすーっとひいていく。
「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・。」
 目的の家まではもうすぐだ。
「美水(みず)の奴、今日も寝てるなんてことないよな。」
 思わず口に出してしまうのは暑さと疲れのせいだろう。慣れた道とはいえさすがにこれだけの道を歩くと
身体にこたえる。この前に来たときには美水はぐっすりと眠っていたらしくすぐさま家に帰らされたのだ。
 玖珠(くす)は五里ほど離れたこの美水の家に昔から通っていた。幼き頃から親に手を引かれ進んだ道
は隅々まで熟知している。
 親父とお袋と妹がいなくなってからもそれは続いていた。縁者などはいない。一人で生きていくしかなか
った。いや、正確に言えば美水の家に住まわせてもらうこともできたがそれを玖珠が拒んだのだ。ともに暮
らしてきた家を離れることはできないと。
 しかしそれに猛反対したものが一人いた。美水である。一人で生きていくなど無謀だ。ここでともに暮らそうと。
「玖珠。一緒に暮らせば毎日ともに遊べる。あのような長い道のりを歩く必要もないぞ。」
「うるさい。俺はあの家を離れたりなんてしない。あそこには親父やお袋や沙樹(さき)がいるんだ。俺一人、
置いてなんていけるか。」
 覚えているのは山賊に家族が殺されたということだけだった。意識があるのは家の庭の墓標に手を合わせて
いるところからだ。それから三日。美水の家に世話になっていたがもう家に戻ると言い出した矢先がこれだ。
「玖珠。そのような若さで一人で生きていくなど・・・。」
「俺はもう14だ。それに一人などではない。あの家には親父もお袋も沙樹(さき)もいる。」
「しかし。」
「うるさい。美水のようにこんな広い屋敷に住んで欲しいものが何でも手に入る生活をしていたわけじゃない
んだ。ずっと生活してきた場所だ。いまさらやすやすと変えられるか。」
 考えてみればそれが今まででの最初で最後の美水との言い争いだった。結局玖珠は元の家に住むこととなった。
しかし条件として月に二度美水の屋敷へ来ることとなった。理由は二つ。一つは玖珠の様子が気になるから。
そしてもう一つは美水が泣いていたから。
 急な坂道がなだらかな斜面へと変わる。視界を覆っていた緑の木々が一斉に開けると、そこに美水の屋敷は
あった。近くの村からもかなり離れているこの山奥が美水の家だ。なんでも美水の親父が美水のために建てた
屋敷らしい。だったら何もこんな山奥に・・・と思ったのだが美水のうれしそうな様子を見て言うのをやめた。今か
ら15年ほど昔のことだ。
 うちの親父は何を思ったか村のはずれから一歩山に入ったところに今の家を建てた。昔おふくろが言っとこと
にはなんでも村人にひどい裏切りをされたらしい。そんな親父が村人と関わろうとしないのは当然のことで、玖珠
の遊び相手はいつも沙樹だった。そんな玖珠が美水と関わりがあったのは親父の叔母が美水の家で働いていた
かららしい。美水の親父さんは親父の唯一の友人だった。離れた所に住んでいたためめったに顔はあわせなか
ったが美水は玖珠の遊び相手第二号になった。
 だから美水が今までより近くに住むと知って、うれしかった。今までよりも頻繁に美水と遊ぶようになった。いつも
玖珠たちが美水の屋敷へと遊びに行った。広い家には美水と召使いがいるだけだった。たまに親父さんとおふくろ
さんが遊びに来てくれるらしく、そのときの美水の顔は光に満ちていた。
 庭に入るとまっすぐに裏の扉へと回る。この間はここが硬く閉ざされていたのだが今日は開いているようだ。玖珠は
扉に手をかけて一気に引いた。
「おい、美水・・・。」
 言い終わらないうちに頭から水が掛かった。
「あははー。ひっかかった。」
 目線をあげると美水が布団の中からこちらを見ている。
「おい!なんだこれ。」
「玖珠がまぬけなのがいけないのじゃ。ふつう扉が少し開いていたら警戒するだろう。」
「今までとおんなじじゃないか。警戒なんてするか。」
「甘いな、玖珠。敵を欺くにはまず味方からじゃ。」
「なんか使い方おかしいだろ、それ。」
「とにかく。私の勝ちじゃ。」
 何が勝ちなのかはよくわからなかったが、まあ、いつものノリというやつだ。
「びっしょりじゃないか。どうしてくれるんだ。」
「なあに、すぐに乾く。むしろそのほうが涼しいであろう。私に感謝するんだな。」
「へん。誰が感謝なんてするか。」
「美水様と呼んでもかまわんぞ。」
「聞けよ。」
「聞こえんなぁ。」
「つぶれ蛙。」
「なんじゃと!」
「聞こえてんじゃないか。」
「ううっ。聞こえておらん。何も聞こえてなどおらんが、なぜか無性に腹が立ったのじゃ。」
「そんなことで納得できるか。」
「これはこれは。」
 不意に屋敷の中から声が聞こえる。
「おお。邪魔をしてるぞ、咲(さく)。」
「いいえ、ようこそ玖珠殿。」
 現れたのは目じりが下がった色の白い女性である。
「咲。玖珠にそのような挨拶などいらん。何せ勝手に入ってきて頭から賊よけの水をかぶる馬鹿者じゃ。」
「ひっかかった、と笑ってたのはどこのどいつだ。」
 俺のためだけに仕掛けただろう。
「まあまあ、とりあえず玖珠殿は長い道のりを歩いてこられたのです。注意力も鈍るでしょう。」
「ではそのようなところを襲われたらどうするのじゃ。たちまちにやられてしまうではないか。だから私はそ
んな玖珠に注意するようにと・・・。」
「嘘をつけ。」
「何を言うか。こんなにも親身になって考えてやっているというのに。」
「咲はどう思う。本当に美水が俺のことを考えていると思うか。」
「そうですね。」
 咲は目を閉じて考える。
「美水様はいつも玖珠様のことを考えておいでですよ。それはそれはいつも『玖珠殿はいつ来るのじゃ。
玖珠殿はまだ来ないのか。』と五月蝿いくらいでございます。」
 『』の部分は美水にそっくりだ。
「こ、こら、咲。それは関係ないであろう。」
「なに慌ててるんだ。」
「慌ててなどない。勘違いするでないぞ、玖珠。私は玖珠をからかうのが楽しいから玖珠が来るのが楽し
みなのじゃ。それ以外の理由などは何も無い。」
「あたりまえだ。あってたまるか。」
「なにい!」
「どっちだよ。」
「ふふふ。とりあえずお茶でも入れましょう。玖珠殿は玄関からおあがりください。」
 咲は着物をひるがえすとあっという間に家の奥へと消えていく。俺は咲に言われたとおりに玄関へと向
かった。

「どうぞ。」
「すまない。」
 出されたお茶を一口すする。渇いたのどに水分はありがたかった。
「うまいな。」
「ありがとうございます。」
 咲は微笑んで自分も茶を一口すすった。そして一息つく。
「ふぅ。」
 碗からの湯気がお茶の熱さを物語っている。暑いときには熱いものを飲むほうがのどの渇きは癒えるらしい。
「こらー、早く来ぬか。」
 二つ隣の部屋から美水の叫び声が聞こえる。こんな声を聞いていたらせっかくの茶がまずくなる。
「うるさい!静かに待ってろ!」
 障子を開けて叫び返すと
「はーやーくーしーろー。」
 なんとも間の抜けた声が返ってくる。
「まったく。俺はゆっくりと茶を飲むこともできんのか。」
「ふふふ。この家は美水様を中心に回っていますからね。ささ。後でお茶菓子と一緒に新しいお茶をお持ち
しますから、はやく美水様の所へお行きになってくださいな。」
 咲はそう言うと立ち上がった。
「さあ。」
 仕方なく俺も立ち上がる。
「はーやーくー。ひーまーだー。」
 ゲロゲロゲロ。蛙の合唱が始まる。それは美水の声とこだまして不快なハーモニーをかなで出した。
 ゲロゲロゲロ。「はーやーくー。」
 ゲロゲログェロ「まーだーかー。」
「まて。今行く!」
 大声で返して美水の部屋へと向かった。

 襖を開くとそこは・・・先ほどの美水の部屋だった。まあ、あたりまえなのだが。
「うるさいぞ、合唱隊。」
 そこで美水が布団の中からこちらを見上げてくる。
「合唱隊?」
「ああ。」
 さも当然のように頷いてやる。
「ここには私しかいないぞ。」
「そうだな。」
「???」
 わけがわからないという顔をしている美水の横にドサリと座った。ちらりと横を見る。
(元気だよな。)
 美水は昔から家から出なかった。いや、正確に言うと出してもらえなかった。美水の親たちは昔、危険
だからと言っていたが今思うと怪しいものである。
(まさかこいつ長時間太陽光線に当たると変身でもするのか?)
 ・・・。ないとも言えない。
「どうしたんだ?玖珠。先ほどから私の顔ばかり見て。」
「狐か。」
「はぁ?」
(いや、そんな生易しいものではあるまい。)
「妖怪わるだ久美ーか!!!」
「だからなんのことだ?」
「恐ろしいな、確かに。」
「だから何の話だ!」
「いや、もうわかった。お前は家から出るな。」
「・・・人の話を、聞け!!!」
 美水が俺の頭めがけて枕を振り下ろしてくる。しかしそれごときかわせぬ俺ではない。
「はっ。」
 くるりと体を倒す。ガンッ!!!!!
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・大丈夫か・・・。」
 体を倒したさきには謎の石(頭にクリーンヒット)が。
「・・・ここはどこ。私は誰。」
「大丈夫だな。」
 あっさり見抜かれた。
「大馬鹿者め。自業自得じゃ。」
「う、うるさい。」
 まだ頭の中はクルクル回っている。
「そもそもなんだったんだ?さっきから私の顔を見ては何か言って。」
「ああ。美水が妖怪わるだ久美ーだとわかったんだ。」
「妖怪・・・。」
「ああ。太陽光線に長時間当た・・・。」
 ボフッ。
 よけきれなかった。
「なに空言ばかり言っておるのか。久々に会ったというのに落ち着いて話もできないのか。」
 人のゆっくり茶を飲む時間も取り上げておいて言えた台詞か。
「まったく。これだから玖珠は。」
「なんだよ。」
「成長できんのじゃ。」
「うるさい!」
 こいつ、人の気にしていることを。
「どうじゃ?私の記憶が正しければまだ咲より低く見えるが。」
「うるさい!これから伸びるんだ。それにお前よりはでかい。」
「ふっ。私に勝つなど男ならばあたりまえであろう。他に比べる者はおらんのか。」
「くっ。」
 俺は背が低かった。
「やい、美水。貴様よくもまあそんなにぬけぬけと。」
 勢いよく立ち上がる。
「どうなっても知らないぞ。」
「なんじゃ。やるきか。」
 ここまで馬鹿にされてほおっておくなどできないに決まっている。
「くらえ、必中奥義。」
 『必殺』だと殺してしまうので注意だ。
「くすぐり。」
「ふぇ!?」
 美水は俺の行動をまったく予測できていなかった為かすっとんきょうな声を上げる。
「コチョコチョ。」
「ぶはっ。や、やめ。」
 もだえだす。
「コチョコチョ。」
「やめろと言うておるに。」
「コチョコチョ。」
「ええい、やめんか。」
「コチョコチョ。」
「や、やめ・・・。」
 だんだんと抵抗する力がなくなっていく。
「コチョコチョ。」
「きゃはははは。頼む、やめ、きゃはははは。」
「コチョコチョ。」
「あははははは、ん、あ、い、息が。あは、は。」
「コチョコチョ。」
 ガラガラ。
「美水様、玖珠殿。お茶の用意が・・・。」
 襖が開かれた。玖珠と美水の激しい息遣い。乱れた布団。ずれた着衣。玖珠の手は片方は美水の首筋に。
もう片方は帯へと掛かっている。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・外側の襖もお閉めください。」
 咲はそのまままた襖を閉めた。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「うわあああああああ!!!」×2
 玖珠は大慌てで襖を開ける。
「待て、咲。これはだな。」
 廊下にはもう誰の姿もなかった。

 ズズズ。部屋に茶をすする音が響く。ここは美水の部屋だ。
 図図図。無理やり漢字にしてみたが無理があるようだ。
「ふぅ。」
 咲が息をつく。
「しかし。」
 そこで一度切る。
「おどろきました。まさか咲の知らない間に美水様と玖珠殿があのようなご関係に・・・。」
「違うと言っておるだろうが!」×2
 二人の声が見事なハーモニーを奏でる。
 あのあと咲を発見し、説明を加えること数刻。なんとか落ち着いて茶でも飲もうとなったのだが。
「あれはこの馬鹿者が変なことをするから。」
「仕掛けてきたのはそっちだろう。」
「なに!」
「大丈夫です!」
 また言い合いになろうとするところに咲の声が入る。
「わかってますから。」
 にっこりと微笑んだその顔はこちらの高ぶった心を落ち着けてくれる。
「もう、冗談でも・・・。」
「正宗(美水の父親、まさむね)様にはまだ黙っておきますゆえ。」
「違う!!」
「大丈夫です!!♪!!」
「・・・台詞から感情が見て取れるぞ。」
 明らかに遊ばれている。
 咲は俺たちがからかわれていることに気づいたからだろうか、さらに言葉を返してはこなかった。
「なぁ、咲。」
 会話のつなぎに声をかける。
「はい、何でしょう?」
「好きな食べ物は何だ?」
 一瞬ではいい話題が見つからなかった。
「そうですねぇ。」
 咲は悩んでいるような言葉を言ったが顔は別段悩んでいる様子もない。もう決まっているのだろう。
「やっぱり、美水様ですかね。」
「・・・へ?」
 今、何か変な単語が聞こえた気がする。
「すまない。もう一度言ってくれないか。どうも耳が。」
「私もだ。」
 美水は目を点にしている。咲は余裕綽々といった表情でおそらく先ほどと同じであろう言葉を口にした。
「美水様ですよ。」
 隣の気温がどんどん下がっていくのが身近に感じられる。顔を向けると美水の表情はこの暑いのに
雪のようであった。金魚のように口をパクパクと動かす。
「あの肌理細やかな肌の感触。忘れられません。」
 咲はもうすでに自分の世界に入り込んでいるのか自分の身体を抱きしめていた。
「ど。」
 美水の口から言葉がしぼり出される。
「どこを食べたのじゃ。足か、腕か、腹か。」
 そういう意味なのか。
「耳、でございます。」
「耳!」
 美水はあたふたと両の耳の在り様を確認する。耳の輪郭に沿って手を這わし、何度もこすり始めた。
「なあ、玖珠。あるよな?私の耳、きちんとあるよな?」
 急遽、涙目になりながら訴えかけられる。ここまできて咲の冗談だということに気づいた俺は、咲に
便乗して美水に仕返しをすることにした。
「ああ・・・ん?まてよ。左側を見せてくれ。」
「こっちか。」
 狙っているかのように右側を見せてくる。
「逆だ。」
「え、ああ。どうじゃ。」
 顔を180度回転させる。目の前に白く柔らかそうな耳が差し出された。
「・・・。」
「どうなんじゃ。」
 無言のままでいると本当に恐ろしいのか、答えを急いて求めてくる。
「・・・ふう。」
「どうなんじゃ!」
 顔をこちらに向けてくる。瞳を除くと中にいる自分の姿がゆがんできた。
 さすがにここでやめてやろうかという気が起こる。
「玖珠殿。お分かりになりますよね。」
「少しかけている。」
 起こっただけで、咲の一言と同時にどこかへ行ってしまった。
「そ、そんな。」
 美水の目から水滴がひとつ流れた。刹那。
「冗談ですよ、美水様。」
 明らかに調子のいい声が部屋に響き渡った。
「考えてもみてください。私が人間のお肉を食べられるなんて。そんなことあるわけがありませんよ。」
「でも。」
「大丈夫ですって。まったくもう、玖珠殿は悪ふざけが過ぎますよ。」
 突如寝返った事の張本人はあっさり人を見捨てやがった。
「め。」
 怒られているのかおちょくられているのか曖昧なところだ。
「ちょっと待て、なんで俺が咲に怒られなくてはならんのだ。もともとはお前が・・・。」
「問答無用!」
「ぐふっ。」
 顔に強い圧迫感を感じる物体で殴られた。
「馬鹿者。本当に信じそうになったではないか。」
 美水のなかでは一方的に俺が悪いということで片がついたらしい。枕で何度も攻撃してくる。
「おい、やめろ。」
「えい、えい。」
「やあ、よいしょ。」
 枕で殴られる。うちわで叩かれる。
「って、ちょっと待て!」
 おかしい。決定的におかしい。
「なんで咲まで一緒になって攻撃をしているんだ。」
「もちろん、美水様への助太刀でございます。」
 表情ひとつ変えずに断言した。さも当然であるかのように。
「そうじゃ、いくぞ咲。」
「はい。咲はいつまでも美水様のお側に。」
「待て!」
 俺は叫び声もむなしく、二人に枕とうちわで滅多打ちにされたのだった。
 
 陽の光が落ちてきた。世界が赤く染まっていく。
「じゃあな。」
「うん。」
 いつもと同じ顔。
「また来るから。」
「うん。」
 いつもと同じやりとり。別れのときはいつもこうだった。 
 早くも今日が終わった。二日があっという間に過ぎた。
 昨日は夜遅くまで美水と話をしていた。なにを話したかはもう忘れた。どうでもいいような話だったと思う。
「それじゃあ咲。また。」
「はい。お気を付けて。」
 玖珠は足を外に向けた。歩を進める。
「玖珠!」
 大きな声に振り返る。
「またな。」
 美水が大きく手を振った。
「またな。」
 軽く手を上げると今度は普通の歩幅で歩き始めた。そして屋敷が見えなくなると飛ぶように駆け出す。
いくら慣れた道とはいえ夜の山道は恐ろしいので早く帰るに越したことはないのである。
 周りの木々が視界に入っては後ろへと消えていく。くだりは速さは出るが勢い付き過ぎると危ないのもま
た事実だ。踏み外したりしたらひとたまりもない。
「・・・。」
「ん?」
 景色が瞳の中へ収まっていく。足を止めた玖珠は耳をすませた。・・・何も聞こえない。
「空耳か。」
 確かに何かが聞こえた気がしたのだが。
 再び歩を進めようとする。
「・・・。」
 何かが聞こえた。・・・声?
「誰だ。」
 声を張り上げてみる。
「・・・・ケ・・。」
「どこだ!」
 耳を澄ませると道の先からその声は聞こえてくるようだ。そちらに向けて走り出す。
「どこだ!」
 走りながら耳を澄ます。この暗闇では視覚はあまり頼りにならない。
「・・・けて。助けて。」
 それは辛辣な声だった。誰に対してではなく、誰かに対して発せられる声。
 道の先で木の葉が揺れる音が聞こえた。幾重にも重なったその音は反対側へと消えていく。
 ひたすら収縮点へと向かった。

 いつも通る道。春は石が転がり、夏は木々の影が映り、秋は色とりどりに染まり、冬は真っ白い川となる。
そんな道に人が倒れていた。
「!」
 慌てて近寄りそばにしゃがみこむ。
「大丈夫ですか。」
 女だった。身なりはお世辞にもいいとは言えない。というより所々が引き裂けている。
「ううっ。」
 女が薄く目を開く。刹那、身体を思いきり突き飛ばされる。
「!!!」
「うわっ。」
 不意をつかれ、玖珠はしりもちをついていた。頭を振りながら身体を起こす。
「いたた。」
 見ると女は怯えたような表情をこちらに向けていた。
「どうしました。」
 立ち上がり近づいていこうとすると女は同じ分だけ下がっていく。明らかにおびえられているようだ。
「大丈夫です。僕は何もしません。」
 できるだけ優しい声を出そうとするがその言葉は全く女には届かない。女はただがくがくと震えていた。
そして、こちらに震えるまなざしを向けていた。
 こちらから近づいていけない限りどうすることもできない玖珠は思考を重ねていた。
(まずは俺が何もしないということを伝えないと。でもいったいどうすればいいんだ。)
 ただただ時間がすぎていく。
 山道はもう完全に暗闇に呑まれてしまった。目の前にいる女はこちらを見て震えたままで何も話そうと
はしない。だんだんその何も無い間が辛くなってきた。
 「はぁ。」
 玖珠はため息をつくとまた女に近づいた。もうこのまま見つめ合っているだけではなんにもならないと
思ったのだ。
 「とりあえず俺の家に行きましょう。このままでは風邪をひいてしまいます。」
 そのとき一段と強い風が二人を襲った。ゴーという音が山の中を駆け抜ける。女の体が倒れた。しかし
そのままピクリとも動かない。玖珠が近づいていっても今度は女は逃げようとはしなかった。女は目
を開いたまま気を失っていた。