「早く顔洗ってさっさと行く」

「わかってますよ叩かないでください。」

 朝も早くから羽田家からは賑やかな声が聞こえてくる。

「こら、あんたも早く起きなさい。」

「まだ大丈夫。」

「あんたは大丈夫だろうけどこっちはあんたがそこにいると邪魔なの。」

 白い翼の生えた金髪の少女が黒い翼の生えた紫色の髪の少女を追い立てる。白い羽も黒い羽も少

女たちが動くのに合わせてしっかりとついていく。それもそのはずでこの二人はれっきとした天使と悪

魔なのである。いろいろとあって今は羽田鉄(はねだてつ)のもとで一緒に暮らしている。

 鉄ははっきりいて普通の人間である。ある一点を除いては。まあそれは置いておいて現在19歳の大

学生。カフェ『Feather』でバイトをしている。大学への進学とともにこの町で一人暮らしを始めた。眼鏡を

かけた穏やかな風貌から誰からも好かれることが多く動物好き。ただし今住んでいるボロアパートは動

物を飼えないためやむおえず何も飼ってはいない。趣味と特技はピアノを弾くこととコーヒーを淹れるこ

とだ。そして人と違う点というのが・・・血だ。しかし何も月を見ると変身するとか緑色だとかいうことでは

ない。その血は天使と悪魔にとって最上のものなのだそうだ。天使と混ぜることによっても悪魔と混ぜ

ることによってもその力を飛躍的にあげ、互いに相手の国を滅ぼす戦力となるらしい。ここで先ほどの二

人が来た理由もわかっただろう。二人とも鉄の血を狙ってきたのだ。

「それじゃあメリル、ハデル。留守番頼みましたよ。」

「まっかせといて。」

「おう。」

 鉄はかばんを肩にかけると勢いよく玄関を飛び出した。そしてそのままアパートの階段を駆け降りると

まっすぐに自転車置き場へと向かう。少しは涼しくなったとはいえまだ九月だ。額には汗が浮かぶ。

 『Feather』までは大体自転車で五分といったところだ。大通りから脇道に入り、さらに横道に入ったと

ころにそこはある。この町を囲んでいる山のふもとだ。そんなところにあるため人にはあまり、というかほ

とんど知られていない。来る客と言えば常連さんか道に迷った人か山から降りてきた動物ぐらいである。

 鉄はバイト先にたどり着くと店の前に自転車を止め、体当たりをせんばかりに扉をくぐる。

「おはようございます。」

 言い終わると同時に店の時計に目をやる。八時二十八分。何とか間に合ったようだ。

「はい、おはようございます。」

「おはようございます。」

 鉄が顔を上げると、そこにはこのカフェのオーナーと鉄の見知らぬ少女が立っていた。肩までで切りそ

ろえられた髪に、大きな瞳。ウエイトレス姿の小さな体は緊張の為か少し固まっている。オーナーのほう

はいつものように黒いタキシードをきちっと着こなし、灰色のひげも綺麗に整っている。そして顔にはいつ

もの微笑が浮かんでいた。

「オーナー。その子は。」

 このカフェにはオーナーとバイトは鉄一人だったはずだ。

「この子はわしの娘じゃよ。今日からここで働くことになった。」

「浜田渚(はまだなぎさ)です。よろしくお願いします。」

 渚は体を勢いよく直角に倒す。

「あ、ああ。こちらこそよろしくお願いします。」

 あわてて鉄も体を直角に倒して挨拶を返す。

「どうも、こちらこそ。」

「いや、こちらこそ。」

 二人してそんなことを繰り返しているとオーナーの笑い声が聞こえた。

「二人でいつまでそんなことをやっとるつもりじゃ。準備を始めるぞ。」

 そしてカウンターの中へと向かう。

「はい、わかりました。」

「あの。」

 オーナーに続こうとした鉄の背中に後ろから声がかかる。

「はい、何でしょう。」

 振り返ると渚がおどおどとこちらを見ていた。

「わたしなにをしたらいいんでしょうか。」

「はい?」

 思わず疑問で返してしまう。

「オーナーに聞いてないんですか。」

「それが、おじ・・・いや、オーナーがわからないことは全部羽田さんに訊けって。」

「僕にですか?」

 またまた疑問で返してしまう。

「オーナー。」

「まあそういうことだ。頼んだぞ鉄。」

 オーナーはそういいながらカップを一つ一つ丁寧に磨いている。

「お前ももう大体の仕事は覚えただろう。」

「それはそうですけど。」

「じゃあ大丈夫だ。しっかり教えてやれ。」

「はい。」

 鉄はしぶしぶとした面持ちで渚に視線を移した。

「あの・・・すみません。」

「いや、別にあなたが謝ることではないですよ。」

「でも。」

「いいですから。それでは・・・。」

 辺りを軽く見回してみる。きちんと並べられた食器。コーヒーのビンにいっぱいに詰まった豆。埃ひとつな

い床。

「やることないですね。」

「はあ。」

「それじゃあ・・・少し休んでましょうか。」

「はあ。でも、いいんですか。お仕事しなくて。」

「だって、しかたないでしょう。」

「はい・・・。」



「ただいま。」

 家に帰るとそこは泥棒が入った後のようだった。

「はあ。」

 ため息をついて玄関から上がる。

「メリル、ハデル。どこですか。」

「すー。」

「くー。」

「・・・。」

 返ってきたのは寝息だった。二人は天使(と悪魔)の顔でぐっすりと眠っている。

「今日はまた一段とひどいですね。まったく。」

 鉄はそうつぶやくと一人部屋の片づけを始めた。