鉄は荒く息を吐いている。鉄の目の前には少女が一人。その身をウエイトレスの制服に包んでいる。

鉄は濡れた手を少女の方へ差し出した。少女は一瞬ビクット体を震わせる。しかし少女はゴクリとつば

を嚥下すると鉄の方へと手を差し出した。指先が触れる。鉄の手から小さな物が手渡された。鉄の顔は

濡れた髪が張り付いているせいでよくは分からない。ただ荒い息だけが繰り返されている。

 少女は自分の手に渡ったものをしっかりと見つめ、頷く。鍵。小さな鍵。少女――渚は鍵をしっかりと握

り締めた。そしてふと顔を上げる。目の前にいる鉄は全身がずぶ濡れだ。足元には水滴がたまっていく。

「きゃっ。」

 雷鳴が轟いた。暗い店内に光が満ちる。そしてもう一度顔を上げると、そこに鉄の姿はなかった。あるの

は色の変わった床。水に濡れた床だけ。

「羽田・・・さん。」

 返事がない。外を降る雨の音だけが聞こえる。

「きゃっ。」

 再び雷鳴。店内が明るく照らされる。その時、いやその一瞬、渚は自分の影が一つでないことに気づい

た。自分の影にもうひとつ影がかかっている。オーナーはいない。ピチャ。足音が後ろから聞こえた。背筋

が凍る。後ろに何かいる。そんな気配がする。体が動かない。極度の恐怖に体が言うことをきかない。雷

が収まった今、店内は闇に支配されている。そして、渚はそれが今自分の真後ろにいることを感じた。背

中に荒い息がかかる。渚はきつく目を瞑った。手に持った鍵に力を込める。

「誰。」

 振り向いた。自分より大きな影。二つの目がこちらを見下ろしている。影はゆっくりと手を振りあげた。



「んんーん。はあ、それでよかったですか。」

「はい。助かりましたありがとうございます。でも大丈夫ですか。」

「平気ですよこのくらい。拭いとけば大丈夫です。」

「でも、だいぶ寒くなってきましたし、風邪とかひかれたら私どうしたらいいか。」

「大丈夫ですって。」

「でも・・・。」

「じゃあもし倒れたら看病にでも来てください。」

 笑って鉄は返す。外では雨がさらに激しく降っていた。

 

 ことの始まりはこうだった。鉄が掃除をしているところへ買い物から帰ってきた渚がやって来た。聞いて

みると鍵を落としたというのだ。それで鉄はスーパーまでの道を探し始めた。地面を見ながら慎重に捜す。

そしてやっとこさ発見したまでは良かったのだが、買える途中に突然の夕立。それでこうなってしまった。

 

 

「あんた、馬鹿でしょ。」

「うるさいですよ。」

「・・・馬鹿。」

「・・・・・・・・・。」

 頭が痛い。のどが痛い。体がだるい。しんどい。熱がある。・・・風邪だった。

「格好つけるからそういうことになるの。」

 メリルが氷枕にタオルをまいてやってくる。少しだけ頭を上げると枕との隙間に氷枕はおさまった。

「ああ、冷たくて気持ちがいいですね。」

「感謝しなさいよ。私に。」

「ええ。ありがとうございます。」

「素直で結構。なんか食べる?」

「いや、今はいいです。」

「そう、じゃあわたしたちは隣の部屋にいるからね。」

 メリルは立ち上がると隣の部屋へと消えて扉を閉めた。ハデルと二人きりになる。途端に再び扉が開い

た。

「何やってんの。あんたもこっち。」

 そしてそのままハデルと共に消えていった。

「はあ、だるい。」

 今朝測った熱は41.9度とかなりやばかったが今は38度くらいだ。普通に起きられるしご飯も食べれる。

「そうだ、店に電話しないと。」

 手を伸ばして携帯をとる。電話帳を開いてボタンを押した。何度かコールが聞こえる。トゥルルルル、トゥ

ルルルル、トゥルルルル、ガチャ。

「はい。カフェ、ふぇ、『feather』です。」

 電話口から聞こえてきたのはオーナーの声ではなかった。

「もしもし僕ですけ・・・。」

「えっと、どのようなご用件でしょうか。」

 マニュアルを見てしゃべっている姿が目に浮かぶ。どうやらガチガチに緊張しているようだ。

「もしもし僕です。」

「えっと、僕さんですね。ご用件は何でしょう。」

 悪気があるようには思えない。むしろ今までどのようにして応対をしてきたのかが気になる。

「僕ですよ。鉄です。」

「はい。鉄ですね。えっと・・・、あ、すみません。うちは、そのカフェなもので、その、鉄は。」

「だから僕です。羽田鉄です。」

「え・・・羽田、さん?」

「はい。そうです。」

 やっと話が通じたらしい。

「どうしたんですか。なかなかこないからおじい・・・マスターも心配してますよ。」

「はい、それがですね、どうやら風邪をひいてしまったらしくて。だから今日のバイトはお休みさせていただ

くようマスターに伝えていただけますか。」

「大丈夫なんですか。あ、もしかして昨日のが・・・。」

「ああ、いえ。違いますよ。ちょっと湯冷めをしてしまったらしくて。」

「熱とかあるんですか。」

「ええ。でも今はだいぶ落ち着いて38度くらいです。」

「さんじゅ・・・。本当に平気なんですか。」

「ええ大丈夫ですよ。明日にはもういけると思いますので。」

「そんな、無理しないでください。もともと私のせいなんだし、羽田さんの分まで働きますから。」

 カフェ『feather』はもともと客が少なかったのだが渚が来てからは看板娘の姿を一目見ておこうと店に

来る客の数が増えている。そんな中での鉄の欠席はある意味自殺行為だった。渚はドジなのである。

「あんまり無理はしないでくださいね。」

「はい、大丈夫です。」

 受話器の向こうの熱気がこちらにまで伝わりそうである。

「それじゃあ。」

「はい。」

 受話器を置いて一息つく。本当に大丈夫だろうか。今頃意欲に燃えた渚がお盆をひっくり返している

だろう。

「失敗だったですかね。」

 鉄は再び布団の中に体を沈めた。やはり体調が悪いせいか薬が効き始めたのか瞼はすぐに落ちて

きた。



 うっすらと意識が戻ってきた。台所から水の流れる音が聞こえてくる。その音を聞いていると再び夢の

世界から呼ばれそうだ。ジャー。がたん。ジャー。じゃらじゃら。じゃー。「あぶな・・・」がしゃん。じゃ・・・

−・・・。やってくれたようだ。鉄は仕方なく頭を軽く振りながら布団から起き上がった。ふと、頭からなに

かが落ちてくる。

「タオル?」

 頭上から落ちてきたタオルはなにやら湿っていた。だいぶ温かくなっているところを見るとずいぶん前

におかれたのだろうか。おそらく、というか絶対だが、メリルかハデルだろう。なんだかんだで心配してく

れているというのがよくわかる。

「まあ、許してあげましょうか。」

 布団から抜け出すとまだ少しふらつく。顔がほてっている。寝ていたから少し体温が高くなったらしい。

鉄は隣の部屋へと続く扉を開けた。

 目に飛び込んできた風景は見慣れた台所ではなかった。ところどころに野菜の皮が飛び散りなにかの

肉片が転がっている。机の上には新聞紙にくるまれた何かが入ったナイロン袋。なぜか表示が60分の

電子レンジ(稼働中)。箒を持ったハデル。包丁を持ったメリル。そして・・・。

「あ、起きました?ダメですよ寝てないと。風邪がひどくなっちゃいますから。」

「・・・。」

 目の前には包丁を手にした渚が微笑んで立っていた。服はいつも見慣れている『feather』の制服だ。

渚は包丁を置くとこちらへとやってきた。目は不安げな色で輝いている。落ち着いてみると微笑んでなど

はいなかったようだ。

「大丈夫ですか?今お昼ごはん作ってますから。」

「な、何で渚さんがここに?しかもその格好。」

「ええ。」

 渚はやっと表情を和らげた。

「おじいちゃんに話したら、じゃあお見舞いにでもいってやれって言うもんですから。この格好のままで来

ちゃいました。」

「そうですか。」

 きっとオーナーが気を遣ってくれたのだろう。決して厄介払いなどではない。

「まあ、羽田さんは寝ててください。この子達と一緒にすぐに作っちゃいますから。」

「おー。」

 ハデルは意気揚々としている反面メリルは目で何かを訴えかけていた。あごで隣の部屋をさす。

「じゃあ、もう少し寝てますね。」

「それじゃあ、私、氷枕代えてあげる。」

 「る。」というころには鉄はメリルに隣の部屋へ押しやられていた。扉が閉まるとメリルの肩から目に見

えて力が抜ける。

「大丈夫ですか?」

「だめ。」

 即答された。

「何なの、あの子。突然やって来てお昼ご飯を作りましょう?ばか言ってんじゃないさ。うがぁ。あいつなん

か猫のう・・・」

「メリル、キャラが変わってますよ。」

 メリルの話によると渚はあの後突然やって来てメリルとハデルのことについてさんざん質問した挙句、

親戚の子を預かっているというのでやっと落ち着き、カレーを作り始めたらしい。

「しかも、包丁持った手も震えてるし、もうだめ。私が病気になるわ。」

「それはお疲れ様でした。」

「大体あんたが風邪なんてひくからいけないのよ。」

「そんなこといわれても。」

「そうよ、私は悪くない。いけないのは全部他の人。」

「・・・今度アイス買ってあげますから。」

「バニラの二個。」

「はい。」

「よし、じゃあ早く氷枕かしなさい。どうせもう溶けてるでしょう。」

 メリルはさっと氷枕を抱き寄せた。その拍子にタオルが落ちる。

「ああそうだ。メリルですか、頭にタオル乗せてくれたの。」

「ああ、それ。」

 急にメリルの声が重たくなる。

「あの子よあの子。氷枕しいてるって言うのに冷やさないととかって言いながらお皿に水汲んでここであん

たの頭にタオル乗せた後、その水ひっくり返してったのよ」

 メリルの指差したあたりはよくみると黒ずんでいる。

「それじゃあ早く元気になってね。私のためにも」

 メリルは氷枕を抱えるともう一度深くため息をはいて出て行った。扉の奥からはまたものすごい音が不調

和ハーモニーを奏でていた。



「はい、どうぞ。」

 戦場と化した食卓で鉄は皿の上からはみ出しているそれを見つめていた。それはなんとも形容しがたく

やはりそれとしかいえない。それは見るからにあれなものだった。

「さ、召し上がれ。」

「おー。」

 隣では渚とハデルが目をらんらんと光らせている。メリルはここにはいない。今はベッドの中ですやすやと

安らかに眠っているはずである。

「こ、これ味見はしたんですか?」

「はい。メリルちゃんが。」

 事の重大さがまったくわかっていないようだった。

「ささ、どうぞどうぞ。栄養満点ですよ。」

 プシュウとそれが白い煙を吐き出す。

「何がはいってるんでしょうか。」

「ああ、それはですね・・・。」

 材料が何かを聞けばまだ救いようがあるかもしれない。

「内緒です。」

「・・・。」

「だおー。」

 鉄に選択の余地はないらしい。

「じゃ、じゃあ、いただきます・・・。」

 鉄はスプーンでそれを掬う。それの中にスプーンを差し込んだとき『げちょ』という音がしたが聞こえない

ことにする。ゴクリとつばを嚥下する。鉄は明日の太陽が拝めるようにと祈りながらそれを口の中に含んだ。

「こ、これは!」



 それはなんとも不思議な味だった。口の中でとろけ、粘り、酸味が効いており、まろやかな甘さで、歯ご

たえがある。噛むたびに汁が出て、味が変わる。この世界が楽しくなってくる。

「どうですか。」

「美味しいですよ。見た目はアレですけど味は最高です。これはうちの目玉商品になりますよ。」

「じゃあ、こっちも食べてみてください。」

「はい。・・・。おいしい。美味しいですよ。」

「これも。」

「・・・。最高です。すごい。こんなの今までに食べたことない。」

「よかったです。喜んでもらえて。」

「私も。」

「僕ももうこんなに元気になりましたよ。」

「わあ、やったあ。」




































































「ごふっ。」

「大丈夫?」

 目を開けるとそこにはメリルの顔が広がっていた。

「メリル?」

「そう。私。」

 メリルは遠い国へ逝ってしまったわけだから、いや天国にいるんだったら帰ったのか、まあメリルがいる

ってことはここは?

「僕、死んだんですか。」

「大丈夫、生きてるわよ。」

 メリルがそこをどくとそこには目を真っ赤にした渚が座っていた。

「ハデルの奴はさっきまで起きてたけどもう寝ちゃった。」

 メリルの説明を聞きながら奥を見ると確かにハデルが転がっている。

「羽田さん・・・。」

 渚は顔を伏せたままだった。しかし鉄も寝ている為表情はじかに見える。

「ごめんなさい。」

「・・・。」

 なんと言っていいのかわからなかった。別に怒ってなどいないが遠い国に逝きかけたのは事実だ。現

に明るい未来を夢見ていた。

「そうよまったく。あんたがこんなことしたから大変なことになったのよ。」

 渚の肩がびくっと震える。そして立ち上がった。

「逃げるの。」

 渚はそんまま駆け出した。閉まったままの扉に激突する。それでも扉を開くとまた走り出した。

「渚さん!」

 後には扉に目が残されていた。

「メリル。いくらなんでも。」

「なによ。死にかけたのよ、私もあんたも。」

 言葉に詰まる。

「許す許さないの問題じゃないわ。・・・あのこあのままじゃだめでしょ。何かあったの、あのこ?」

「なにかって?」

「おかしいでしょ。あんな年であんなドジなのに働いてるって。しかも別に人手不足ってわけでもないのに。」

 確かに、そうだ。

「あんた何も思わなかったの。」

「・・・ええ。」

「馬鹿。」

「・・・。」

「まあ、私には関係ないけど。あんたは同じ職場の仲間なんでしょ。もう少し大切にしてあげなさいよ。」

「・・・行ってきます。」

 鉄は立ち上がり玄関に向かった。泣いている扉を開く。玄関にかけてあるダッフルコートに手を通していると、

「早く帰ってきなさい。外、雨だし、風邪、悪化するわよ。」

 メリルがこちらを見つめていた。いつの間に起きたのか後ろにはハデルもいる。

「ごめん・・・なさい。」

 ハデルが言葉を紡ぐ。顔はいかにも寝起きだが言いたいことはしっかりと伝わってくる。

「いいですよ。それじゃあ、いってきます。」

 鉄は傘を手に取ると玄関を飛び出した。



 雨の中を走っている。渚がどこへ行ったかなど分からない。でもこのあたりの地理には詳しくはないだろう

から、そう遠くまでは行ってないだろう。

「渚さん。どこですか。」

 声が雨の音にかき消される。家を出たときは小ぶりだった雨が今は土砂降りになっている。メリルには悪い

が傘を差すと移動力が鈍るので全身がずぶ濡れだ。「feather」にもまだ戻っていないらしい。

「あと渚さんの行きそうな場所・・・。」

 考えてみればバイトでしかあっていないしバイト中もそんなに話したりはしていない。鉄は渚を何も知らな
い。

 雨はまだまだやむ様子を見せない。

「どこに。」

 鉄が辺りを見回すと大通りを挟んだ反対側の歩道に見知った影があった。

「渚さん!」

 大声で呼びかけるが渚は何も気づかない。ただとぼとぼと歩いていくだけだ。

「渚さん!」

 鉄は横断歩道へと向けて脱兎のごとく駆け出した。渚の向かっている先とは反対のほうになるがこのまま

叫んでいても埒があかない。横断歩道はきちんと気をつけの姿勢をした姿が鉄を迎えた。赤く光り輝く姿は

微動だにしようとしない。

 やがて信号が青く変わると鉄は渚のいた方角に顔を向けたが渚の姿はもうない。

「まったく。」

 雨のせいか人の数は少ない。それにもかかわらず雨の中を傘も差さずに駆けている鉄のことを振り返るも

のは誰もいなかった。

 まっすぐな道を走る。ひたすら走り続ける。周りの背の高いビルが風のように後ろへと飛んでいく。

 公園だった。道を走り続けると、そこには小さな公園が広がっていた。子供の頃遊んだような、滑り台があ

ってブランコがあってシーソーがあってジャングルジムがあって。そしてその公園には小さなドームのようなも

のがあった。穴がいくつか開いていてその穴から中に入れてその穴から外に出る。そのドームのようなも

のの上に滑り台が乗っていて高さを作っているという仕組みだ。

 その中から小さな声が聞こえた。猫の鳴き声だ。ニャーと寒そうに、寂しそうに泣いている。穴から雨水が

入り込み中にも水たまりができていることだろう。鉄はなぜかひきつけられたようにそこに近づくと、そっと中

を覗き込んだ。そこにいるのは猫だけではなかった。小さな体の女の子。洋服が濡れるのもかまわずひざを

抱えて座っている。

「スカート、濡れてますよ。」

 ビクッと体を震わせて少女は顔を上げた。上を向けた大きな瞳をさらに大きく開く。

「羽田さん・・・?」

「風邪ひきますよ。そんな格好でこんなところに座ってたら。」

「どうして。」

「いいですから。とりあえず暖かいところにでも行きましょう。ここからだったらfeatherのほうが家より近いで

すね。さあ。」

「なんで来たんですか。・・・すごい濡れてる。風邪、まだ治ってないんでしょう。いけませんよ雨に濡れたり

したら。」

「ああ、きちんと傘はあるんですよ。まあ、こんな状態でさしても意味がありませんけど。」

「私なら平気です。早く帰って休んでください。」

「そしたら渚さんはどうするつもりなんですか。」

「・・・。」

 口を噤む。

「すぐに帰るんですか。」

「・・・はい。」

 いくらかのためらいの後に小さな声でつぶやく。目はそらされ、もう鉄のほうを向いてはいない。

「嘘ですね。」

「・・・。」

「さあ、一緒に帰りますよ。」

 鉄は穴の中へ手を差し入れると渚の手をつかんだ。しかし渚は先ほどの赤信号のように動こうとはしない。

「早く帰りましょう。」

「なんでですか。」

「え?」

「何でそんなに優しくするんですか。私は羽田さんを・・・。」

「お見舞いに来てくれたんでしょ。」

「え?」

 予期していなかった答えが返ってきたのか握った渚の手から一瞬力が消える。そして明らかに不思議

そうな瞳で鉄を見つめ返してきた。

「渚さんは僕が風邪を引いたと聞いて駆けつけてくれた。そのことに対して感謝の気持ちくらい持ってもい

いでしょう。」 

「でも、それは約束だったから。」

「約束?」

「はい。もし倒れたら看病に行くって。それなのに私なんか邪魔ばっかりしちゃって。羽田さんは気絶させ

ちゃうし、メリルちゃんには嫌われちゃったみたいだし。もう私どうしたらいいか分からなくて。」

「じゃあこんなところにいたら何をしたらいいかが分かるんですか。」

「そんなことないですけど。この子。私が来た時からここにいたんです。一人ぼっちで小さな声で鳴いてて

なんだか私みたいだなって思ったら急にこの子と一緒にここに居たくなったんです。だから、早く羽田さん

は帰ってください。私はここに・・・。」

 その刹那、猫が飛び上がった。ひとつの穴から飛び出していく。

「あっ。」

 渚が別の穴から顔を出す。猫はすっと走っていき低木の茂みに入ろうとするとき、こちらを向いた。ニャー

と鳴く。すると別のところからねこが走って近づいていき二匹で茂みへと消えていった。少しおさまりかけて

いた雨がまた強くなり始めた。

「・・・。」

「・・・。」

「あ、あはは。やだ。私。嫌ですよね。私なんかと一緒にされたら、猫さんだって嫌がりますよね。勝手なこと

言っちゃって。」

 渚の顔を雨の雫が伝っていく。そしてスカートが泥だらけになった制服にしみこんでいった。

「違いますよ、渚さん。」

「違わない。皆私のことなんて嫌いなんです。私だって、嫌いなんですから。」

 はははっ、と笑った。声も笑っていた。顔も笑っていた。心が泣いていた。見る人すべてが悲しくなる。そん

な笑みで。

「僕は渚さんのことが好きです。マスターだってそうだしメリルだってハデルだってそうです。本当のことを言う

と渚さんを追えって言ってくれたのはメリルなんです。」

「メリルちゃんが?」

「あの子は心の優しい子ですよ。もちろんハデルもね。」

「・・・。」

「だから、とりあえず戻りましょう。ここにいても風邪をひくだけです。」

 降り続けている小さな分子がゆっくりと消えていく。強くなった途端に、それは最期の力を出したかのように、

雨は弱まっていった。渚は穴から出ようと悪戦苦闘していた。



「あんた、馬鹿でしょ。」

「うるさいですよ。」

「・・・馬鹿。」

「・・・・・・・・・。」

 頭が痛い。のどが痛い。体がだるい。しんどい。熱がある。咳が出て止まらない。吐き気がしてトイレに何

度も通っている。・・・肺炎だった。

「格好つけるからそういうことになるの。」

「あはは。」

 昨日あれから帰ってきて渚を家に帰したあと、鉄は突然めまいに襲われた。堰が止まらなくなり病院へ行

くと肺炎だと言われ、即入院となった。

「でももう平気ですよ。」 

「平気じゃないでしょ全く。昨日もまだ調子が悪いのにうろうろしてて悪化したの覚えてないの。」

「あれは。」

「せっかく傘持たしてあげたのにずぶ濡れで帰ってくるんだもん。そんなことしてたらいつまでたっても治らな

いわよ。」

「あ、あはは。」

 鉄が笑っている横ではハデルがりんごと格闘を繰り返していた。りんごの皮がザクザク、ボロボロと剥か

れていく。

「はい。」

 そして差し出してくれたそれは通称、芯と呼ばれるものだった。

「ありが・・・とうございます。」

 ニコニコと差し出してくるハデルに厳しいツッコミはできそうに無い。

 コンコン。病室のドアがノックされた。

「はい、どうぞ。」

「し、失礼します。」

 入ってきたのは私服を着た渚だった。おどおどと落ち着かない様子で室内へと足を踏み入れる。

「どうしたんですか。」

「あの、お見舞いです。」

 渚が差し出してきたのは市販のクッキーだった。

「これなら大丈夫ですから。」

「ありがとうございます。」

 渚から包みを受け取る。

「ごめんなさい。」

 不意に渚が頭を下げた。

「私のせいで迷惑ばっかりかけて。入院までさせちゃって。本当にごめんなさい。」

 鉄はメリルに顔を向けた。メリルも同じような表情をしている。

「別に謝らなくていいわよ。肺炎になったのはこいつの責任だし。ねぇ。」

「はい、そうですよ。傘を差さなかった僕が悪いんです。そんなに気にしないでください。」

「でも・・・。」

「ああ。本人がいいって言ってるんだからいいの。分かった?」

「はい。」

 メリルの剣幕にそのままうなずいた渚。それははたから見ても分かることで。

「メリル、怖い。」

「なによハデル。なんか文句ある。」

「別に。」

「とにかくもう気にしないで下さい。」

「はい。」

「じゃあ、食べましょうか。クッキーとりんご。」

「クッキーはともかく、りんごって食べるところあるの?」

「・・・皮?」

 病室に笑い声が響く。六人部屋に一人しかいないため周りを気にかける必要も無い。ナースステーションか

ら苦情がくるまでは大丈夫だろう。

 空は快晴とはいかないまでも太陽が輝いていた。